エピローグ(真主人公と真ヒロイン、エピローグにて初めて見参! そして第二章へ続く!)

  エピローグ(真主人公と真ヒロイン、エピローグにて初めて見参! そして第二章へ続く!)


 この宇宙のすべての時間が始まりに向かって物凄い勢いで遡っていくのを、直虎は肉眼ではなく内観で見ていた。もしこのままぼうっと眺め続けていれば、自分は時の原点にまで遡っていただろう。

 だがたった一つの希望、そこへ戻りたいという欲望が、逆流する時間の流れに急制動をかけた。ある瞬間、ある座標に、自分という存在が定着しようとする引力を感じる。

 そして気がつくと、直虎は目を閉じたまま、自分がどこかに立っているのをまず感覚した。次いでまだちょっと冷たい風や、陽射しの温かさに気づく。水の流れる音がする。

「ここは……」

 恐る恐る目を開けると、視界を花盛りの桜の枝が埋め尽くした。 

 ――桜?

 驚いて辺りを見回すと、見覚えのある景色だった。ここは直虎の家から少し離れたところにある、川沿いの遊歩道だ。この遊歩道に沿って何十本もの桜が植えられており、春には地元の人々が花見に来る。そして今まさに桜は盛りを迎えていた。

 季節はまさに春だった。直虎の感覚で云うと、二か月前に過ぎ去った景色が戻ってきたのである。直虎がこの春を夢か幻のように見ていると、背後で少年の声がした。

「十七年前、十七歳だった俺はこの道を怒りに任せて突き進み、君の家へ乗り込んだ。そして君の父親をこの手にかけた……まさしく、あの日に戻ってきたというわけだ」

 その声に直虎が勢いよく振り返ると、そこに背こそ高いが細身でひょろ長い感じのするハンサムな少年が立っていた。黒髪で青い目をした東洋人の少年で、目に輝きがあり、口が少し大きい。だいぶあどけなくなってしまったが、知っている顔だった。

「おまえ……」

 直虎がそこで痺れたように黙り込むと、少年は皓歯こうしもあらわに笑って云った。

「一九九八年四月十一日土曜日……あの日、俺はここにいたから、この瞬間の、十七歳当時の自分に重なってしまったわけだ。一方、このときまだ生まれていなかった君は、この時空の異分子として、突如ここに出現した。お互い記憶を引き継いでいるのは、俺たちが因果の超越者だから。ここまではいいかな、直虎君?」

 直虎はその問いにうんともすんとも云わず、その少年を見つめ続けた。やがて少年が怪訝そうに首を傾げる。

「もしかして、俺が誰だか判らないのか?」

 そう問われて、やっと声を出せた。

「仁羽王太郎、か?」

「そうだよ。それ以外の誰に見えるって云うんだ? それとも若返った俺がハンサムだからびっくりしたかい?」

 直虎は王太郎を頭から爪先まで眺めたあと、彼の目を見て云った。

「……ずいぶん、可愛い顔になったな」

「なんといっても十七歳だからね! ははははは!」

 王太郎は呵々と笑って万歳をした。気のせいか、ちょっと性格まで変わっているような気がする。肉体は若返っても中身は変わらないはずなのだが、もしかすると若返った肉体が早くも精神になんらかの影響を与え始めているのかもしれない。

 ともあれ、直虎は顎に手をあててため息をついた。

「相変わらず背は高いが、なんだか二回りくらい細くなったな」

「このころはまだ身長の方に栄養を取られていたからね。俺が筋肉質になったのは二十歳を過ぎてからなんだ。百万宇宙を渡り歩き、冒険を重ねて強くなっていったんだよ。それはそうと、これからどうするつもりだい?」

