4-2節

「せめて五十音順にーー!」

 叫ぶと同時に麓丸は手を伸ばした。驚く家臣たちの顔が並んでいた。

 息の荒い主人に、おそるおそる灌漑が声をかける。

「大丈夫ですか坊ちゃん。だいぶうなされていたようですが」

「ああ、すまん。気にするな、悪質な幻聴だ。そうに違いない」

 そうであってくれと願いつつ、麓丸は辺りを見回した。

 そこは薄暗い洞穴だった。灰色の壁や地面はつやつやしていて、天井には石のつららが何本も垂れている。ひんやりした空気が濡れた体を撫で、身ぶるいさせた。服を絞って振り返る。背後のなだらかな傾斜の下には水が流れており、奥からわずかに光が漏れている。きっとあちらから来たのだろう。

「坊ちゃんを抱えてから、ふと横穴が見えましてな。ふもとまで落ちるよりはと思い、入ったのですよ」

「そうか……しかし灌漑はともかく、おまえたちはよく来れたな」

「わっちは灌漑はんの皿の上でふんばってたからねえ。おかげさまであまり濡れずに済みましてん」

「あたしはほら、すいーっと」

「聞いたおれが馬鹿だった。損した」

 麓丸たちは出口を求めて探索をはじめた。しんとした洞内に、時おり水滴の落ちる音が響く。半乾きだとかえって冷たい空気が肌を刺すようで寒い。山道に降り注いでいた日差しが恋しくなった。

 しばらく歩いていると、前方がやや明るくなった。と同時、曲がり角の先から白い霧が漂い、さらに赤い光が混じっている。鍾乳洞特有の自然現象であろうか。しかし現在地がわからない以上、用心するに越したことはない。

「小夜子、見てこい」

「えー、また毒霧だったらどうするんすか。あれ浴びるとお腹痛くなるんすよ」

「腹痛っておまえの場合どうなるんだ?」

「極限に達したら、そりゃもう公序良俗に反する絵づらになること間違いなしっすね。ていうか無茶ばっかり言うけど、あたしだっていちおう女子っすよ。華の女子高生。JKっすよJK」

「自意識過剰だ。行ってこい」

「鬼畜ー」

 だが、ひょろひょろ飛んでいった小夜子は、すぐさま引き返してきた。

「やばいっす!」

「敵か?」

「違うけどやばいっす!」

 急に語彙力の低下した小夜子をいぶかりながらもついていくと、立ち込める霧の先には、暖簾のれんがあった。

「らっしゃい!」

 麓丸は二度見した。暖簾は、暖簾だ。赤い光は、提灯だ。白い霧は、湯気だ。しかも温かい。らっしゃいと言った人物は、ねじり鉢巻をして、カウンターの向こうにいる。鍋がある。どんぶりがある。いくつか席がある。何よりとても食欲をそそる良い匂いがする。まごうことなきラーメン屋がそこにはあった。

 よもや幻術の類ではあるまいかと疑ったが、ラーメンと考え麓丸はぴんときた。そういえば聞いたことがある。日光周辺のいずこかに現れる、神出鬼没にして極上の味を持つラーメン屋。その名は「僥倖ぎょうこう」だと。よくよく見れば提灯に店名がちゃんと書いてあった。

 足を踏み入れると着座を促された。それも全員だ。妖怪が見えているとなれば只者ではない。しかし敵意は感じられず、サングラスをした角刈りの店主は、にかっと笑うのだった。

「ここはラーメン屋ですよね?」

「あたぼうよ!」

「どうしてこんなところに店を?」

「へんぴを理由に麺がすすれねえとなっちゃ、ラーメン屋の名折れだからな」

 なんと素晴らしい心構えか。聞けばここに居を構えているわけではなく、あちこちを転々としているらしい。それに出されたお品書きがまた男らしかった。品目が「ラーメン」というただ一品のみなのだ。これはぜひともご賞味願いたい。

