第四話 歴史の真実(3)

 凛とした声に仰ぎ見れば、朱鷺恵が廊下から庭に下りてきたところだった。

「母上」

 そう嗄れた声で呼んだ直虎を見向きもせず、朱鷺恵は王太郎に眼差しを据えて云う。

「平成なんて終わったの。そんな時代は、もう二度と戻ってこない。いつまでも古い夢にとらわれていないで、未来を見なさい、王太郎。今ならまだ間に合う。まだやり直せる。そうでしょう?」

 直虎は朱鷺恵を食い入るように見て、しかしなにも云えなかった。夢にとらわれていると云っている朱鷺恵の方が、なにか別の夢にとらわれているように思えたからだ。

「それに私の築き上げたこの世界は、そんなに駄目かしら?」

 最初から否定を求めているその言葉に、王太郎は優しく微笑んだ。

「いや、駄目ではない。元の世界よりずっと上等だ。世界はおおむね平和で、戦争も核兵器もテロリズムもない。少年兵やストリートチルドレンは姿を消し、すべての子供たちは救われた。魔法使いですら、もう隠れて暮らす必要はなくなった。人類は歴史に学び、進歩を遂げた。君はまさに理想郷を作り上げたんだ。がんばったな」

 がんばったな――それが引き金となったのか、朱鷺恵の両眸から涙があふれた。いつも威厳に溢れていた母が、このとき直虎の見ている前で、傷ついた鳥のようによろめいて王太郎の胸へと落ちていく。

「そうよ、がんばったの。何度も失敗して、何度もタイムリープして、私の乗り越えた時間は千年を超えるわ。熱病のような理想に惚れこみ、自分ならよりよい世界に導けるなんて夢想したことを何度も後悔した! 何度も諦めようと思った! なんて馬鹿な少女だったんだろうって! でも、私はやり遂げた。だってこれは私の始めた戦いだったから」

 そこで朱鷺恵は少女のようにしゃくりあげ、指で涙を拭ってなおも続けた。

「そんな私の心の支えがあなただったのよ。一九九七年のあの日まで行けば、そこにあなたが出現することがわかっていたから。でもその日が近づくにつれて、だんだん怖くなったわ。あなたはきっと、私を許さないだろうって思ったから……」

「だから俺から逃げたのか。逃げてあの男と結婚したのか」

 なじるようなその言葉に、朱鷺恵は胸をぎゅっと押さえながらも頷いた。

「そうよ。私、彼に、直之さんに全部打ち明けたの。自分が白い魔女であること、時術を使って世界の歴史を書き換えたこと、世界中の政財界や魔法使いたちにコネクションができて、今でも電話一本で世界を動かせること、そしてあなたが私を審判する日を恐れていること……彼はすべて受け容れ、許してくれたわ。優しかったの、とても。そして私は彼と結婚した」

 そこで朱鷺恵は言葉を切ると、王太郎をじっと見つめて云った。

「一九九七年のあの日、あなたが世界に出現した日になっても、あなた、すぐに私のところに来てくれなかったわね」

「こちらも混乱していたからな。君の千年は俺の一秒、いきなりあの状況に落とされて、半年で君の居場所を突き止めただけでも、俺は手際がよかったと思うがね」

「私、ひょっとしたらあなたは私を見つけられないんじゃないかと思った。でも四月のあの日、ついにあなたが私の前に現れた。あなたは怒りに任せて私を殺そうとした。けれど、直之さんが守ってくれた」

「そうだ。彼は自分の命と引き換えに、自分の妻子に十年の猶予を与えた。そして君は直虎君に時術を譲ることで俺の裏を掻き、さらに七年、この世界の寿命を引き延ばした。だが今度という今度はもう逃がさない。明日を以て、この世界は終幕だ」

 それはまさしく世界の終わりを告げる男の声だった。直虎はその男に立ち向かわねばならないのに、そのために今日まで生かされてきたというのに、今はとてもそんな気になれない。明かされた事実もそうだが、王太郎に対する朱鷺恵の態度は、いったいなんなのだ?

 朱鷺恵は王太郎の胸に手を置き、涙を含んだ声で云う。

「たしかに私はあなたから世界を奪ったけど、あなただって私の良人おっとを殺したじゃない。それでおあいこよ。お願い、もう許して」

「駄目だ、許さない」

 王太郎はそう切って捨てると朱鷺恵の胸を思い切り押した。突き飛ばされ、膝から崩れ落ちた朱鷺恵を見下ろして王太郎は云う。

「君の築き上げた世界は素晴らしい。だが偽物だ」

 すると地面に手をついていた朱鷺恵は、地面に爪痕をつけるように指を立て、乱れた髪の奥から王太郎を睨みつける。

「私の千年を、世界の平和を、ぶち壊しにしようと云うのね……」

 このときの朱鷺恵の声たるや、怨念で王太郎を呪い殺せそうなほどであった。だが王太郎はそんな呪いを跳ね返す光輝に満ちて、威風堂々たる構えである。

「それが許せないから、俺を倒すために直虎君を育てたんだろう?」

「そうよ。私の育んだ直虎が、あなたの古い夢を打ち壊すわ」

 ――そのために、俺は。

 直虎は琉歌に支えられているのに、ふたたび足元がぐらついてきた。まさしく自分は世界を守るために育てられたというのに、胸をえぐられたように感じる。

 と、いきなり横からシザーリオが走っていって、朱鷺恵に飛びかかった。直虎は一瞬、なにが起こったのかわからない。王太郎さえ目を丸くしている。

 あまりのことに全員が反応できないでいるあいだに、シザーリオは朱鷺恵に馬乗りになってその首を絞め始めた。ここに至って、直虎は血相を変えた。

「なにをする! シザーリオ、やめろ! 気でも狂ったのか!」

 直虎はシザーリオを朱鷺恵から引き剥がそうとしたが、シザーリオは委細構わず朱鷺恵の首を絞めることに渾身の力を込めている。

「あなたはやってはいけないことをした! 歴史を変えるなんて! 神様気取りが理想を追い求めた結果、自分の世界をすべて奪われたのでは、仁羽王太郎が怒るのも無理はない。だがその歴史の上で僕らは生きている! 今さら修正されるわけにはいかない! だからあなたの命で許しを乞うんだ!」