「母上に会いに行こうと思う」

 この時代、朱鷺恵はまだ妊娠八ヶ月で直虎を産んでもいない。だから母上などと呼ばれてもわからないだろうが、それは朱鷺恵が普通の人間だったらの話だ。

 王太郎が真顔に戻って云う。

「……時術のことを考えれば、そしてなにより俺が姿を現せば、朱鷺恵の方でもなにが起きたかは了解するだろうな。だが朱鷺恵に会ってどうする?」

「わからない。だが見届けたいんだ。この先、俺の家族がどうなるのか……」

 そこで言葉がちょっと惑った。それは朱鷺恵たちのことを、自分の家族と云ってしまっていいものかどうか判らなかったからだ。

 王太郎はそんな直虎に一つ頷いて云う。

「よし、わかった。それなら行こうか」

「ああ……」

 直虎はそう返事をすると、重い足取りで歩き始めた。


        ◇


 自分が今何歳になるのか、朱鷺恵はとっくに数えることを諦めていた。一九九七年から三九年にタイムリープしたときは十六歳、それから自分の肉体に流れる時間を止め、何度もタイムリープを繰り返すなかで過ごした時間は千年に及ぶ。その果てに今の夫と出会って、年齢については面倒なので子供が生まれたら二十歳ということにしようと思っていた。

 夫の直之は優しい男で、朱鷺恵の事情をすべて知りながらなおゆるしてくれた。

 ――君が歴史を変えなければ、俺たちは存在していなかった。失われた七十億人が敵になっても、今いる七十億人は味方になるよ。

 そう、云ってくれたのだ。

 そしてその日、土曜日のちょうど正午の時間、朱鷺恵は夫に頼んで昼食を買いに行ってもらった。料理をしてもよかったし、一緒にどこかに食べにいってもよかったが、今日はそういう気分だったのだ。

「すぐ戻るよ」

 直之はそう行って出かけていった。義母は朝から用事があって出かけている。そして和室の居間で、冬には炬燵にもなる机に肘を置いてくつろぐ朱鷺恵のお腹のなかには、赤ん坊がいる。朱鷺恵がその胎動を幸せに感じていると、不意にどこからか少年の声がした。

「……本当はこうなる前に俺が出て行ったはずだった。だがここに歴史は変わった」

 知っている声だった。いや、知っているどころではない。魂に刻まれている声だ。千年、彼に会いたかった。

 息を凝らして立ち上がり、障子戸を開けて廊下に出て、そこからさらに庭に面した硝子戸を開けて庭に下りると、そこに二人の人物が立っている。一人は知らないが、もう一人は一日たりとて忘れたことのない顔だ。

「王太郎……遅いわよ。私、もうほかの男と結婚しちゃったわ」

「知っているさ」

 憎らしいことに王太郎はまったく平気な顔をしてそう答えてみせた。まるでもうそのことについては、ずっと昔に心の整理がついてしまっているかのようだ。

 朱鷺恵は少し失望しながら、自分のお腹を抱きしめて、そこに宿る命を守りながら淡い笑みを浮かべる。

「ねえ、私を殺しに来たの?」

「そうだ……と云いたいところだが、今は違う。未来において、俺は戦いに敗れた」

 それで朱鷺恵のなかでも迷いの霧が晴れた。もしそうだとすると、てっきり怒りに塗れているとばかり思っていた王太郎が悠然たる態度で構えていることも、いつのころからか感じているこの胸の喪失感にも、すべて説明がつく。

 朱鷺恵はなにが起こっているのか察しつつも、まだ足りぬパズルのピースを埋めるべく、王太郎の隣に立っている一人の若者に視線をあてた。

「そちらは……?」

 するとその若者は恭兼にも片膝をつき、朱鷺恵に向かって深く頭を垂れた。

「こちらではお初に御目文字いたします、母上。私は真行寺直虎と申します」

「未来からやってきた、君の息子さ」

「息子……?」

 怪訝そうな顔をした朱鷺恵に一つ頷いて、王太郎は朗々と云う。

「なにが起こっているか予想はつくだろうが、一から説明してやるから聞いてくれ」

 そして朱鷺恵は王太郎の口から、王太郎が一度は直之を殺したこと、朱鷺恵は直虎を王太郎と戦わせるべく厳しい教育を施した上で時術を譲ったこと、そして直虎と王太郎が戦いの果てに戦いを終わらせ、しかし王太郎が命にかかわる重傷を負ったために彼を救うべく直虎がオーヴァドライブを試みたことなどを、大雑把に話して聞かされた。

