第四話 歴史の真実(1)
第四話 歴史の真実
翌早朝、真行寺家の屋敷の庭では、直虎とシザーリオが組手を行っていた。シザーリオが道場に通うようになって以来、これは二人のあいだの日課となっている。
「はっ!」
直虎の拳をシザーリオが交差した両腕で受け止めつつ、衝撃を殺すために後ろに跳んだ。直虎がそれを追って飛び出しかけたところで、シザーリオがこちらに掌を向けてきた。
「待った! 今日はこの辺にしよう! この大事なときに怪我でもしたら大変だ」
それでどうにか理性に歯止めがかかり、直虎は拳を引いた。
「……それもそうだな」
本当は昨夜から気持ちが昂ぶっていて、枕に頭をつけてもよく眠れなかったくらいなのだ。シザーリオと体を動かし始めるとたちまち燃え上がってしまい、王太郎に向けるべき拳をシザーリオに向けていた。
荒い息をついているシザーリオに、このとき琉歌が寄っていった。
「シザーリオ様、どうぞ」
琉歌が差し出したのは水筒である。それを受け取ったシザーリオは笑って云う。
「ありがとう、琉歌」
そんなシザーリオの様子を見ていた直虎は、彼女が水筒のお茶をいっぱい飲み干すのを待ってから云った。
「しかしおまえ、心臓の方は大丈夫そうじゃないか」
「うん。自分でも不思議なくらい順調だ。男装してからは一度も発作が起きていない。あるいは魔法さえ使わなければ、平気なのかもね」
シザーリオの魔法といえば回復魔法である。だが直虎は話に聞いているだけで、実際に使っているところを見たことがない。心臓に負担がかかるという話を聞いていては、見せてくれと頼むこともできなかった。
シザーリオは琉歌に水筒を返しながら云う。
「ま、琉歌が直虎にやられてるところは見たくないからね。僕も僕なりに頑張ったよ。結局、そんなに強くはなれなかったけど……」
「始めて一年にしては上達した方だ」
それはお世辞でなく、心からの賛辞であった。シザーリオは嬉しそうに笑ったが、ふと眉宇を曇らせて云う。
「でもいつも通りの日常はこれまでか。今日は仁羽王太郎がやってくる」
それには直虎もたちまち顔を険しくした。今日は火曜日で本当ならこのあと学校へ行かねばならないところだが、とてもそんな気になれない。
――日常は終わった。
そう思っていると、シザーリオが直虎と琉歌を誘って屋敷の母屋に向かった。
直虎たち三人は、組手をしていた庭を眺めることのできる縁側の廊下に、三人並んで腰を下ろした。まだ梅雨には早く、今日も朝からいい天気だ。
しばらく黙って庭を眺めていると、シザーリオが云った。
「昨夜は僕も頭のなかがぐちゃぐちゃで、なにを話せばいいのかすらわからなかったんだ」
「……ああ」
昨夜はあのあと三人で帰宅し、まず朱鷺恵に王太郎と遭遇したこと、明日王太郎がやってくることを伝えた。朱鷺恵はまるで事務の報告でも聞いたように「そうですか」と云っただけであった。そして三人には早く寝るよう申し渡したのである。
「正直、僕はあまり眠れなかったんだ。天井を見ながら思い出していたのは、子供のころに聞いた時空の魔法のお話のこと」
「なに?」
直虎はちょっと驚いた。イタリアに時空魔法の話が伝わっているなど初耳である。
シザーリオは直虎を一瞥すると、よく晴れた空を眺めながら話し始めた。
伝説によると、千年前のヨーロッパに時間と空間を司る魔法が存在したという。だがその魔法は宇宙の法則を支配する魔法だ。必然的に、その魔法を巡って魔法使い間の争いが絶えなかった。だがあるとき、そんな状況を憂えた賢者が、いっそこんな魔法がなければよいのにと思って時間と空間の魔法の継承者を東洋に旅立たせたと云う。かくてヨーロッパから時空の魔法は失われ、魔法使いたちのあいだに平和が訪れた。
そこまでを語ったシザーリオは小さくため息をついた。
「ただの伝説だと思っていたけど……」
「伝説ではなかった? その話で東洋に旅立ったという二人の魔法使いが、流れ流れて日本に行き着いたと?」
「うん。日本はイーストエンドだからね。恐らく数世代かけてだと思うけど、ユーラシアを横断して最後に日本に行きついていたとしても不思議はない。そして東へ東へ移動する過程で、時空の魔法の足跡は埋もれてしまった……」
