第六話 いのちの最前線(2)
「近寄るな!」
駆け出そうとした直虎たちは、その言葉でつんのめるように立ち止まってしまった。
ヴァイオラは慈しむ者の目をして、王太郎の頬を撫でてやっている。直虎はその姿に侵しがたい聖なるものを感じてしまった。
「シザーリオ、おまえ……」
「シザーリオじゃないよ。今の私はヴァイオラだ」
ヴァイオラは黒焦げになった王太郎の体のいたるところを愛撫しながら、自らのうちに眠る魔法を揺り起こしつつ、なおも話し続けた。
「彼がどうして十七年も待ったかわかるか? 直虎に真実を告げたのは? 琉歌が頭から落下するところも救ったし、君たちが二人がかりで挑んでくるのも認めた。彼も迷っていたんだ。だから君たちに全部教えて、力をめいっぱい出させて、それを全部打ち砕くことで自分の迷いも打ち砕こうとしていた。そういう人だから、きっとわかってくれる」
すると琉歌が目に角を立てて、言葉でヴァイオラを突き刺した。
「わかってくれなかったら、どうするの?」
「わかってくれるさ」
確信しているのか、夢を見ているのか、それとも祈っているのか、直虎には判然としない。一つはっきりしているのは、ヴァイオラが魔法を使うつもりだということだけだ。
「おまえの回復魔法は、死者の蘇生もできると云ったな」
「うん。死亡直後で、死体もほとんど完全なかたちで残ってる。私ならできるさ」
「しかし、おまえ、心臓が――」
「日本に来てから体の調子がいい。武術の稽古をしているときだって、一度も倒れなかったろう? 案外、治っちゃったのかもよ」
そこで言葉を切ったヴァイオラは、なにが楽しいのか肩を揺すって笑うと、王太郎を膝枕したまま天を仰ぎ見た。
「さて、準備は終わった。いよいよだ」
準備とは、回復魔法をかける上での精神統一や、王太郎の体を愛撫することでなにか布石を打ったのであろう。ここからが回復魔法の本番に違いない。直虎はそうと察して、黙ってはおれなかった。
「俺はまだおまえの回復魔法を見たことがない。心臓に負荷がかかるなんて話を聞かされていれば、見せてくれとも云えないし……まさかそれを、こんなかたちで見ることになるとは思わなかったぞ。どうしてもやる気なのか」
「うん。君が琉歌を助けたいと思ったように、私も彼を助けたい。この一日でそう思った。久しぶりに女の子扱いされたせいかな。私も案外、ちょろいもんだ……」
そう自嘲気味に笑ったあと、ヴァイオラは一転して真剣な顔をし、長い息を吐いた。次の瞬間、ヴァイオラが激しく咳き込んだ。
「ヴァイオラ!」
琉歌が血相を変えて駆けつけようとしたが、それを遮るように、突如ヴァイオラを中心とした巨大な炎の花が咲いた。
「なっ!」
あまりのことに直虎は琉歌を庇って一歩後ろへ退いた。ヴァイオラを中心とした炎が円を描いて広がり、火の粉が花粉のように飛ぶ。熱いが、火傷をしそうな危険は不思議と感じない。
「これが癒しの魔法だと……」
「なんて綺麗な、炎なの。炎の回復魔法だなんて……」
直虎は琉歌とともに炎の花に見入りながら、一年前、ヴァイオラから聞いた回復魔法についての話を思い出していた。
――回復魔法にも色々あるけど、トッティ家のそれは魔法の行使に伴って自分の命を燃焼させるんだ。命のエネルギーを爆発させるのさ。
そしてヴァイオラの声がする。
「燃えよ、我が命の炎。燃え盛って、炎の絶えし者に炎を伝えよ」
――ああ、駄目だ。もう止められない。
直虎にはなにが正しいのかわからなかった。ヴァイオラの好きにさせてやりたい気持ちもあるし、その一方で世界の敵である王太郎を蘇らせようなど言語道断、阻止して当然、ヴァイオラの心臓に負担があるなら尚更だとも思う。他方、母が旧世界の人々にしてしまった歴史の改竄という大罪をどう償えばいいのか、未だ答えは見えない。