 普通であれば信じない話だが、時術の使い手として何度もタイムリープしてきた朱鷺恵には得心のいくものがある。

 王太郎の話を聞いているあいだ、お腹を気遣って縁側に座っていた朱鷺恵は、直虎を見ると云った。

「いつのころからか、私のなかから時術が失われているのを感じました。それはほんの三十分前のような気もしますし、もっと前からなくしていたようにも思う。これは未来において時術の継承が行われ、過去の私もまた時術を失ったということでしょう。そして私が時術を譲るとしたら、それは我が子でしかありえない。あなたは本当に、私の子供なのですね……云われてみれば、たしかに私の面影がある」

 すると直虎はぱっと顔を輝かせ、胸元をぎゅっと押さえてはにかんだように笑った。

「信じていただけて、直虎は嬉しいです」

「もう少しすれば直之さんが帰ってきますから、上がって待っていなさい。紹介しましょう。直之さんは時術のことも知っていますから、驚くでしょうけどわかってくれるはず」

 すると直虎は慌てた様子でかぶりを振った。

「いえ、それには及びません」

 朱鷺恵はそんな直虎の態度を不可解に思った。

「父親に会いたくないのですか?」

「会いたいです。でも先ほど出かけていかれる父上の姿を陰からこっそり窺って、父上の健在な姿を見ることができて、感動しました。直虎はそれだけで満足です」

 そうして直虎は、片膝をついていたのが立ち上がると、朱鷺恵に微笑みかけてきた。

「どうかこれからも、親子三人、幸せな家庭を築いてくださいませ。直虎の望みはそれだけでございます」

 そして直虎は今にも回れ右して、去っていこうとした。だがその姿にどうにも無理をしているような気配を感じ、朱鷺恵は急いで訊ねた。

「本当に、それだけでいいのですか?」

 すると直虎はちょっと困ったような、傷ついたような顔をした。

「本当は母上に会ってはいけなかったのです。王太郎を助けるためとはいえ、私がこの時代にまで遡るのを選んだのは、父上の生きている未来があってもいいと思ったから。そしてあとはもうなるべく歴史に影響を与えぬよう、自分の存在を消す努力をしなくてはいけませんでした。でも……」

 と、そこで直虎は上目遣いになって云う。

「もし我が儘を聞いていただけるのでしたら……先日、宝塚家に長女が生まれたはずです」

「ええ、琉歌と名付けられたと聞きました」

「はい。その琉歌は、私にとってかけがえのない友人となる者。いずれ時が来れば出会うことになる二人ですから、どうか見守ってやってください。もう一つ、今から十六年後にヴァイオラというイタリア人が父親と喧嘩して実家を飛び出してしまいます。どうか彼女を迎え入れてやってほしいのです」

「……なるほど、その二人については、たしかに承りましょう。しかし私が聞きたいのは、あなたのことなのです」

「私ですか?」

 目を丸くした直虎に、朱鷺恵は一つ頷くと立ち上がって直虎に迫った。直虎に手の届く距離まで来たときには、直虎はすっかり威儀を正して唇を引き締めている。その精悍な顔立ちを見て朱鷺恵はつくづく思った。

 ――未来の私は、この子をどのように育てたと云うの?

 先ほどからの話を聞いていれば、直虎は実の母親である朱鷺恵に対し非常に畏まった口ぶりで話す。育ちがいいと云えるのかもしれないが、親子にしては距離を感じる。そのことに淡い悲しみを覚えながら、朱鷺恵は口を切った。

「あなたは先ほど云いましたね。歴史に影響を与えぬよう、自分の存在を消す努力をすると。世捨て人になって山ででも暮らすつもりですか?」

「それもいいと思っています。でも母上、私はちっとも悲しくありません。いずれ生まれてくるもう一人の私には父親がいる。王太郎と戦う運命も背負っていない。私の歩めなかったごく普通の女の子としての人生を、もう一人の私が歩んでくれる。それを考えると私はとても楽しいのです。それだけで、それだけで直虎は十分、幸せですとも」