シザーリオは束の間、歴史を振り返るような遠い眼差しをしたが、すぐに我に返って直虎を見てきた。
「あのね、直虎。考えたんだけどさ、仁羽王太郎には大勢であたるべきだと思う」
「どういうことだ?」
たちまち剣呑な目をする直虎を見返し、シザーリオは堂々と持論を述べ始めた。
「君には万に一つの敗北も許されないってこと。もし君が負けたら、王太郎は君から奪った時術で過去へ戻り、歴史を変えるのだろう。そうなったら僕たちは、この世界に暮らすすべての人々は、存在自体が消滅してしまう」
「そうだ。だから俺が王太郎を倒して歴史を守り、この世界の人々を守ってやる」
「君一人にすべてを委ねることはできない!」
シザーリオは自分の声に背中を押されたように立ち上がり、直虎を見下ろしてきた。
「これは僕たちみんなの戦いだ。この世界に生きるすべての者にとって、これは他人事じゃない。だったらたとえ時術の存在を明かしても、世界中の魔法使いに協力を募るべきなんだ。これはそうしなくてはならないようなことだよ! 全人類存亡の危機なんだから! それなのに君一人で、勝手に世界の命運を背負わないでほしい。いったい君は誰の許しを得て、全人類の代表になったと云うんだい?」
その言葉が胸に刺さって、さしもの直虎も返す言葉を失った。シザーリオの云うことももっともだと思ってしまったのだ。
「シザーリオ、それは……」
「それはいけません」
突如、威厳ある女の声がし、直虎たち三人は声のした方に視線を向けた。廊下の奥から和服の美女がこちらに蓮歩を運んでくる。
「あっ、母上」
直虎は母の姿に気づくと、先ほどからずっと黙っている琉歌を促して立ち上がり、母が自分たちの前までやってくるのを待った。
直虎の母、真行寺朱鷺恵は今年で三十七歳になるはずだが、とてもそうは見えない。若く美しい女である。それが縁側の廊下から、庭先に立つシザーリオを見下ろして云う。
「シザーリオ、あなたは直虎から七年前の話を聞いたのではなかったのですか? あのとき王太郎は、自分には仲間がいると云いました。しかし仲間の力は借りず、一騎討ちにて勝負をつけるとも。裏を返せば、事を大きくして直虎が大勢の魔法使いや国家の力を借りれば、王太郎も仲間の力を借りるということです」
だがシザーリオは納得しかねるという顔をした。
「僕は思うのですが、王太郎に仲間がいるという話は本当なんでしょうか? 彼が目的を遂げればこの世界の歴史は巻き戻り、今生きている人々は消滅する。それを知ってなお王太郎に協力する者がいるとは考えられません。一騎討ちという有利な状況に持ち込みたかった王太郎のはったりでは?」
一理ある、と直虎も思った。今にして
しかしなにが癇に障ったのか、朱鷺恵は目に角を立て、尖った声で云った。
「それは絶対にありません。王太郎はそのような姑息な嘘を吐く男ではないのです。彼が自分のために命を捨てる仲間がいると云うのなら、それはいるのでしょう」
「だとしてもごく少数、ほんの一人か二人のことではないでしょうか。世界全部を敵に回して勝てるわけがありません。みんなで戦えば絶対に勝てますよ。そうでしょう?」
「たしかに」
と、直虎は思わず声に出していた。
「シザーリオ、おまえの云うことはきっと正しい。王太郎の仲間がどれほどいるのかは不明だが、そんなに多くはないだろう。それにな……」
直虎は朱鷺恵の目が気になったが、この際だから云ってしまうことにした。
「それに実を云うと、おまえに云われたようなことは俺も考えたことがある。父の仇を討ちたい気持ちはもちろんあるし、王太郎が俺に一騎討ちだと云ったんだから、それに応じないのも卑怯な気がするが、そういうのは全部小さい根性なんじゃないかと。俺が負けたら世界中を道連れにしてしまうから、色んな人に事情を打ち明けて、みんなで戦うべきなんじゃないかと……その方が確実に勝てる」
「直虎!」
ぱっと顔を輝かせたシザーリオが早合点するのを
「でもやっぱり駄目だ」
「えっ?」
