僥倖

4-1節

 あめ色のガラス細工のような光が、周囲をあまねく満たしていた。空気そのものが淡くきらめいている。何もない空間だが、どこかなつかしい。心がゆるゆるした。

 暖かな感覚に包まれながら、麓丸はぷかりと浮いていた。ぼんやり身を任せていると、肩ひじ張っていた体から力が抜けていく。南の海の沖にただ浮かんで、流れゆく雲を眺めているみたいだった。このままずっとこうしていたいと、思ってしまいそうだった。

 昔、修業中に頭を怪我して倒れた時にも、ここへ来たことがある。正確に言えば導かれたのかもしれない。数針を縫ったものの別条なく終えたのだが、幼心に不安だったのをずいぶん励まされた気がする。

 麓丸がしみじみ思い出していると、天から音が降ってきた。啓示のように響く声は、やがて鮮明になっていく。それはもっともっと昔から、生まれる前から聞いていた声なのだった。

「麓丸、起きて……」

「母上……おれは死んだのですか?」

「大丈夫。ギリギリアウトよ」

「それ死んでませんか」

「冗談。じきに目覚めると思うわ」

 姿こそ見えないが、微笑む母の顔を、麓丸は容易に想像できた。

 母の曜子ようこは神社の娘であり、結婚前は巫女をしていた。体力はあまりないが、巫女たる務めのために特殊な術が使える。忍の術とは系統が異なり、降霊術や除霊術の応用によって、魂の一部を意識の狭間へ入り込ませることができるのだ。ゆえに現在、曜子の肉体はこてんと眠っている。

「母上は、おれの無事を知らせるためにここへ?」

「それもあるけど、たまにはゆっくり話がしたいなあと思って。ほら、近ごろは麓丸も忙しいでしょう。バイトに修業に学校に」

「なんかすいません」

「いいのいいの、良いことだし。でもここだと時間の流れも遅いから」

「そうですか。なんの話をしましょう」

猥談わいだんでもする?」

「それはやだなあ、実の母親と。なんでそれが一番に出てくるんですか」

「うそうそ。じゃあ好きな人言い合いっこしよう」

「修学旅行か」

「私はね、彦市ひこいちさん!」

「重々承知してますとも。父上は幸せ者です」

「ふふん。麓丸は?」

「おれに好きな人なんていませんよ」

「クラスとかお隣りさんにめぼしい人いないの?」

「それほぼ特定してるじゃないですか。あいつはそんなんじゃないです。単なる腐れ縁というやつでしょう」

「もったいないわね。あんなに麓丸のことを思ってくれる子はいないのに」

「あいつは面白がってるだけですよ。どうもあいつに関して母上は甘い」

「プロポーションだってボン、ボン、ボンのパーフェクトボディなのに」

「ドラム缶かな」

「スリーサイズは上から百、百、百」

「ドラム缶だね」

「興奮しない?」

「人類には早すぎる境地かと」

「あらそう、残念だわ」

「プレゼンが下手すぎました」

「まったく麓丸ってば、おっぺけぺーのこんこんちきなんだから」

「不思議とけなされてる気がしないんですが」

「まあいいわ、そろそろお母さん行くから。くれぐれも無茶はしないでね。どんな時も自分の心を見失わないように」

「肝に銘じます」

 声が遠ざかっていく。きらめきは徐々に消えはじめ、現実の冷たいすき間風が入ってくるようだ。麓丸は頬をたたいた。

 薄まりゆく空間の彼方から「ああそうそう」と声が戻ってきた。

「あなたの部屋のエッチな本だけど、並びがわるかったからジャンル別に並べ替えておいたわ」

「え? え? 何をさらっと、いや、ちょっと、行かないでください母上、その分け方はきつい。母上、母上ーー!」

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