第五話 五人模様(2)
◇
そのころ、家を飛び出した直虎は、小さいころによく遊んだ神社裏の公園に駆け込むと、園内の片隅にある大きな樹に上り、その枝に跨って幹に背中を預け、そのままぼんやりしていた。
なにも考えられない。頭が回らない。すべてが厭だった。このままでは王太郎に時術を奪われるだけだというのに、闘争心の礎石を抜き取られてしまったかのようだった。
――歴史は一つ。変えてはならない。
そのシンプルな正義が土台から崩れ去ってしまった今、直虎はこう思う。
――この世界を守る意味があるのだろうか。偽物の、間違った、罪深いこの世界を。
それでも守りたいという気持ちがあるだけに、直虎は却って血の滲むような思いがした。こんなことばかり考えていては、頭がどうにかなってしまう。
樹上で六月の風に吹かれているうち、いつしか直虎は子供のころの思い出に逃げ込んでいた。ここは小さいころ、よく遊んだ公園だ。遊び相手は決まって琉歌だった。
雷術の奥義を試みて失敗し、精神を破壊されて感情がなくなってしまう前の琉歌は、よく笑う元気な女の子だった。そしてなにかにつけてお姉さんぶりたがった。それが直虎は幼心に気に入らなくて、唇を尖らせて反論したものだ。
――たった二ヶ月、先に生まれただけじゃないか。
――たった二ヶ月先に生まれただけでも、お姉さんはお姉さんなの。
琉歌はそう云い張って、姉ぶることをやめなかった。雷神に心を壊されるそのときまで。
「琉歌……」
直虎がそう小さく呟いたときだった。
「直虎様」
その声を聞き、直虎は無表情になると枝に座ったまま樹の根元を見下ろした。いつの間にか琉歌がそこに立って、こちらを見上げていた。
「……どうしてここがわかった?」
「直虎様は昔から、なにか厭なことがあるとこの樹の上に逃げ込む癖がございました。私はそれを憶えていたのです」
そういえばそうだったかもしれない。そしてそんな直虎を、琉歌が心配して探しにきたことが、子供のころにもあった気がする。
「……思い出はなくとも記憶はあるんだな」
心が壊れた琉歌だけれど記憶を失ったわけではなく、ただ記憶と感情が結びつかないだけなのだ。そして今の琉歌は、ただ淡々と機械のように物事をこなすだけである。
「直虎様、日付が変われば仁羽王太郎が攻めてまいります。ここで時を無駄にしている場合ではございません。準備をしなければ」
「準備? なにが準備だ!」
直虎は自分が怒っているのか悲しんでいるのかもわからないまま、樹上から飛び降りると鮮やかに着地を決め、琉歌の前に立って叫んだ。
「母上が間違っていたんだ! この世界の方が偽物だったんだよ!」
「それがどうかしたのですか?」
「なに!」
直虎は怒りのあまり頬を紅潮させたが、琉歌は冴え冴えとした美貌で云う。
「この世界が本物であろうと偽物であろうと、私たちが存続するためにやることは一つ。そうではないのですか?」
血の通っていない、理屈だけの、冷たい機械の論理だ、と直虎は思った。そしてそれを憤っても仕方がない。琉歌の心は壊れているのだから。
「話しても無駄だな」
直虎はそう云うと、回れ右してもう一度樹に上ろうとした。そこへ琉歌が重ねて云う。
「では、消滅を甘んじて受け容れるおつもりですか?」
直虎はなにも答えられなかった。そこへ琉歌は容赦も遠慮もなく云った。
「このまま座してなにもしなければ、直虎様は王太郎に一方的に殺され、時術を奪われ、この世界は消滅します。全人類も巻き添えです。それを食い止められるのは、直虎様、あなたをおいてほかにありません」
「その通りだ……」
「ならばなにを迷っておいでです? 私には仁羽王太郎が正しいとは思えません。もし彼に断罪される人があったとすれば、それは朱鷺恵様だけでしょう。それも直之様が身代わりになったことで御破算となったはず。ましてこの世界に生きている、なんの罪もない人々の人生をひっくり返し、消滅させるような権利が、彼にあるでしょうか?」
理屈だけで云われたその言葉に、直虎の感情はずたずたにされた。
「なんの罪もない人々の人生をひっくり返し、消滅させる……そうだ! そんなひどいことはない! そんなひどいことはないのに――」
直虎は振り返りざま琉歌に掴みかかって、ほとんど八つ当たりのように叫んだ。
「それを旧世界の人々にやったのが母上なんじゃないか! 俺の母親がだぞ! 何十億という人の存在を、根本から消したんだ! その真実を知ってなお王太郎と戦うということは、その行為を肯定するということじゃないのか! どうなんだ!」
そのとき目が直虎を裏切って、泣くつもりはなかったのに涙があふれた。
それを見て、しかし琉歌は眉一つ動かさずに尋ねてくる。
「なにがそんなに悲しいのですか、直虎様?」
その言葉で直虎の悲しみは二倍になった。ほんの数年前まで、この公園であれほどもお姉さんを演じていた少女が、今は冷たい人形となって佇んでいる。
「心をなくしたおまえには、わからないだろう」
直虎は琉歌の華奢な肩を両手で掴んで、がっくりと項垂れた。そんな直虎の頭を見下ろして琉歌が云う。
「そう、私は心をなくしてしまった。でもならばなぜ私は、誰に命じられたわけでもなく、ここへ足を運んだのでしょう。なぜあなたを探したのでしょう」
それが今までの琉歌からするとどこか異質に感じ、直虎は奇妙な気持ちで顔をあげた。やはり琉歌には表情がない。表情のないまま、琉歌は心なき声で云う。
「直虎様、私はあなたの、お姉ちゃんです」
直虎はちょっと驚いたが、思い出はなくとも記憶はあるのだ。記憶にある言葉を再生しているだけだろうが、それでも直虎は昔を演じて云った。
「二ヶ月早く、生まれただけだろ?」
すると琉歌がにこりと笑った。
――えっ?
