第五話 五人模様(1)
第五話 五人模様
王太郎が去ったあと、直虎はしばらくぼんやりしていたが、やがて朱鷺恵に促されて琉歌とともに家のなかに入った。それから風呂を使い、着替えて遅い朝食を摂り、昼過ぎにやっと一息ついたところで、朱鷺恵の部屋に呼ばれた。
真行寺邸は日本家屋だが、朱鷺恵の部屋は洋風に改装していた。家具などもすべて輸入物だ。直虎が部屋を訪れたとき、朱鷺恵は椅子に座って卓に頬杖をつき、クラシックの音楽をかけていた。窓が開けられていて、白いカーテンが風に揺れている。
「母上」
直虎が部屋の戸口からそう呼びかけると、朱鷺恵は頬杖をやめて居住まいを正し、いつもの厳しい瞳で直虎に眼差しを据えてきた。
「直虎。よもや、動揺してはいないでしょうね」
「母上、それは……」
直虎はそこで口ごもった。心も言葉も道に迷っている。そんな直虎を見てどう思ったか、朱鷺恵は立ち上がって直虎に近づいてきた。
「迷うことなどなにもありません。真実を知っていようがいまいが、あなたのすることは一つ。王太郎を倒し、歴史を守り、この世界を守る。そうでしょう?」
昨日までの直虎なら、そうだと迷いなく云えただろう。だが今は違う。直虎は迷子の目をして朱鷺恵を見た。
「しかし母上、王太郎は私が思っていたような悪党ではありませんでした。彼は彼で、それなりに筋が通っており、しかも……見方によっては、被害者とも云える」
朱鷺恵に向かってこれを云うのは勇気がいることだった。果たせるかな、朱鷺恵は表情を一変させて直虎の肩を掴んでくる。
「被害者? なにが被害者ですか! ではあなたは、あなたまで、私が悪いと云うのですか!」
「いえ、そのような……」
だがそれは表面だけを取り繕った言葉だった。心の底では、既に朱鷺恵への疑心が芽生えている。朱鷺恵は唇を噛み、直虎の肩に爪を立てた。
「たしかに当時の私はどうかしていたのかもしれません。実際、何度も後悔しました。しかし私は投げ出さなかった。千年かけて、今の世界の平和を築いたのです!」
「はい……」
直虎がかろうじてそう返事をすると、朱鷺恵は直虎の肩を掴んだまま天井を仰ぎ、喉の奥へとなにかの感情を呑み込んだようだった。そしてふたたび直虎に目を戻して云う。
「いいですか、直虎。敵に同情してはなりません。お互いの立場を考えれば、私たちと王太郎は決して相容れぬ敵同士。わかるでしょう? 彼はあなたを殺し、私が千年かけてやっとここまで導いてきたこの世界を、終わらせる気でいる。倒すしかないのです」
直虎はすぐに返事ができなかった。やらねば、こちらがやられる。だから倒すしかない。それはその通りだが、直虎は朱鷺恵がなにをし、王太郎がなにを奪われたのかをもう知っている。知ってしまった。
――ああ、知りたくなかった、こんなこと。
綺麗な水だけを飲んで生きてこられたのに、これからは汚い水も飲まねばならぬ。そう考えると吐き気がする。すべてが厭になる。
そう考えて青い顔をしている直虎を、朱鷺恵が一喝した。
「父の仇を討つと云ったではありませんか!」
「父上が死んだのは母上のせいだ!」
「なっ!」
我慢できず、生まれて初めて、直虎は朱鷺恵に面と向かって逆らった。それが衝撃だったのか、朱鷺恵は胸をつかれたように後ろへよろめき、信じられないといった顔をする。一方、直虎は自分の感情に溺れていた。母親に対する、愛情とすれすれの怒りにだ。
「それに、それに、母上は本当に父上を愛していたのですか?」
「なん、ですって……?」
朱鷺恵は、こればかりは聞き捨てならぬという顔をしたが、直虎は朱鷺恵が王太郎に見せたあの顔が忘れられない。
「今日、二人の様子を見ていて思いました。母上が本当に愛していたのは、父上ではなく、仁羽王太郎では……?」
次の瞬間、直虎は頬に平手打ちを食っていた。痛みと驚きに包まれながら見ると、涙ぐんだ朱鷺恵が直虎をぶった手を痛そうにさすりながら云う。
「馬鹿なことを。愛してもいない男の子供を産むわけがないでしょう。直之さんを愛していたわ。それは本当のことよ」
そこで直虎を睨んでいた朱鷺恵の瞳が、急に悲しみに暮れた。
「でも、そうね。彼は私にとって二人目の男性だったわ」
「ふたりめ……」
直虎はその意味をわからぬまま、茫然となってそう繰り返していた。朱鷺恵は涙を拭うと、不思議と晴れやかな顔をして笑う。
