第六話 いのちの最前線(3)

「は、母上?」

 いったい朱鷺恵がどんな気を起こしたのか、直虎にはさっぱりわからない。朱鷺恵は数歩前に出て、直虎に背中を向けたまま云う。

「直虎、七年前、私はあなたに戦いのバトンを渡した。でも今は、そのバトンを返してもらうわ。ここからは私の戦いよ。私も、彼に自分の命をぶつけてみたいの」

 朱鷺恵がそう云ったとき、王太郎がホテルの屋上を見下ろして叫んだ。

「朱鷺恵!」

 そして次の瞬間、ヘリが夜空にぴたりと静止する。小さな重力源を発生させ、そこにヘリを釘付けにしたのだ。空間で座礁させたとも云える。

「ヘリを落とさない……やはり、甘い……」

 朱鷺恵はそう云ったが、ともかく重力場にとらわれたヘリと、それに乗っていた者たちは身動きが取れなくなってしまっている。

 こうして辛くも猛攻をしのいだ王太郎が、剣を片手に下りてくる。鮮やかな着地を決めた彼は、朱鷺恵を見るなり気色ばんだ。

「これはいったい、どういうことだ? なぜ第三者を巻き込んだ?」

「時術を失った私にできることはこれだけだからよ。これからは世界中の国家と軍隊と魔法使いが直虎を守る。あなたはこの世界を丸ごと相手にしなくてはならないわ」

「それで、時空魔法の存在と秘密を世界に明かしたのか」

「そうよ」

 朱鷺恵は王太郎をそうせせら笑ったあと、思い出したように付け加えた。

「でも時間がなかったし必要以上に混乱させたくもなかったから、この世界の歴史が既に改竄されていることや、禁呪については説明を省いたので安心してちょうだい」

 ――禁呪?

 直虎はその言葉に首を傾げた。禁呪とはいったいなにか、今すぐ問いただしたかったが、王太郎たちの会話に口を挟める雰囲気ではない。

「……馬鹿なことをしたものだ。世界全部の力をもって俺に対抗しようなど、その戦略にどれほどの勝算があると思った?」

「悪手かもしれないとは思っていたわ。でも可能性はゼロじゃないとも思った。あなたがどれほどの力を蓄えているのかは未知数だったから。もしかしたら空っぽかもしれない」

「そんなことはありえない。決闘によって勝負を決める戦略は俺の譲歩だった。だがこうなった以上、俺も対抗措置を取らざるをえない。君ならわかっているだろう?」

 王太郎はそこで言葉を切ると、とっておきの切り札を明かすように云った。

「オーヴァドライブ」

「やはり……」

 朱鷺恵が唇を噛む一方、直虎ははっと息を呑んでいた。オーヴァドライブという単語には聞き覚えがある。ヴァイオラが世界中を巻き込んで王太郎にあたるべきだと主張したとき、それを退けた朱鷺恵が口走ったのだ。

 結局、一度はヴァイオラの意見を却下したはずの朱鷺恵が言を翻してこの戦いに第三者を巻き込んだわけだが、それでは王太郎に勝てないのだと云う。その秘密が、どうやらオーヴァドライブという言葉にあるらしい。

 ――オーヴァドライブとはなんだ? そして俺は、どうしてその言葉でこんなにも胸がざわめくんだ? 俺のなかの時術が俺になにかをうったえてくる。

「母上!」

 直虎はもう我慢できなくなって、そう声を張り上げていた。王太郎と朱鷺恵が揃ってこちらを見たところを捉えて、直虎は云う。

「教えてください。オーヴァドライブとは……?」

 すると王太郎が目を丸くした。

「なんだ、直虎君には教えていなかったのか」

「まだ早いと思ったの。成人すれば教えるつもりだったわ」

「そうか。まあどうでもいいことだ。どうせやることは一つだからな」

 王太郎はそう云うと、直虎に視線を放って云う。

「直虎君、第二ラウンドを始めよう。時間をかければ朱鷺恵の募った国家の軍隊やら外国の魔法使いたちが君を守りにやってくる。そうなる前にさっさと俺と君の一騎討ちで決着をつけようじゃないか。それとも朱鷺恵の呼んだ第三者たちの力をあてにするかい? その場合は、俺も仲間たちの力を借りて戦うことにするよ? ただし琉歌君だけなら、一騎討ちということにしてあげよう。さあ、どうする? 選びたまえ!」

 直虎はまだ混乱していた。オーヴァドライブを始め、わからないことが多すぎる。だが第二ラウンドを始めるというのは賛成だ。ヴァイオラのことを考えると胸が苦しくてたまらないが、王太郎がどうしてもやる気なら受けて立つしかない。

 ――戦っていれば、難しいことは考えずに済む。それにオーヴァドライブがなんであれ、俺が一騎討ちで王太郎を倒せばそれで終わりだ!