 そして春の爽やかな風が三人に吹き付けてきた。直虎が気持ちのよさそうに目を細めたところで、王太郎が茫然と云う。

「……待て、今なんと云った?」

 一方、朱鷺恵は自分のなかの違和感が間違っていなかったことに安堵していた。

「まあ、やっぱり。息子だなんて、おかしいと思ったわ。女の子だって聞いていたのに」

「ふふっ」

 直虎は朱鷺恵と顔を見合わせて笑うと、それからこの場でただ一人呆気に取られている王太郎を見て得意顔になった。

「おまえが父上を殺したあと、母上はこの世界を守るため、俺を厳しく育てる必要があった。それで男の子と云うことにしたわけだ」

「で、では君は……」

 驚倒しかけている王太郎に、直虎は大きく頷いてみせた。

 朱鷺恵は知らぬことだが、以前、直虎は男装の幻術について、ヴァイオラに講釈を垂れたことがある。

 ――目や耳自体は、正確な情報を受け取っている。ところが脳がそれを正しく認識しない。たとえば男装の幻術だと、目は女を見ているのに、脳は男と判断する。耳は女の声を聞いているのに、脳は男の声と思ってしまう。言葉遣いですら、女言葉を話していても相手には男言葉として聞こえる。触ったときの肉体の感触だってごまかせる。しかし真実を知っている場合……つまりその人物が本当は男ではなく女だと知っている場合、脳はごまかされることなく、対象を正しく女として認識する。そういう術だ。

 つまり幻術とは、真実を知ればたちまち破れさる儚い術であった。

 今、王太郎の目に真実が映る。王太郎はぶるぶる震える手で直虎を指差すと叫んだ。

「あ、ああっ! 胸が、ある!」

「はははははっ!」

 直虎はそう愉快そうに高笑いすると、胸を張って腰に手を当てた。

「おまえを驚かせてやれる日が来るとは思わなかった。いつも驚かされてばかりだったから……おまえ昔、自分には俺の幻術なんて通じないと云っていたが、今の今まで見事に騙されていたな。そう、俺の生まれ持った性別は、女なんだよ」

 王太郎は口をあんぐりと開け、そこから魂まで出ていきそうなくらいであった。幼馴染の朱鷺恵ですら、王太郎のこんな顔は見たことがない。それはいつまでも眺めていられそうなくらい面白い見世物だったが、しかしほかならぬ自分が娘を息子として育てたという事実に朱鷺恵は胸が重たくなった。

「直虎、では、私はあなたの一生を……」

 だが直虎はかぶりを振って、朱鷺恵の言葉を遮った。

「なにも云わないでください、母上。どうかお達者で。もう会うことはないでしょう」

 そうして直虎は、今度こそ回れ右して去っていく。その背中に、朱鷺恵は声で追いすがった。

「待ちなさい」

 だが直虎は待たない。ならばと思い、朱鷺恵は大きく息を吸い込むと云った。

紅葉くれは!」

 そのたった三文字にどれだけの力があったのかはわからない。直虎にしてみれば意味不明の言葉を投げかけられただけだったろう。しかし、それでも立ち去りかけていた直虎はその場に足を縫い止められ、肩越しに朱鷺恵を振り返った。

「母上、くれはとは……?」

 朱鷺恵は一つ深呼吸をすると、直虎に与え損なったものを与えるべく云った。

「生まれてくる子が男であれば直虎、女であれば紅葉。そう名付けようと決めていました。この子のための名前でしたが……」

 朱鷺恵はそう云って自分の腹を撫でると、その手を直虎に向かって差し伸べた。

「……あなたにあげましょう」

 そのときの直虎の顔たるや、ただただ茫然としていた。感動しているのではない。喜んでいるのとも違う。さりとて拒んでいるのでもなかった。途方に暮れている、と云うのが一番近いであろう。

 だが自分が生まれる前の時代にタイムリープしてしまった直虎は、この世界のどこにも居場所がないし、帰ることのできる未来もない。そんな我が子に自分がしてやれる唯一のことといったら、朱鷺恵はほかに思いつかなかった。これから生まれてくる子には、また別の名前を考えてやればよい。

「……それから姓は時坂を名乗りなさい。私の旧姓です。本来時術を受け継ぐ家系は時坂ですし、今はもう名乗る者もいませんから、都合がいいでしょう」

「ときさか、くれは……」

 直虎はまだ自分に馴染まぬ名前をたどたどしく繰り返すと、朱鷺恵に深々と頭を下げ、それから回れ右して走り出した。庭を突っ切り、塀を蹴ってほとんど垂直に駆け上がると、塀の天辺に両手をついて体を持ち上げ、その勢いのまま前転し、実に身軽に塀を乗り越えていった。