ただ後悔はしたくなくて、直虎は炎の向こうにいるヴァイオラに向かって叫んだ。
「ヴァイオラ、俺は結局、世界のことなんてよくわからなかった! この世界の成り立ちが正しいとも云い切れない! 王太郎の方が正しいんじゃないかとすら思った! その俺が戦ったのは俺の親しい人を守るため、それだけだ! そのなかにおまえも入っているんだぞ! わかっているのか、ヴァイオラ!」
すると王太郎ばかり見ていたヴァイオラが初めて顔をあげ、炎の向こうから直虎を見て
「直虎、ありがとう」
初めて会ったとき、直虎は死を恐れないと云うヴァイオラを儚く透明な存在のように感じた。だが今はなんと力強く、美しいことだろう。
「……ヴァイオラ。今でも死ぬのが、怖くないのか?」
「いや、怖いよ。女の姿に戻ったら、たまらなく怖くなった。でも、生きるか死ぬかわからなくても、やり遂げたいことがあるんだ! 命を全部、ぶつけてやる!」
ヴァイオラはそう叫ぶと、ふたたび王太郎に眼差しを据えた。そして。
「炎を伝えよ……サクリファイス!」
そのときヴァイオラの命は丸ごと炎となって燃え上がり、王太郎の命にもう一度火をつけようとしたのだ。輝く炎がヴァイオラを包み込み、直虎も琉歌も直視できないほど眩しかった。
その眩しさをどうにかやり過ごしながら、直虎は炎の向こうを見ようとした。炎のなかでゆらりと立ち上がる大きな人影がある。
――あれは。
直虎が目を凝らそうとしたとき、炎はその人影に吸い込まれるようにして小さくなっていく。それで直虎にもやっとわかった。
――そうか、この炎はヴァイオラの命そのもの。命を燃やし、命の炎で人を癒すのが、ヴァイオラの家に伝わる回復魔法の在り方なんだ。
それはもとより自己犠牲の性質を帯びていた。だから炎が燃え尽きたとき、ヴァイオラもまた燃え尽きていたのかもしれない。
炎の花が散ったそこには、王太郎だけが立っていた。肉体の傷はすべて癒え、黒焦げになっていた肌も髪も元に戻っている。そしてヴァイオラは、そんな王太郎に抱き上げられているのだった。
王太郎がヴァイオラの顔を覗き込んで云う。
「闇のなかで君の声が聞こえていたよ。どうしてこんな馬鹿なことをした? 俺は君の世界を滅ぼそうとしている男なのに」
するとヴァイオラはうっすらと目を開け、最後の力を振り絞って頭を起こすと云った。
「私がそうしたいと思ったからさ。たとえ馬鹿なことでも……」
すると王太郎はひどく悲しそうな顔をした。そんな王太郎の顔に、ヴァイオラは手を伸ばしながら云う。
「もうやめよう。こんなことして、誰が幸せになれるんだよ。あなた本当はいい人だからさ、この世界でだって、きっと居場所を作れるよ……なんなら、私が居場所になってあげても……」
そこでヴァイオラは激しく咳き込んだ。聞いている方の胸が痛くなるような咳き込みようだ。やがて咳の合間に、ヴァイオラが息苦しそうに云う。
「あれ、おかしいな……胸が、痛い……」
そこで王太郎の顔に伸ばしていたヴァイオラの手がぱたりと落ちた。右腕がだらりと下がって、それきり動かなくなる。
直虎は一気に恐怖の底へと落ちていった。なぜヴァイオラは動かないのだ? その理由を確かめるのが、怖くて怖くてたまらない。琉歌もまた凍りついている。
そのうちに王太郎がその場に片膝をつき、静かにヴァイオラを横たわらせ、両手を組ませてやった。直虎と琉歌はいつしかともに身を寄せ合って、恐怖に包まれながら息を呑み、その様子をじっと見つめている。確かめるのが怖い。だがいつまでも怯えてはいられない。直虎は勇気を振り絞って、友の名前を呼んだ。
「ヴァイオラ?」
「死んだよ」