「この期に及んで隠し事はやめましょう。ええ、直虎、あなたの云う通りよ。私の最初の恋人は王太郎だった」
そのとき直虎の心の奥から、思春期の刃物が精神の表層を突き破って飛び出してきた。そしてそれはそのまま、一息に朱鷺恵を刺したのである。
「大嫌いだ!」
直虎はそう叫ぶと、踵を返して部屋を飛び出した。
廊下に出てすぐ、人にぶつかった。琉歌だ。
「直虎様」
琉歌はいつも通りの表情のない顔をして、直虎を心配してくる。だが今はこの幼馴染の相手をするのも厭だった。どこかへ飛び出して、一人になりたかった。
「どいてくれ!」
直虎は琉歌を乱暴に押しのけると、玄関へ行って靴を履き、取るものも取らずに飛び出していった。
「直虎様!」
あとから琉歌の追いかけてくる声がしたけれど、直虎は委細構わず時術を使って加速し、彼女を置き去りにして駆けた。
◇
そのころシザーリオは、王太郎の魔法でホテル内の廊下とおぼしきところへ空間転移してきていた。
「さて、着いた。ここが今の俺の拠点、新宿のAホテルだよ。このフロアはすべて俺が借りているから、エレヴェーターに乗らない限りほかの客と出くわす心配はない」
そうすらすらと述べる王太郎を見て、シザーリオは彼が本当に自分の居場所を直虎に伝えてしまっていたことに呆れるとともに、一抹の不安を感じて云った。
「僕を、どうするつもりだ?」
すると王太郎はシザーリオの体を頭から爪先まで見たのちに云った。
「うむ、まずは風呂だな。君はちょっと汚れている」
「えっ? い、いや、それは直虎と日課の朝稽古をしたから……それにさっきあなたの魔法で、地面に転がされて……」
いくら男装しているとはいえ、汚れていると云われては女心が羞恥を感じ、シザーリオはそう云い訳を講じた。だが王太郎は気にした様子もなくシザーリオの手を掴み、近くの部屋の扉の前まで行くと、空術でその扉をすり抜けて部屋のなかに入った。シザーリオも一緒であった。
――うわあ、扉をすり抜けちゃった。
そう驚いているあいだにも王太郎はシザーリオの手を引き、浴室の扉を親指で示した。
「シャワーを浴びてきたまえ。着替えの服は俺のを貸してやるから」
「えー……」
男装して本当の性別を隠しているシザーリオは、この提案に一歩後ろへしりぞいた。だがそれがいけなかった。
「手間をかけさせないでくれ」
王太郎はシザーリオの腕をむんずと掴み、浴室へ強引に連れ込むと、シザーリオから服を引っぺがし始めたのである。
「あっ! あっ! ちょっと待って!」
だが王太郎は待たない。男同士と思っていたから遠慮がなかったのだろう。そしてその目がシザーリオの右手の中指に向いた。
「指輪か。濡れても平気だろうが一応、外しておきたまえ」
「あっ、それは……」
いつものシザーリオならこの指輪だけは死守したであろうが、今は状況に頭がついてこず、なすがままにされて、結局指輪も取り上げられた。だがそれは直虎が拵えてくれた、男装の幻術を発動させる指輪型の護符だったのだ。それが外されたということは、つまり。
「うん?」
王太郎はシザーリオを見て小首を傾げ、それから自分の目をこすってもう一度見てきた。
そして、二人して大声をあげた。
……。
シャワーを浴びたあと、下着なしで王太郎の服を借りたシザーリオは、客室の椅子に座らされ、髪が乾くあいだに身の上話をさせられていた。つまりもろもろの事情で男装することになり、直虎が作ってくれた幻術の護符で完全な男に化けていたことをだ。
「ふうむ、なるほどな……本当の名前はヴァイオラというのか……」
「琉歌は道場に通うときだけ護符を身に着けるけど、僕は普段から男装していたから……」
「なるほど、すべて理解した。それでは俺の服だと一時凌ぎにしかならないな。君に相応しい服を買いに行くとしよう、ヴァイオラ」
「えっ?」
シザーリオは驚きに胸を打たれていた。服を買いに行くというのもそうだが、ヴァイオラと本当の名前で呼ばれたことに、なにより強く心を揺さぶられたのだ。
「本当の名前は、ヴァイオラなんだろう?」
「あ、はい……そうです」
――そっちの名前で呼ばれるの、久しぶりだ。