 そんな直虎の去っていった方を見て、重荷をおろしたようにため息をついた朱鷺恵に、このとき王太郎が近づいてきた。

「思い出したよ、子供のころの戯れ言を。将来自分に子供ができたら名前をどうするかなんてことを、宛もないのに考えて、女の子だったら紅葉にすると君は云っていた」

「よく憶えてるわね」

 朱鷺恵が笑いを含んだ声でそう云うと、王太郎は軽く肩を竦めた。彼は自分を百度殺しても飽き足らないはずである。それが今は穏やかに話ができていた。彼をこのように変えたのは直虎であり、琉歌であり、ヴァイオラなのだろう。もう行き着くことのない、失われた未来において、彼はこの世界をゆるしてくれたのだ。

 それができたのが自分でなかったことに歯がゆさを覚えながらも、朱鷺恵はそれをおくびにも出さず、ただ手を合わせて王太郎をいきなり伏し拝んだ。

「王太郎、お願い! こんなことを頼めた義理ではないけれど、紅葉のことをお願いします。同じ因果の超越者としての苦悩と孤独を、あなただけが解ってあげられる」

 すると王太郎はため息をつき、前髪を掻き上げて直虎の去っていった方を見た。

「ふん。まあ、いいだろう。彼……いや、彼女には助けてもらった借りもあるからね」

「その言葉を聞いて安心したわ」

「云っておくが、君のためではないぞ?」

 安堵して微笑む朱鷺恵に、王太郎はそう冷たい釘を刺した。どうやら彼は、直虎たちに絆されてはいても、朱鷺恵のことを許せてはいないのだ。昔のようには戻れない。そうと悟って、朱鷺恵は嘘の笑顔を見せた。

「ええ、わかっているわ」

「そうか。じゃあな」

 王太郎は出し抜けに地を蹴り、空術で空へ舞い上がった。視線は地上に放たれており、どうやら直虎を追いかけて飛んでいくらしい。

 その小さくなっていくかつての恋人の姿を見送りながら、朱鷺恵は一人呟いた。

「そしてあなたの孤独も、紅葉だけがわかってあげられる……」

 今や直虎と王太郎はともに自分の世界を失った因果の超越者であり、漂流者でもある。その悲しみはお互いにしかわかるまい。

「もう私はあなたの隣にいられない。そのことが、少し悲しいけれど……」

 そのとき玄関の方で「ただいま」と云う声がして、直之が帰ってきた。庭先に佇んだまま、跫音あしおとが近づいてくるのを待っていると、やがて廊下に直之が姿を現す。

 彼は庭に朱鷺恵が立っているのに気づくと目を丸くして、手に持っていた白いレジ袋を掲げてみせた。

「朱鷺恵、たこ焼き買ってきたけど……どうしたの?」

 すると朱鷺恵は泣きながら直之に向かって走り出した。泡を喰ったのは直之だ。

「ちょっと、走っちゃ駄目だって!」

 直之は靴下のまま庭に下りて朱鷺恵を抱き留めた。涙する妻を前にして、直之はどう声をかけていいのかわからない様子だ。

「本当に、いったいどうしたの?」

「終わったわ。全部、全部ね……」

 朱鷺恵はそう云って、夫の胸に頬をあてた。王太郎はもう来ない。時術も失われた。自分たちは幸せになれるだろう。

 だとしても、もう一人の我が子の行く末を思うと涙が止まらなかった。


        ◇


 真行寺邸を脱出してきた直虎は、そのままひた走って、タイムリープしてきた直後に目覚めたあの桜の花が舞い散る川沿いの遊歩道までやってきた。

 そこまで来ると遊歩道を歩きながら息を整えた。やがて右手に対岸へ渡る橋が現れ、直虎は遊歩道を右に折れて橋に踏み出すと、その橋の真ん中に立って川下の方へ目をやった。欄干から川の流れを覗き込めば、桜の花びらが水に乗って流れていく。

