第八話 オーヴァドライブ(3)

「な、な……」

「王太郎!」

 朱鷺恵がほとんど悲鳴に近い声をあげて、倒れ伏した王太郎に飛びついた。そのとき直虎のズボンのポケットで携帯デバイスに着信があり、電話に出てみると古泉だった。

「会話が聞こえていなかったので、そちらの状況を完全に把握していたわけではない。が、数キロ先から魔法によって監視しており、あの異形の怪物が去り、どうやら君らが和解したらしいのを見て、こちらの術者による攻撃を仕掛けさせてもらった」

 直虎はすぐに返事ができなかった。直虎の携帯デバイスに耳をつけている琉歌もまた唖然としている。ややあってから、直虎はやっと訊ねた。

「……なぜ、和解できたと推測できたのなら、攻撃を?」

「危険だからだよ。和解など到底信用できるものではない。彼がいつ掌を返して襲い掛かってくるか、わかったものではない」

 それは実際、そうだった。王太郎の胸臆でいつ怒りが再燃し、ふたたび元の世界を取り戻そうという気になるかはわからない。

「だからって……」

「それに直虎君、危険なのは君も同じだ」

「……なに?」

「時間を操る。これほど強力な魔法はない。君はその気になれば仁羽王太郎と同じくこの世界の歴史を巻き戻すことができる。そんな力を一個人が独占していることは恐ろしいことだ。だが幸い、この世界の魔法はアイテムだ。だから私としては、君から時術を剥奪し、それを海の底に沈めるか宇宙の果てに放逐したいと考えているのだが、どうかね?」

 直虎はすぐには返事ができなかった。自分の頭の上で、想像もできないくらい巨大な思惑の歯車が動いているのを感じる。

 それで思い出すのはヴァイオラが話してくれた、ヨーロッパに伝わる時空魔法の伝説であった。千年前、ヨーロッパの魔法使いたちが時術と空術をめぐる争いを起こし、それを憂いた時の賢者が時空魔法の継承者たちを東洋へ旅立たせたのだと云う。

 強力すぎる力は争いと混乱を呼ぶのだ。それはヴァイオラの話にあったように時空魔法を欲するがゆえかもしれないし、古泉のように時術への恐怖や忌避感によるのかもしれない。例の時空魔法の継承者を東洋に旅立たせた賢者にしたところで、冷静に考えてみれば争いを収めるために二人の継承者をヨーロッパから追放したのである。

「く、そ……」

 ――なんで、なんでこうなるんだ!

「返事を聞こうか」

「あなたが時術の存在を恐れるのも無理はない。だが、こんなことをしたやつと、取引なんて俺はしない!」

「残念だよ」

 古泉のその言葉を聞いた瞬間、直虎は自分が冷たい水に落ちたような気がした。次の瞬間にも古泉の号令一下、こちらを狙っている魔法使いたちが一斉に攻撃を仕掛けてくるのだろう。そんなことは判り切っていたのに、直虎のなかの一種の潔癖が古泉の手を払いのけていたのだ。

 そしてサーベイジ・リコシェッツが、あるいはまだ直虎の知らぬ魔法の数々が放たれようと云うとき、それらすべてに先駆けて琉歌が叫んだ。

「電磁結界!」

 目の眩むような一瞬の閃光のあと、直虎たちの周囲は電流の渦によって包み込まれていた。その雷の嵐による結界が、放たれた弾丸を蒸発させる。魔法を弾き飛ばす。稲妻の渦の向こうに動揺の気配がいくつも起こった。

「る、琉歌……」

 電磁結界とは、直虎も知らない魔法であった。それを使うのがもう一瞬でも遅れていれば、今ごろ直虎も琉歌も凶弾に倒れていたかもしれないのだ。

「あ、危なかった……」

 そう口走る琉歌の顔は強張っていた。口元は引きつっており、笑みはない。まだこの状況は安心できない。

 琉歌が両腕をひろげると電流の渦が大きく立ち上り、四方を取り囲む壁となってそそり立った。直虎たちは、さながら稲妻でできた竜巻の底にいるかのようだった。

「これで少しは時間が稼げるわ。でもどうする? そんなに長くはもたないわよ」

 雷は古来より洋の東西を問わず神の象徴とされ、最強の魔法の一つに数えられてきた。だがほかならぬ朱鷺恵が呼びかけたために、ここには国内外から大勢の魔法使いたちが集まってきている。おそらく敵はすぐに対処するだろう。この結界はじきに破られる。