 直虎がそう思って一歩前に出ようとしたときだった。

 朱鷺恵が両手をひろげ、直虎を守るように立ったのだ。

「私がいる限り、直虎には手出しさせない」

 直虎は嬉しさのあまり痺れてしまった。

 一方、王太郎は冷たい目をして朱鷺恵を見ている。

「今さらなんだ? ここに来て我が子が可愛くなったのか? だがそれなら君は七年前に俺と戦うべきだった。あのときなら、君がこの世界の代表だったのに」

「怖かったのよ」

 すると朱鷺恵は王太郎の表情を読んで、彼の心得違いに気づいたらしい。

「勘違いしないで。死ぬことは怖くない。あなたが私を殺してしまうのが怖い。私たちの愛の夢を、あなたの手で壊されるのが」

「愛の夢だと?」

 怒りの感情が起こったのか、王太郎の声が歪んで聞こえた。

 そんな王太郎をまっすぐに見据えて朱鷺恵は云う。

「そうよ。実のところ私はまだ夢を見ているの。あなたが私を許してくれる夢。そしてこの世界でもう一度、ともに生きていく夢よ!」

「そんな夢はもうありえない。君が俺の静止を振り切り、俺から世界を奪ったとき、俺たちの道は違ってしまった。俺が君と同じ夢を見ることは二度とない」

「じゃあ殺して」

 怒っているのは王太郎のはずだが、このときの朱鷺恵はそれ以上の瞋恚しんいを放っていた。朱鷺恵はまるで炎が王太郎に迫るように云う。

「その剣を私の心臓に突き立てて殺して。一度は愛した女を容赦なく斬って捨てるような男なら、私ももう未練はないわ」

 王太郎は右手の剣を固く握りしめたまま黙った。直虎は思わず息をするのも忘れたくらいだ。琉歌もまた固唾を呑んで、次の一挙を見守っている。

 だが、王太郎はいつまで経っても動かない。

 そのうちに、そんな王太郎を朱鷺恵がせせらわらった。

「どうしたの? 世界を滅ぼそうという男が、女一人を殺せないなんておかしな話だわ」

 ――やめてください、母上。それ以上、王太郎を挑発しないでください。

 直虎は心から祈ったが、朱鷺恵の声は止まらない。

「昔からあなたは、どこまでも甘い……失われた世界を取り戻そうというのに、自分の手をなるべく汚さないで済ませようなんて、虫がよすぎる! あなたはもっと血塗れになるべきよ! もっと罪を犯すべきよ! それができないんなら、もう一度私と、私と……」

「もう黙れ」

 王太郎はそう云うと、青い炎の剣を八双に構えた。それを見て平静でいられる直虎ではない。

「母上!」

「来てはなりません、これは私の戦いだと云ったはず!」

 飛び出そうとしていた直虎は、その一言で足を釘付けにされた。今すぐ朱鷺恵と王太郎のあいだに割って入りたいのに、それができない。許されない。

 朱鷺恵は王太郎を見据えて朗々と云う。

「さあ、王太郎。修羅になる覚悟があるのなら、私を斬りなさい。私を斬って、世界を滅ぼすがいいわ。でもそれができないなら、あなたはこの世界で私と生きていく!」

 それで直虎は朱鷺恵から激しい執念を感じ、その執念に引きずり込まれるのを恐れるように一歩後ずさった。

 ――ああ、この人は。

 結局、直虎が連れ戻せたのは琉歌だけだった。ヴァイオラも朱鷺恵も、自分の命を惜しみなくつぎ込んで自分の戦いへ向かっていく。

 にわかに打ちのめされてしまった直虎の手を、このとき琉歌がそっと握りしめてくれた。

「朱鷺恵おばさま、女ね……自分の命と世界を天秤にかけさせようって云うんだわ。直虎、あなたにはとても気の毒だけど、あの人まだ仁羽王太郎を愛してる……」

「ああ……」

 朱鷺恵にとって千年前に恋人であった王太郎と、千年後に巡り合った直之と、比較できるようなものではないのだろう。どちらも愛しているのだ。違いがあるとすれば、直之はすでに死に、王太郎はまだ生きている。

 その王太郎が厳しい顔をして口を切った。

「俺が失われた旧世界の復活より、君一人を選ぶことに賭けたのか。大した自信だ。だが朱鷺恵、君はわかっているはずだ。俺は、やると云ったことは必ずやる男」

 王太郎が一歩踏み込み、剣の間合いに朱鷺恵を捉えた。それを黙って見ているようなことは、やはり直虎にはできない。

「やめろ、王太郎。頼む、やめてくれ。ヴァイオラに続いて母上まで失ったら、俺はもう絶対におまえを、許せなくなる……」

「許せないのは俺の方なんだよ、直虎君。どうしても、どうしても……」

 王太郎の目がかっと見開かれ、彼の感情が迸った。

「俺は元の世界を取り戻す!」

 そして王太郎は剣を一閃し、朱鷺恵を一刀のもとに切り捨てるのかと思いきや、剣を投げ出して朱鷺恵に迫るとその鳩尾に拳をめり込ませた。容赦のない鉄拳だったが、相手を死に至らしめるようなものではない。