 あの花びらはどこへ行くのか。そして自分はどこへどうなるのか。

 直虎がこの先の自分の運命に想いを致していると、背後に人の立つ気配がした。振り返らずとも誰だかわかる。

「直虎君」

 やはり王太郎であった。だがそれはともかく、訂正せねばならぬ。

「違う、真行寺直虎はもういない」

「おっと、そうだったな。君の名は……」

 王太郎が皆まで云うよりも早く、直虎は勢いよく振り返るとそこで大見得を切った。

「時坂紅葉、初めて見参!」

 このとき直虎は紅葉になった。どう生きていくかもわからないまま、ただ紅葉として生きていくのだということだけは決めた。

「そうか……俺は今、初めて君に出会ったんだな。これが俺たちのボーイ・ミーツ・ガールか……」

 王太郎はしみじみとそう云ったのだが、紅葉はそれに物云いをつけずにはいられない。

「は? 少年ボーイ? 誰が? 俺は十七歳の少女ガールだが、おまえは中身三十四歳の壮年ミスターだろ、おじさん」

 すると王太郎は、おかしいことに剥きになって紅葉に喰ってかかった。

「いや、少年だよ。若返っただろうが、どう見ても。君こそ女として生きていくなら、その言葉遣いをなんとかしたらどうなんだ?」

「急には無理だ」

 紅葉が真面目に云うと、王太郎は小さく噴き出して笑い声をあげた。その笑い声が反響するかのように、紅葉もいつしか笑い出していた。

 やがて真顔に戻った王太郎が、紅葉に尋ねてきた。

「それでこれからどうするつもりだい?」

「わからない。父上が生存しただけでも歴史は変わる。そこへ俺の存在が加われば、変化はより大きなものになるだろう。それを阻止するためには、極力この世のすべてと関わらないことが重要だが……」

「そう思うなら、俺と一緒に来ないかい?」

 その提案に紅葉は驚きながら王太郎を見上げた。

「おまえと一緒にと云うと……」

「異世界だよ」

 それが存在することは、もうわかっている。だが自分がそこへ行くとなるとまた話は別で、どうにも現実感が伴わないでいた。

 そんな紅葉の前で王太郎が朗々と語る。

「俺には俺の帰りを待っている人たちがいる。ユニバース・トーラスに、ジェミニに、キャンサーに、レオに……つまりは、異世界に。君はこの宇宙の時間を巻き戻したが、他の宇宙の時間はそのままだからね。問題は、俺がこのように若返ってしまったことについて、妻たちが文句を云ったり、息子たちに舐められたりしないかということだな」

「……そういえばおまえ、妻や子供がたくさんいるとか、ふざけたことを云ってたな」

「うむ。男は十七年に亘って複数の世界で冒険していると、ハーレムの一つや二つは作ってしまうものなんだ。で、話を元に戻すけど、君も一緒に来ないかい?」

 そう云って、王太郎は紅葉に手を差し伸べてきた。大きな、温かそうな手であった。紅葉はその手をじっと見つめてから考え考え云う。

「……なぜ、俺を誘うんだ?」

「そもそも君が時術をオーヴァドライブさせたのは俺を救うためだ。つまり君が元いた世界を失い、因果の漂流者となったのは俺にも責任がある。そして俺たちは無限に存在する宇宙でたった二人しかいない、因果の超越者だからな」

「……それだけか?」

 すると王太郎の目が一際強い輝きを放った。

「いや、一番大きな理由は、俺が君を気に入って、君の居場所を見つけてあげたいと思ったからだよ。俺が勢力を持っている十一の異世界、あるいはまだ未踏の異世界に、君が君らしく生きられる場所がきっとある。それを探してほしい。見つけてほしい。だから俺と一緒に行こう! 君の居場所が見つかるまで、俺も付き合ってあげるからさ!」

 その言葉はたしかに紅葉の心を打った。だがそれ以上に王太郎の変化に驚かされた。

「……おまえ、やはりちょっと変わったか?」

「十七歳だからね! そろそろ今まで築き上げたものを守るようになっていたけれど、どうやらもう一度大冒険ができそうだ!」

 その大冒険に、自分は巻き込まれようとしているのだろう。だがそれもいい。紅葉はそう思ってわらった。

「……そうだな。どうせ元の世界を失ったんだ。中途半端にここに留まるより、いっそ新天地で自分の道を探してみるのもいいかもしれない」

 その言葉を聞いて王太郎が相好を崩した。

「では、紅葉君」

「ああ、よろしく頼む」

 紅葉はそう云って、差し伸べられている王太郎の手を取った。王太郎がその手をぎゅっと握り返してきたかと思うと、二人はたちまち空へと舞い上がる。

「お、おい!」

 空術で浮かんでいるのだとわかったが、いきなり空へ引っ張り上げられて紅葉は少しばかり動揺した。足元の景色が遠ざかり、家々が小さくなっていく。それに比して風は凍えるほど冷たくなってきた。