王太郎はそう云うと、ベルガリウスソードが落ちているところまで歩いていってそれを拾った。剣にふたたび青い炎が灯る。
それを茫然と見ている直虎に、王太郎は眼差しを据えて云った。
「どうやら運命はまだ俺を見放していないようだ。では勝負の続きと行こうか」
直虎はまず呆気に取られ、それから信じられないとばかりに目を剥いた。
「なんだと、貴様! ヴァイオラの最後の言葉を聞かなかったのか! ヴァイオラが命を懸けたのに、まだやるつもりなのか!」
「故郷を失ったことのない君に、俺の気持ちはわかるまい」
直虎は王太郎に途轍もなく高く堅固で巨大な壁を見ていた。それは王太郎という男の、目的を成し遂げようと云う意志の壁だ。その強さには感服するが、それにしてもヴァイオラが命をぶつけたのに崩れないとは、なんと憎らしい壁であろう。
「おまえ、おまえ、ふざけるなよ……これ以上は許さないぞ!」
「許さなければどうだと云うのかね? 同じ手はもう通じないぞ」
そう、琉歌はもう手の内をすべて見せてしまった。直虎にしたところで体術、幻術、時術と技と魔法を出し尽くしている。しかるに王太郎にはまだまだ底知れないところがあり、これ以上戦えばこちらが不利だ。
それでも、ヴァイオラの命を無駄にしようと云うこの男には、絶対に負けられない。
直虎の隣では琉歌もまたいつでも飛びかかれるよう身構えていた。
そしてふたたび戦いの火蓋が切って落とされようとした、まさにそのときだ。
「アストラル・チェーン!」
聞いたこともない男の声とともに、魔力で編まれた鎖が四方八方から伸びてきて王太郎を拘束しようとした。王太郎は鎖の第一波を体術だけで回避し、第二波が来るに及んでは空術を使って空中へ逃れた。そこへいきなり戦闘ヘリが現れて、ヘリから身を乗り出した男が王太郎に向かってアサルトライフルで銃撃した。
「この俺に銃など!」
だがばらまかれた弾丸は複雑怪奇な軌道を描き、ありとあらゆる角度から王太郎に襲い掛かる。
「サーベイジ・リコシェッツ!」
銃撃した男が放ったその言葉は、魔法の名前であろう。魔法で弾丸の軌道を操っているのだ。それを空間の壁で防ぐ王太郎を、直虎はただ茫然と見ていることしかできない。
「なんだ! なにが起こってる?」
そうこうしているあいだも、戦闘ヘリが一台また一台と姿を現した。これは魔法で姿と音を隠していたのが、魔法迷彩を解いて出現しているのだ。
そのヘリの一台が直虎たちの傍に急降下してきて、ヘリの扉が開き、そこから妙齢の美女が身を乗り出した。
「直虎!」
「は、母上!」
現れたのは朱鷺恵であった。朱鷺恵はヘリがホテルの屋上に近づくのを見るや、それ以上は待てぬとばかりに身を投げて飛び降りた。かなりの衝撃があったのだろう、着地した体勢のまま痛そうに顔をしかめている朱鷺恵に、直虎は琉歌とともに駆けつけた。
「母上、これはいったい……」
見上げる夜空では、空術を駆使して空を舞う王太郎に数台の戦闘ヘリが群がり、魔法使いや特殊部隊の兵士たちと思しき男たちが攻撃を仕掛けている。それを見上げて、朱鷺恵は云った。
「白い魔女と呼ばれていた時代の
そう聞いて唖然としている直虎を、朱鷺恵はおかしそうに笑った。
「時間がなかったからこれだけだけど、私はその気になればこの世界を動かせるのよ」
それから朱鷺恵は辺りを見回し、ヴァイオラが倒れているのを見て息を呑み、それから曇った顔で琉歌を見た。
琉歌が問わず語りに云う。
「色々あったんですよ。直虎もヴァイオラも、そして私もね」
その砕けた物云いで、朱鷺恵は琉歌に起こった変化をすぐ察したようだった。
「驚いたわ。心が戻ったのね」
「私も驚きました。おばさまが直虎のために援軍を連れてくるなんて。しかし王太郎が相手では……」