 電流の結界のなかにいるせいか、役に立たなくなった携帯デバイスを投げ捨てると、直虎は朱鷺恵に抱き起こされている王太郎の傍まで行った。

「おい、王太郎! 生きてるか? 生きてるよな!」

 すると王太郎は、朱鷺恵の腕のなかでうっすらと目を開いて力ない笑みを浮かべた。

「当たり前だろう。俺はこんなところで死ぬような男ではない」

 銃弾が胸を貫通したわりには強気の言葉を吐くものだ。直虎はちょっと安心したが、しかしあまり時間が残されていないのも事実である。

「まだだ! まだ死ぬなよ……生きている限り、おまえは因果の超越者だ。だから俺にはおまえを助ける方法がある!」

 すると直虎の傍に立った琉歌が目を丸くした。

「直虎、あなたいったいなにを……まさか」

 それで直虎は琉歌が自分と同じ結論に至ったことを悟ると、一つ頷いて云った。

「そう、時術のオーヴァドライブだ。過去へ遡って、この状況を未然に防ぐ!」

 直虎は雄々しく云うと朱鷺恵に訊ねた。

「母上、どうすればオーヴァドライブできますか」

 すると直虎の真剣さが乗り移ったように、朱鷺恵もまた真剣な口調で云う。

「全時術を暴走させるイメージで自分の魔法を解き放つのです。そして過去へ向かうか未来へ向かうかを決定する。この感覚は、自分でやってみなければわかりません。成功するかどうかも賭けになるでしょう」

「一か八かということですか」

 だがそれを成功させねば王太郎は助からない。そして電磁結界を踏み破ってきた魔法使いたちに自分たちも殺されるだろう。

 と、琉歌が不安そうに声をあげた。

「でも過去へ戻ると云って、どこまで戻るつもり? 五分前に戻ればひとまず対処はできるでしょうけど……」

「時術の存在を古泉たちが知る以前に戻らなければ意味がないな。となると、ヴァイオラが生きている時間まで戻るということになるのか……」

 だがそれをした場合、ヴァイオラが王太郎のために命を懸けたという選択そのものがなくなってしまう。ヴァイオラにはもちろん会いたいが、それは歴史を巻き戻す罪だった。今この瞬間に世界のどこかで生まれている命も、なかったことになってしまう。

「……くそ。だが、やるしかない」

「待ちたまえ」

 朱鷺恵の腕に抱かれている王太郎が、死にかけているくせに上から目線をして云う。

「歴史を巻き戻すことにためらいがあるのだね」

「……そうだ」

「危険だ。そんな気持ちで時術をオーヴァドライブさせれば、どこへ飛ぶかわからないぞ」

「王太郎の云う通りです、直虎。まず時術をオーヴァドライブさせられるか、させられたとして過去と未来のどちらへ向かうか、過去へ向かうとして暴走するように巻き戻る時間をどこで止めるか、あなたはそれをすべてコントロールしなければならない。成功させるには、タイムリープしたい瞬間を強くイメージすること、その瞬間に執着することが肝要です。中途半端な気持ちでオーヴァドライブを行えば、思いがけない時間に行きついてしまうでしょう」

「それだけではない……」

 と、王太郎が朱鷺恵のあとを引き取り、息も絶え絶えに云う。

「俺たちはたしかに因果の超越者だが、それは裏を返すと、既存の因果から切り離され、見捨てられているということでもある」

「既存の因果から、見捨てられている……?」

 そう鸚鵡おうむ返しに呟いた直虎に、朱鷺恵が相槌を打って云った。

「タイムリープした先の時間に、自分がいるかどうかが分岐点なのです。自分が生きている時間にタイムリープした場合は問題ありません。あなたはそのとき、その瞬間の自分に重なって目覚める。融合憑依すると云ってもいい。そして因果の超越者ですから、他の人と違って記憶を引き継ぐこともできる。しかしもし自分が生まれる前に戻ってしまったら、そのときは二人のあなたが誕生してしまうのです」

「二人の俺が……?」

「そう、自分が生きている時間にタイムリープすれば、まだ既存の因果の流れのなかに留まることができます。しかし一度自分が生まれる前の時間に戻ったら、そこで新しい未来への流れが決定されてしまう。ですから、そこからもう一度未来にタイムリープしたとき、そこはもうあなたの知る未来ではありません。そしてあなたの居場所には、その新しい因果の流れのなかで生まれたもう一人のあなたが存在しているはずです。あなたは自分の歩むはずだった未来から弾き出されてしまう」

「うっかり戻りすぎれば、君は自分の生まれ育ったこの世界を永久に失ってしまう。俺と同じだ。帰る場所のない、因果の漂流者になるだろう。それでも、やるのかい?」

 だんだんと顔色が青くなってきた王太郎にそう問われ、直虎は一瞬で腹が据わった。なにがどうあれ、自分はこの男をこのまま死なせたくないのだ。

「……やるよ。歴史を守るとか、よりよい世界にしてみせるとか云ったばかりですまないが、この今は破棄させてもらう。でも、おまえだけは俺を責められないんだ。だってこれは、おまえを助けるためなんだからな」

 すると王太郎は苦笑いして目を瞑った。

「そうか。なら君が一番戻りたい瞬間を強くイメージするといい。でなくては失敗する」

「俺が、一番戻りたい瞬間……?」

「そうだ。五分前か? それなら俺も君と同じく記憶を引き継いでタイムリープするから、撃たれる前になんらかの対処をできるだろう。それとも朱鷺恵が時術の存在を世界に知らしめる前? その場合、またヴァイオラに会えるな。それとも、もっと前かい?」