直虎にも学校の友達にも、道場の仲間たちにも、ヴァイオラはシザーリオと呼ばれていた。どこへ行ってもプリンス・シザーリオ、それが当たり前だった。だからヴァイオラと呼ばれることで、こんなにも胸が温かくなるなど、彼女は知らなかったのである。
そのあとシザーリオは、いやヴァイオラは、ぼやぼやしているあいだに王太郎に連れられて繁華街のブティックまでやってきていた。
そこで下着からなにからなにまで全部見繕ってもらい、髪まで梳かされて、気がつけば姿見には青を基調としたスカート姿のヴァイオラ・トッティが映っていた。女の装いをするのは実家を飛び出して以来になるが、改めて見るとなぜか安堵してしまう。
「いいじゃないか。綺麗だよ、ヴァイオラ」
そうあっさり云われてヴァイオラが赤面しているうちに、王太郎はさっさと精算を済ませてしまった。
そのあと二人で小さなレストランに入り、奥の二人掛けの席で昼食にしたのだが、そのあいだヴァイオラはずっと夢見心地だった。幻術まで使って一年以上も男装してきたのに、急に女に戻されてしまったことが不思議でならない。
――全部、夢みたい。
だが、夢はやがて覚めるものだ。食後の珈琲を飲んでいるとき、ヴァイオラはだんだんこの状況自体が理解できなくなってきた。
――どうして私は、明日にも世界を滅ぼそうしている男と、こんなところでお茶なんかしてるんだろう。
「ヴァイオラ」
「はい」
王太郎に名前を呼ばれ、ヴァイオラは自然と居住まいを正していた。
「一つ訊きたいんだが、君は心臓が弱いという話なのに、どうして武術なんかやっていたんだい?」
「それは直虎や琉歌と本当の友達になりたかったからです。それに男の恰好をしていたら、どういうわけか死への恐怖もなくなってしまって……やりたいことを、恐れずに、なんでもやってやろうと思っていました」
「では今は? 男装をやめてもとの女の姿に戻ってしまったけれど」
「……わかりません。でも、いつ心臓が止まるかもしれないからと云って、縮こまって生きていくのは厭です。いつか誰かに、なにかに、自分の命をぶつけてみたいと思っています。全力で」
「ふうむ」
感心した様子の王太郎に、今度はヴァイオラの方が前のめりになった。
「私からも一つお尋ねしたいのですが」
「なんだい? なんでも聞いてくれ」
するとヴァイオラは目を弓のように細め、声を落とした。
「あなたは本当に、自分の世界を取り戻す気があるのですか?」
「もちろんだよ。どうしてそう思うんだい?」
ちょっとおどけた様子の王太郎に対し、ヴァイオラは眉根を寄せた。
「だってあなたは、ずいぶんゆっくりしている。もし私があなたの立場だったら、もっと死にもの狂いになって、手段も選ばないでしょう。敵に時間やチャンスを与えるような真似もしない。ところがあなたは身重の朱鷺恵さんを見逃し、直虎が子供であるという理由で見逃し、結局十七年も待った。それが私には信じられない。あなたは本気で、あなたの世界を取り戻そうという気があるんですか?」
すると王太郎はカップを手に持ったまま、微笑みを消して云った。
「ヴァイオラ、俺は本気だ。必ずやり遂げる。だが手段は選ぶし段階も踏む。直虎君に真実を打ち明けて、彼が大人になることを促したのもそのためだ」
そのときヴァイオラは、王太郎が直虎に云ったあの言葉を思い出していた。
「……偽りの歴史とはいえ、この世界で生きているすべての人々に対する、俺なりの礼儀だよ、と、そう云いましたね」
「ああ」
その意味するところを、階段を下りていくように探っていくと、ある真実が見えてくる。それは世界の終末を回避する希望かもしれないと思い、ヴァイオラは震える声で訊いた。
「もしやあなたは、この世界を滅ぼすことを、ためらっているのですか……?」
すると王太郎は一瞬硬直し、それからカップのなかに目を落とし、黒々とした珈琲に自分の心を映して見ているようだった。そしてちょっと傷ついたような顔をして云う。
「十七年前、俺は心の底から怒っていた。そして朱鷺恵の居場所を突き止めるや、怒りに任せて乗り込んだ。もしあのとき、朱鷺恵の夫が身を挺して俺の前に立ちはだからなければ、俺はそのまま朱鷺恵を殺して時術を奪い、とっくに歴史を巻き戻していただろう」
王太郎はそこで言葉を切ると、カップから目を上げた。
「だがそうはならなかったんだ。朱鷺恵の夫が、つまり直虎君の父親が、自分の命と引き換えにして、俺に許しを乞うてきたからね」