と、直虎が自分の目を疑ったときには、もう琉歌はいつもの無表情に戻っている。淡い一瞬の微笑みだった。
――笑った? 琉歌が? いや、気のせいだ。こいつが笑うはずはない。
直虎は今の微笑みを幻と思って、琉歌をそっと突き放した。
「もう帰ってくれ。おまえに俺の悲しみはわからない」
「はい」
命じられると、琉歌は大人しく従って回れ右し、直虎の前から去っていった。その後ろ姿は、やはり人形かロボットのようにしか思えなかった。
◇
そのころ朱鷺恵は自室で椅子に座って、片手で頭を抱えていた。
大嫌いだ! と云う直虎の叫びが、朱鷺恵の頭のなかで反響を繰り返している。
王太郎に真実を告げられても、直虎はきっと立ち上がってくれると信じていた。だがその動揺は朱鷺恵の予想以上に大きく、明日の決戦には間に合わないかもしれない。
――死ぬ? あの子が?
自分の千年が無に帰すのも恐ろしいが、直虎を失うのはそれにも増して恐ろしい。今まで厳しく育ててきたけれど、やはり心の底では自分も母親だったのだ。
――手を打つべきかしら。でも私の予想が最悪のかたちで当たっていれば、直虎は一騎討ちでしか王太郎に勝てない。あの子が自分で立ち上がってくれるのを待つしかないわ。
だが日が暮れ始めても、直虎は戻ってこなかった。そして日が完全に没したとき、朱鷺恵の我慢も限界に達した。
「……やむをえないわ。進んで地雷を踏む結果になるかもしれないけれど」
朱鷺恵は腹を括ると、ある人物に一本の電話をかけた。朱鷺恵には白い魔女として活動していた時代に知り合った魔法使いや、世界統一政府の高官たち、各国の政財界の重要人物にコネクションがある。だがなにぶん時間がないので、そのすべてに応援を求めることはできない。今、宛にできる人物は一人だけだ。
電話がつながると、朱鷺恵は切迫した声で云った。
「古泉さん、助けてください。このままでは、明日、この世界は滅びます」
相手の古泉という男は、日本魔法界の長老である。日本にいる魔法使いのことなら、表舞台に出た者も隠遁を続けている者もほとんど把握しており、また日本政府や世界統一政府にも発言力を持っている大物だ。古泉自身、大きな運送会社を経営している。
朱鷺恵が救援を求めたのは、そういう男であった。
……。
古泉の号令一下、王太郎包囲網が着々と築かれていくのを、朱鷺恵は逐一報告を受け取って聞いていた。だが実のところ不安はまったく拭えない。
――これでよかったのかしら? これで王太郎に勝てるとは、どうしても思えない。でも私にはほかに手がなかった……。
朱鷺恵がそう思い悩んでいるうちに、時刻は午後十一時を回った。そのときになって、やっと玄関で物音がしてくれた。ほっとしながら玄関まで行くと、下足のところにしょぼくれた顔をした直虎が立っていた。
朱鷺恵はいつもの厳格さを身にまとって云う。
「直虎、やっと戻りましたか」
「……遅くなりました」
そう返事をしたところを見ると、少しは頭も冷えたらしい。だが覇気がない。明日、世界の命運をかけて王太郎と戦う者の顔には見えぬ。
だがなんと声をかけたものか、どうやって気持ちを鼓舞したものか、思案に余った朱鷺恵はふとしたことに気づいて訊ねた。
「琉歌はどうしました? 一緒ではなかったのですか?」
「えっ?」
直虎は目を丸くした。まったく予想外の問いであったのだろう。やがてその顔に理解の色が広がると、直虎は逆に訊ねてきた。
「戻っていないのですか?」
「ええ。あなたを追いかけて出たきり……てっきり一緒にいるものだとばかり」
だが直虎の反応を見る限り、そうではなかったらしい。直虎は愕然としていたが、やがて天啓に打たれたように背後を仰ぎ見た。
「まさか!」
そして決然、玄関を開けて飛び出していく。
「直虎!」
「母上、失礼!」
直虎はそれだけ云うと、朱鷺恵を一顧だにせず走り去っていった。その颶風のごとき駆け去りようを見て、朱鷺恵の頭にも閃くものがあった。
「まさか、あの人形とも云える少女が、自分の意思で……?」
にわかには信じがたい。しかし直虎はそう判断して行動したものと思われる。そして直虎の誕生日までもう一時間を切っていた。かくなる上は急がねばならぬ。
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