 その問いかけが、直虎の心の底の底まで降りてくる。自分が一番戻りたい瞬間、やり直したいと思う場所、それは直虎にもあった。自分の人生に缺落けつらくしていたものを埋めたいと、本当はずっと前から願っていた。

 だがそんな自身の願望に直虎は恐れを感じ、震えそうな声で云った。

「……一番戻りたい過去へ、戻っていいのか?」

「でなくては失敗すると云っているだろう。なにせ初めてのオーヴァドライブだ。戻りたい過去があるなら、その瞬間がもっとも成功率が高くなる。それに……」

「それに?」

「たとえ歴史を変えることになるのだとしても、君の云った通り、俺は君を責められない。おかげで俺は助かるのだから。俺だけは君をゆるしてあげるよ」

 王太郎はそこで長い息を吐き、目を閉じた。直虎は今のが彼の最後の息であったのかと思ってぞっとしたが、王太郎は目を閉じたまま云う。

「やるなら急ぎたまえ。もう時間がない。この電流の竜巻の外側で連中が動き始めた」

 それには琉歌がはっとした顔をして云う。

「空術で把握してるのね」

「ああ、連中どうやら、上から来るぞ」

 そう、この電磁結界、竜巻のように直虎たちの周囲を覆っているが、真上には青空が見えている。彼らがそこに気づきさえすれば、飛行魔法なりヘリから降下してくるなり、いくらでも対処法はあった。

「でも……」

 と、琉歌が直虎を泣きそうな目で見つめてくる。

「直虎、あなたにもやり直したいことがあったの? 取り戻したい、なにかが? それはヴァイオラ? それとも、もっとずっと前?」

「それは……」

 直虎はすぐには答えられなかった。だがもうぐずぐずしている時間はない。直虎は急いで腹を括ると、王太郎の傍に片膝をつき、彼に顔を近づけて尋ねた。

「王太郎、おまえが俺の父上を殺した、正確な日付を憶えているか?」

「一九九八年四月十一日。君の生まれる二ヶ月前だ」

 それで直虎がなにを考えているのか、この場の三人はたちどころに知ることとなった。誰もが衝撃を受けるなか、直虎だけが淡い笑みを浮かべて云う。

「本当はずっと思っていた……もし父上が生きていて、時術をめぐる争いもなく、ごく普通に育てられていたら、どんなに幸せだったろうか、って……」

「馬鹿!」

 琉歌がそう叫んで、直虎に飛びかかってくる。彼女は直虎の胸倉を掴むと、少女とは思えぬ物凄い力で直虎を立ち上がらせ、お互いの鼻先をくっつけて叫んできた。

「なに云ってるの! さっきの朱鷺恵おばさまの話を聞いてなかったの! 一九九八年四月十一日、それはあなたが生まれる前の日付け! その場合、あなたの両親の愛を注がれて育つのはあなたじゃない、もう一人のあなたよ! そこから未来にタイムリープしても、そこにはもう一人のあなたがいるの!」

「それでもいい。その幸福な家族の光景を、俺は見たい」

 直虎の澄み切った言葉に、琉歌が愕然とする。そこへ直虎ははにかんで付け加えた。

「それにあれだけ歴史を守ると云っていた俺が、歴史を変えて幸せになったんじゃ嘘だろう。どこかで帳尻を合わせないとな」

「直虎……」

 琉歌は直虎の胸倉を掴んでいたのだが、直虎の両肩に手を置いてがっくりと項垂れた。

 そんな琉歌を抱きしめて、直虎はその耳元で笑って云った。

「琉歌、もう一度生まれてきても、俺のお姉ちゃんになってくれよな」

「ええ、きっと必ず。たとえ時間が巻き戻っても、忘れないわ。忘れないから……」

 そのとき空に複数の影が躍った。古泉の放った魔法使いたちが、とうとう電磁結界を越えてきたのだ。直虎は琉歌と体を離すと、王太郎と朱鷺恵に向き直った。

「それでは母上、おさらばです」

「直虎……」

 朱鷺恵は直虎ともっと話したいことがあったろう。だが残されている時間は、もう五秒もない。直虎は朱鷺恵から王太郎の体を受け取ると、その重みを抱き留めながら云った。

「王太郎、行くぞ。覚悟はいいな?」

「それは俺の科白せりふだ。君こそ本当にできるのか?」

「一発で決めてみせるさ」

 直虎はそう云うと自分のなかにあるすべての魔法と解き放ち、全時術をまさしく暴走オーヴァドライブさせた。

 全宇宙の時間の運行が、直虎を起点に逆流を始める。

 ――これで本当に歴史が巻き戻ってしまう。俺は俺の世界から永遠に旅立つ。

 だがその点、王太郎に比べれば自分は遙かに恵まれていた。自分は愛する人たちに別れを云えたし、なにより自分の意志でそれを行うのだ。

 だから後悔はしない。

「行くぞ、オーヴァドライブ!」

 直虎の溌剌としたその叫びとともに、過去へ向かっての暴走が始まった。

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