「な、なぜ飛ぶ必要が……?」

「俺はいつも空術をオーヴァドライブさせるとき、空から行くんだ」

 そして王太郎は手をつないだ紅葉を振り回すように、回転軌道を加えながら上昇していく。それがあるとき、急に紅葉の手を離した。かと思うと、王太郎はすばやく紅葉の下に回り込んで紅葉を抱き上げ、なおも上昇する。

「ちょっと……」

 思いがけなくお姫様抱っこのかたちになって紅葉は脚をばたつかせたが、王太郎はそんな紅葉の戸惑いをねじ伏せるように云う。

「さあ、では行くぞ。大いなる勇気と自由な夢を胸に、まずはユニバース・サジタリアスへ向けて――」

 王太郎と身を接している紅葉には、彼の魔法が暴走を始めるのがわかった。全空術が猛々しくうねり、宇宙の壁を突破しようとしている。

 それで紅葉はもう抵抗するのを諦めて、王太郎と同じ方向を見た。空の果て、この青には窮みがない。その無窮の空を突き抜けていくのが、空間の禁呪なのだ。

 その瞬間、紅葉は無意識のうちに王太郎の首に腕を回し、彼に身を寄せていた。少しばかりの不安に苛まれたこの心に響くのは、王太郎の言葉だ。

 ――大いなる勇気と、自由な夢を胸に。

「オーヴァドライブ!」

 そして空の果てを突き抜け、この宇宙を去った二人の、新しい冒険が始まった。


 第一章 ユニバース・アリエス篇完

 第二章 ユニバース・トーラス篇に続く


▼あとがき

 ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

 もうお気づきかと思いますが、この物語の真の主人公は王太郎です。エピローグで敵が主人公に、主人公がヒロインに、それぞれの立場を改めたかたちで第一章が終わり、第二章に続くというのがやりたかった。


 さて、しばらく先になるとは思いますが、第二章は時間軸を戻して「王太郎16歳、初めての異世界転移ワールドシフト」ということで、直虎の父親を手にかけたあと、世界と戦うために仲間を求めて異世界へ旅立つところから始めようと考えています。

 将来的には空術のオーヴァドライブとして異世界転移能力を持つ王太郎が12の世界を股にかけて大冒険する話がやりたいな、と。

 ユニバース・アリエスは現代日本をベースとした魔法のある世界、ユニバース・トーラスは剣と魔法のファンタジー世界、ユニバース・スコーピオンは中華ファンタジー世界、ユニバース・サジタリアスはスペースオペラ、というように。


 ただ第一章だけは王太郎ではなく直虎が主人公です。だって王太郎、最後は負けを認めて道を譲ってしまうからね。勝つ方を主人公にしました。

 とはいえ直虎(紅葉)も一度主人公をやった以上、主人公力は非常に高く、ユニバース・サジタリアスの物語を書くときにはまた主人公として復活するかもしれません。ユニバース・サジタリアス篇は王太郎35歳で第一章の直後の話を考えているため、少なくとも出番はあります。

 空術と対をなす時術の継承者ですし、男女ダブル主人公としてやっていくのもいいかな、と。


 一応、第一章が現代魔法バトルの皮をかぶっているのでジャンルは『現代ファンタジー』としましたが、本当はSFを書いているつもりです。しかし第二章が始まったら異世界転移の要素も入ってくるし、なろう版ではたしかサイトのルールで『異世界転移』タグをつけなければいけないはずだったので、色々とネタバレになるのが困りものではありますが、ルールなので仕方ないですね。


 それでは第二章ユニバース・トーラス篇でお会いしましょう。

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時空戦記オーヴァドライブ 太陽ひかる @SunLightNovel

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