 ところが値段を見て麓丸は驚愕した。

「五千円!」

「慈善事業じゃないんだぜ。こっちも商売なんだ」

 確かに遠征費もろもろ必要経費は高そうである。もっともな言い分だと思い、ひとまず所持金を確認した。鞄も財布もぐしょぐしょだ。

 結果、小銭が少々、五千円札が一枚となった。足りてしまう……麓丸は逡巡した。ラーメン一杯に五千円も出せるだろうかと。

 しかし、考えている間も魅惑の香りが襲いくる。今は体が温かいものを求めていると言えど、そんなことは関係ない。この香りたるや、どうだ。立ち昇る湯気からでさえ、旨味が感じられる。この味の霞がぎゅっと凝縮され、ただ一つの濃厚たる旨味の塊になるのだ。食べた時を想像してみろ。口いっぱいに喜びが広がり、頬はぎゅんと弛緩し、鼻腔に旨さが抜けていく。己の呼気さえ美味しくなってしまう。幸せはいつでも手招きしているのだ。考えるだけでよだれが出るそれは、もはや蠱惑こわく的ですらあった。

 麓丸は濡れたお札を差しだした。

「こんな状態ですが、受け取ってもらえますか」

「構わんぜ。金は金だ。こうしておけば乾くだろ」

 そう言って店主は、吊るしてあった焼豚チャーシューの横へお札を並べた。

「へいラーメン一丁!」

 家臣たちの視線が痛いほど突き刺さり、特に浮遊霊の、こんな時だけ幽霊ヅラしたうらめしや攻撃にも、麓丸は一瞥もくれず座っていた。

 やがて超絶技巧に裏打ちされる力強い調理の果て、とうとう至高の一品が出された。期待によって喉が鳴るほど生唾を飲み込むというのは、麓丸にとって初めてのことだった。

 まずはスープ。容器の底までくっきり映るほどの透明度を誇り、見た目には油が浮いていない。磨き上げた鏡のように美しく、風のない日の湖畔を思わせた。

 一方で、その内に宿る激情もまた感じられる。あらゆる旨味の結晶が集まった芳潤な香りは、表面上の静謐せいひつさとは相反し、どうしたって隠しきれるものではない。たまらず口に入れた。

 美味いと思った次の瞬間には、だらしなく頬はゆるみ、にへらと笑みがこぼれる。口の中が幸福で溢れた。奇をてらわない鶏ガラベースで作られているが、純度が桁違いだ。各素材の一番美味いところだけをすくい上げ、極限まで昇華しているのだ。味わうほどにいろんな味がする。なのにまったく不快ではなく自然だ。「くう」と万感の息が漏れた。

 そして絡みつく麺がまた絶品だった。黄金色に輝くそれは、もちもちと確かな弾力があるのに歯ざわりが良く、また喉ごしも抜群である。これも特別なことはしていないのだろう。だが、もはや行程上の話や、麺を打った者の心意気等も関係ない。ただ己の身に訪れた幸福を味わい尽くすのみだった。

 きっとこの一品に出会った誰もが言うのだ。「僥倖」と。

 たった一口で虜になった。もう病みつきである。このまま二口三口と、無我夢中で麺をすすらんとして右手が動く。

 しかし、麓丸はその手を押さえ込んだ。一本ずつ指を引きはがし、どんぶりの上に箸を置く。そしてゆっくりと横へ押しやった。

「非常に残念だが、あいにくおれは腹がいっぱいだ。さっきごま団子を食べたからな。さりとて残すのも忍びない。だから、おまえら、ほら、食っていいぞ」

 それだけ言い、止める間もなくそっぽを向いた。呼びかけても振り向かない。家臣たちは顔を見合わせていたが、無言でこぶしを握りしめる主人の背中を見て、静かに食べはじめた。

 ところが、そうして麓丸がじっと待っていると、器が返ってきた。麺も具材も、ほとんど減っていない。

「坊ちゃんの言うとおり、あっしらは妖。食べなくても死にやしません。一口ずつで充分でさ」

「そやよ。育ち盛りやねんからもっと食べやなあきまへん」

「あたしはほら、こう見えてダイエット中っすから。くびれバデェ目指してるっすから」

「おまえら……」

 器を見つめ、ふんと鼻を鳴らした。

「しょうがない奴らだな。そこまで言うのなら食ってやらんこともない。本当に腹はいっぱいなんだけどな」

 再び箸を持った麓丸は、何一つ残さず完食した。

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