 朱鷺恵は体をくの字に折って、悶絶しながら呻くように云う。

「王太郎……卑怯よ、結局、選択から逃げるなんて……」

「なぜ俺が君の挑発に乗って選択しなければならない? 君を殺さなくともこの世界くらい滅ぼしてみせるさ」

 王太郎がそう云い終えるまでのあいだに、朱鷺恵は気を失ったらしい。ぐったりと脱力した朱鷺恵を、王太郎は軽々と肩に担ぎあげた。それを見て、直虎はやっと我に返った。

「母上!」

 直虎は思わず前に出たが、王太郎は空いている方の手で素早く剣を拾うと、空術で空へ逃げた。そして上空から直虎に向かって云う。

「直虎君、今日君を殺すのはやめだ。その代わり朱鷺恵は預かっていく。返してほしくばA県B市のC川にある中州まで来たまえ。そこなら邪魔も入るまい」

「A県B市のC川……?」

 東京からはだいぶ距離のある場所だった。直虎が眉をひそめていると、王太郎がA県のある方向を見て懐かしそうな顔をする。

「B市は俺と朱鷺恵の故郷さ。歴史は変わり、そこに住む人々は俺の知っている人とは違うが、川の流れは変わっていない。俺の取り戻したかった景色が残っている場所とも云える。そこで本当の決着としよう」

 王太郎はそう云うと、ふたたび直虎と琉歌を見下ろした。

「ただし同行者は琉歌君以外、認めない。朱鷺恵は既に俺たちの戦いに世界を巻き込んだが、もし君がほかの魔法使いたちの力を借りたり、国家の軍隊の陰に隠れたりするようなら、俺も相応の対抗措置をとるからね」

「対抗措置だと? それはおまえがいると云い張っている仲間のことか? それともオーヴァドライブとやらのことなのか?」

 すると王太郎はふっと笑い、その問いには答えずに云った。

「一つだけ教えてあげよう。俺がその力を使えば、今この星の上で生きている七十億の人類など一瞬で終わりだ」

「な――」

 あまりのことに直虎は絶句した。七十億もの人命を一瞬で奪える兵器などこの世界には存在しない。存在してはならない。また魔法を使ったとしても、それほどの大虐殺はできないはずだ。

「なんだ、それは。どういうことだ!」

「待っているよ、直虎君」

 王太郎は直虎の問いかけを無視し、朱鷺恵とともに空へと吸い込まれるように上昇していく。それを追いかけるすべのない直虎は、せめてめいっぱい手を伸ばして叫んだ。

「待て、王太郎! 答えろ!」

 だが結局すべての謎に答えを与えないまま、王太郎は空間転移で夜の闇に溶け込むように消えた。

 それと同時に重力で座礁させられていた戦闘ヘリが自由を取り戻したらしい。ヘリはしばらく夜空に静止していたが、やがてホテルの屋上近くにまで降下してきた。それがあきらかに直虎たちを取り囲んでいる。

「直虎……」

 琉歌が不安そうにも、あるいは直虎を守るようにもして身を寄せてくる。直虎は彼女と話がしたかったが、プロペラの巻き起こす音と風がうるさくて会話になるまい。

 ――母上は時術のことや、王太郎の目的を世界に明かしたと云った。となると彼らは俺を守ろうとするはずだが、面倒だな。

 朱鷺恵を取り戻すためにも王太郎と決着をつけるためにも、指定された場所へ急がねばならぬ。時術を駆使すればそれも容易だろう。だがこの場に一つだけ、置いていけないものがあった。

「ヴァイオラ……」

 そう、冷たく横たえられたヴァイオラの亡骸がまだそのままになっている。もう彼女はそこにはいない。どこにもいない。そんなことはわかっていたけれど、それを捨てていける直虎ではなかった。

 やがてヘリから一人の人物が下りてきた。紺の背広を着込んだ白髪頭の老人で、六十を過ぎているだろうにいい体格をしていた。直虎はこの人物に見覚えがあった。

「あなたは日本魔法界の長老、古泉さん……なぜここに?」

「こんな爺が前線に出てきたらおかしいかね? だが彼の白い魔女に世界の危機と云われては、じっとしてなどおれんよ」

 古泉はそう云って笑ったが、次の瞬間には厳しい顔つきになって云う。

「久しぶりだな、直虎君。朱鷺恵様を訪ねていったときに顔を合わせたこともあったか。ひとまず君には我々と一緒に来てもらおう。わかっていると思うが、拒否は許さない。朱鷺恵様から聞いた話が本当なら、君を守ることは世界を守ることなのだからね」

 直虎は少し迷ったが、結局首を縦に振った。説明責任を果たさねばならないと思ったし、話せばわかると信じていたからだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る