その言葉を聞いて、直虎もはっと息を呑みながら夜空を仰ぎ見た。魔法使いや特殊部隊はもちろん強い。だが空術使いの王太郎がその気になれば、彼らを皆殺しにすることなど容易のはずだ。そう思ったのだが、夜空で王太郎は守りに徹し、反撃するどころか追い詰められているように見えた。
そんな王太郎を見上げて朱鷺恵が云う。
「並の魔法使いならとっくに殺されているわ。でもさすがは王太郎、まだ凌いでいるわね」
「しかし母上、空術で反撃されたら、ヘリなんか簡単に落ちますよ」
「反撃されたらね。でも今のところ彼にその気配はないわ。私にはわかる。十七年前、身重の私を見逃してくれたときからわかっていた。王太郎はこの世界を消す気でいるけど、その行為を恐れているし、自分の手で人を殺すのも必要最小限にしたいのよ。私たちにとっては消されるのも殺されるのも一緒だけれど、王太郎にとっては違うのでしょうね」
さすがにかつて恋人同士だっただけのことはある。朱鷺恵はまさに王太郎の強さも弱さも知り尽くしていた。
と、そんな朱鷺恵に琉歌が恨みがましそうに云う。
「それをもっと早く教えてくれていれば、そこに付け込む作戦もあったでしょうに。それに朱鷺恵おばさまはおっしゃいましたわ。ヴァイオラが王太郎には大勢であたるべきだと提案したとき、『世界対王太郎という構図に持っていくことはたやすい。しかしそれで王太郎に勝てるのでしょうか?』と。それなのに、これはいったいどういうことです?」
その責めるような言葉に、朱鷺恵は大きく頷くと云った。
「その通り、だからこれは賭けなのです。王太郎の持っている力、つまり彼の云う『仲間』の戦力が、私の想定しているよりはるかに小さいものだと仮定しての行為。だから私は直虎を助けるつもりで、悪手を打ったのかもしれない。でも時術を伝授し、魔法使いでなくなってしまった私にできることは、もうこれしかなかったのよ」
朱鷺恵は琉歌にそう答えると、直虎に眼差しを据えた。
「直虎、私はあなたに世界の命運を託すつもりだったわ。時術と空術は対等、一騎討ちなら勝ち目もあると。でも歴史の真実を知ったあなたがあんなにも動揺するとは思わなかった。あのとき私は初めて、あなたが負けるかもしれないと思った。あなたを失うかもしれないと思ったら、急に怖くなったの」
「は、母上……」
直虎は今まで生きてきたなかで、もっとも大きな衝撃を受けていた。王太郎から歴史の真実を明かされたときだって、これほど心を揺さぶられはしなかった。いつも厳しかった朱鷺恵が、生まれて初めて、直虎にこんなにも優しく愛に満ちた言葉をかけてくれている。
「急に怖くなって、古泉さんに助けを求めたわ。古泉さんのことは知っているでしょう、日本魔法界の長老と呼ばれている方よ。私が時術のことを明かし、王太郎が歴史を変えて世界の消滅を企んでいることを明かすと、彼はなにをおいても協力すると約束してくれた」
それで実際に今、この短い時間で駆けつけてくれた友軍により、王太郎は空の彼方へと追い詰められつつある。
空に戦いの音を聞きながら、このとき直虎は朱鷺恵を惚れ惚れと見つめた。
「母上、直虎は、嬉しいです」
「今まであなたには母親らしいことなんて、なにもしてあげられなかった。これが最初で最後だと思うけど……」
「最後?」
その不吉な言葉に直虎が怖くなったとき、朱鷺恵は琉歌に向かって云う。
「琉歌、直虎のことをお願いね」
それに琉歌が一つ頷いたのを見て、朱鷺恵は夜空を仰いで叫んだ。
「王太郎! 私はここよ! 意地があるなら下りていらっしゃい!」
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