「シ、シザーリオ!」

 直虎はシザーリオがどういう気持ちになっているのか、わからなくもないだけに弱り果てた。しかしだからといって、目の前で母親が首を絞められているのに、指をくわえて見ていることなどできない。

「やめろ、やめてくれ、頼む!」

 そのとき、いきなりシザーリオと朱鷺恵の体が五〇センチほど宙に浮き、ひっくり返った。その弾みでシザーリオが朱鷺恵から離れたところ、その首根っこを掴んで引き剥がしたのが王太郎だ。直虎は王太郎が空術で朱鷺恵を救ったことを悟った。

 王太郎はシザーリオを抛り出すと、彼女を見下ろして云った。

「やめたまえ。今さら朱鷺恵一人の命を奪ったところでどうなるものでもない」

「し、しかし」

 うろたえたように王太郎を見上げるシザーリオは、やはり平静ではなかった。王太郎の目的が旧世界の復活である以上、朱鷺恵の命一つで矛を収めることがないのは、少し考えればわかることだ。それでもなにか行動を起こさねばいられないくらい、気が動顛していたのだろう。そんなシザーリオに向かって、王太郎ははっきりと云う。

「俺は止まらないよ。絶対にね」

 それでシザーリオは、頭が真っ白になってしまったようだった。

 それを見て直虎は激しく咳込んでいる朱鷺恵を抱き起こし、その背中をさすってやった。

 やがて朱鷺恵の呼吸が落ち着いてくると、王太郎が直虎の方へ近づいてきた。琉歌が素早い動きで直虎を守るように立つが、直虎は立ち上がると琉歌を押しのけ、王太郎の前まで行った。直虎の顔を見るなり、王太郎が口の端を吊り上げて笑う。

「ひどい顔をしているな」

 それはそうだろう、すべておまえのせいではないか。と、そんな恨み言が胸のなかで溢れ返り、直虎は感情のまま吠え猛った。

「なぜ、俺にこんな話を聞かせた。知りたくなかった、こんなこと! なにも知らずにいれば、俺はまっすぐな気持ちでおまえと戦えたのに! なぜだ!」

「それはね、君がこの世界の代表だからだよ」

「代表……?」

 思いがけない言葉に、直虎は二の句が継げなかった。だが自分はそもそも王太郎とこの世界の存続をかけて一騎討ちをするつもりでいたのである。たしかに世界の代表として名乗りをあげたのだ。だが今は全然、そんな気持ちになれない。

 表情を曇らせている直虎に、王太郎は晴れやかな顔をして云う。

「俺が歴史を変えれば、今ここに生きている人々は消滅する。まがりなりにも世界一つを消そうというんだ。ならばこの世界の成り立ちを知っている者が、世界の代表として俺の前に立ちはだかる。そうでなくてはならない。そして俺の世界が復活するのか、君の世界が存続するのか、正々堂々、戦って決めるんだ。そうつまりこれは、偽りの歴史とはいえ、この世界で生きているすべての人々に対する、俺なりの礼儀だよ」

 そして王太郎と世界の命運をかけて戦う資格を持つのは、時術の継承者である直虎しかいないのだ。

「明日だ、直虎君。十七歳の誕生日に、君を殺す」

 それはわかりきっていた話なのに、改めてそう云われると刃物を喉元に突きつけられたように感じた。闘争心を燃やすこともできぬ直虎に、王太郎は励ますようにも云った。

「大人になって、真の戦士となって俺と戦うか、それともただ奪われるか、君は自分で選ぶことができる。あとは君次第だ」

 王太郎はそれだけ云うと踵を返し、茫然として座り込んでいたシザーリオの腕を掴んだ。

「えっ?」

 と、声をあげたシザーリオを無理やり立たせ、王太郎は云う。

「君は俺と来たまえ。あんなことをして、ここにはいられまい」

 あんなこととは、朱鷺恵の首を絞めたことであろう。だがシザーリオも頭が冷えたであろうし、直虎はもう一度彼女と話をしたかったのだが、王太郎は誰にも有無を云わせなかった。シザーリオの腕をがっちり掴んだまま、上空三メートルのところまで上っていく。

「直虎君、俺は今、新宿のAホテルに宿泊しているんだ。そこの最上階を、ワンフロアまるまる押さえている。日付が変わったら、君がそこに乗り込んできてもいいよ?」

 一時間前の直虎であったら、こんな挑発を受けようものなら気炎をあげて先制攻撃の策でも練っただろう。だが今は力のない顔をして、王太郎を見上げているだけだ。

「ではまた明日!」

 その言葉を最後に、王太郎はシザーリオを連れて空間転移し、この場から消えた。あとには直虎と琉歌が立ち尽くし、朱鷺恵が庭にくずおれて項垂れていた。

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