「それで殺したのですか?」
答えの判っていた問いであったが、それでもそう問うことは、少なからずヴァイオラにとって恐怖だった。果たして王太郎は一つ頷いて云う。
「ああ、殺したよ。心底怒っていたと云ったろう? そうしなければ、俺も収まりがつかなかったんだ。だからやった。やってやった」
早口で云われた言葉には、隠しきれぬ怒りが含まれていた。殺さねば収まらなかった過去の自分に怒っているのかもしれなかった。
王太郎はカップをソーサーに置くと、自分の両手を見下ろした。まるでそこに今も消えない血がついているかのように。
「だが初めて人を殺した。その重みが、俺に命ってやつについて考えさせたんだよ」
そして王太郎は、自分の両手をぐっと握りしめた。
「当たり前だが、みんなこの世界で生きている。君はさっき命をぶつけてみたいと云ったが、それも生きてるってことだろう? この珈琲を淹れてくれた人も……」
王太郎はふたたびカップを手に取ると、珈琲を一口飲み、しみじみと云う。
「この星の上には、七十億の営みがある。俺はそれを、故郷を取り戻したいという俺自身の欲望のために、すべて消滅させようと云うんだ。それは恐ろしいことだよ。機械のように、最短距離で目的を遂げるなんてことは、とてもできない……」
それは王太郎が初めて見せた弱味であった。だが彼はそれをすぐに取り繕うと、いつもの微笑みを取り戻し、溌剌として云う。
「だから俺は手順を踏む必要があったのさ。身重の女は殺さない。子供も殺さない。そのために十七年……人生の半分も待つことになったが、後悔はしていない。本当にそれをやっていいのか、やりたいのか、やるべきか、何度も考えることができたしね。さらには直虎君に空術について教育し、真実を伝え、彼に大人になるチャンスを与えた。一対一の決闘をすることで、彼に勝利の可能性さえ残している。そう、一騎討ちなら彼にも勝ち目があるんだよ。俺には仲間がいるが、今のところ仲間の力は借りず、一人で戦っている。だから直虎君は自分次第で俺を倒し、この世界の存続を掴むこともできるのさ。それだけの公平な条件を整えて初めて、俺はこの世界に終止符を打てる。わかるかい、ヴァイオラ? これは心の問題なのさ」
「心……では、やはりあなたは――」
瞠若とするヴァイオラに、王太郎は大きく
「ああ、認めよう。俺はためらっている。七十億の人生を消すことを恐れている。だからそのためらいを壊すために、この世界を消したあとで後悔しないために、いくつも譲歩し、何年も待ち、王道を歩いて、直虎君と正々堂々たる勝負がしたいんじゃないか」
王太郎はそう云って、自分の親指で自分の胸を指した。いっそ彼は、自分で自分を不利な状況に落としたいのかもしれなかった。逆境に立たされた方が遠慮を捨てて戦える、くらいのことは思っていそうだ。しかもその逆境をはねのける自信があるのだろう。
「そして最後には俺が勝つ。俺は必ずやり遂げるよ」
燦たる笑顔を以てそう締めくくる王太郎を見て、ヴァイオラはため息をついたあと、卓に両肘をついて、両手で横から頭を支えて項垂れた。
「ああ、めんどくさい人だなあ……」
「はっはっは。だがもし俺が面倒な男じゃなかったら、君たちはもうとっくに存在していないんだよ」
それもそうである。だが苦笑いをしている場合ではない。
ヴァイオラは必死になって考えた。
――駄目だ。並の言葉じゃ、この人は説得できない。もっと相手の心に響くなにかをする必要がある。なにかを……。
だがいくら考えても、そのなにかをヴァイオラは見つけ出すことができなかった。
そのうちに王太郎が立ち上がって云う。
「さてヴァイオラ、そろそろ行こうか」
するとヴァイオラも思索を打ち切って顔をあげた。
「それは構いませんが、いったいどこへ?」
「うむ。今日は俺と君たち、どちらかにとって最後の休日となる。そういう日に君と巡り会えたのは幸運だった。これからデートしよう」
ヴァイオラは一瞬、なにを云われたのかわからなかった。理解が及ぶや、驚愕が音を立てて押し寄せてくる。
「え、えええええっ!」
ヴァイオラの声は店中に響き渡った。
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