「父の仇を討ち、歴史を守り、世界を守る。今までその気持ち一つで走ってきた。それなのにこの期に及んでみんなで戦うなんてことをしたら、俺は俺じゃなくなってしまう。だからそれはできない。これは俺の戦いなんだ」
「そんな……」
シザーリオは茫然と、途方に暮れたような顔をして直虎を見下ろした。
そこへ今まで黙っていた琉歌がぽつりと云う。
「空術に対抗するためには時術が必要」
「もちろんそうだ」
シザーリオはすぐさま相槌を打って直虎を見た。
「だから直虎には戦ってもらう。そのうえでみんなで力を
直虎は反駁できない。シザーリオの言葉は正論である。ただ王太郎と一騎討ちにて勝負をつけたいのは、直虎のわがままなのだ。しかし。
「本当にそうなのでしょうか?」
「えっ?」
朱鷺恵の言葉に直虎は耳を疑った。驚いて朱鷺恵を見ると、朱鷺恵は空の彼方をじっと見ながら話し出した。
「たしかに王太郎は、この世界に生きる人類すべての敵。世界対王太郎という構図に持っていくことはたやすい。しかしそれで王太郎に勝てるのでしょうか? 一騎討ちをした方が、まだ勝てる可能性があるのでは?」
「は、母上――」
直虎はさすがに黙ってはいられなくなった。
「私は誓って王太郎との戦いに自分一人で挑むつもりでいます。臆病風に吹かれて云うのではありません。しかしながら、世界全体で戦うより私一人で戦った方が勝ち目があるとは、正直わけがわかりません。普通、逆ではないのですか?」
すると朱鷺恵は直虎に目を戻して頷いた。
「そうですね、私の考えすぎかもしれません。でも……」
「でも?」
直虎が踏み込んで問うと、朱鷺恵はその問いかけから逃れるようにまた空の彼方に視線をやり、そして今まで直虎が見たこともないような畏怖に満ちた顔をして云う。
「オーヴァドライブ……」
――オーヴァドライブ?
それは直虎がまだ知らない単語だった。だが妙に引っかかる。胸の奥に秘められた魔法がざわめいていた。
「母上、それはいったい……」
そのとき天地を揺るがす轟音がして、直虎たちは息を呑みながら振り返った。果たせるかな、先ほどシザーリオと組手をしていたところに、王太郎が威風を纏って立っている。
「さて、真実を語る時間だ」
そう云って気取ったポーズをとった王太郎を、朱鷺恵が冷え冷えとした目で見る。
「王太郎……」
「久しぶりだな、朱鷺恵。今日は直虎君を大人にしてあげようと思ってね。まさか邪魔したりしないだろうな?」
「……いずれ、こういうときが来ることは覚悟していました。そのうえで、直虎はあなたを倒し、世界を守る。あなたも、そういう展開を望んでいるのでしょう?」
「ああ、なにも知らない子供を殺すことはできないからな。きちんと大人になった、本当の戦士でなくてはならないんだ。遠慮なく殺すためにはな」
そのときいつも鷹揚に構えていた王太郎は、少しだけ感情の昂ぶりを見せていた。だが直虎にはどうでもいいことだ。
直虎は決然、一歩前に出ると云う。
「御託は終わりか? 俺が大人になっているかだと? 戦士になっているかだと? ならば七年の修行の成果、今から叩き込んでやる!」
「ほう」
面白そうな顔をする王太郎目掛けて、直虎は地を蹴った。途端に自分と王太郎のあいだに距離を感じる。
――これは、あのときの!
直虎は七年前のことを思い出していた。走っても走っても王太郎には追いつけない。空術によって距離を引き延ばしているのだ。だが。
「俺をなめるな、王太郎!」
そう叫ぶと同時に、直虎は時術を展開した。王太郎が距離を引き延ばした分だけ、自分の進む速度を加速させる。空術による距離の延長が、時術による加速でたちまち相殺され、半瞬ののち、直虎は王太郎に迫って拳を振り上げていた。
「はっ!」
次の瞬間、結構な音がして、直虎の右拳は王太郎の大きな左手によって防がれていた。直虎の拳を受け止めた掌の向こうで、王太郎が笑っている。
「どうやら、俺と戦う切符は手に入れたようだな。では今度はこちらの番だ」
王太郎の体から攻撃的な気配が膨れ上がってきた。それを感じた直虎は反射的に後ろへ跳びのこうとしたが、右の拳を鷲掴みにされていて下がれない。
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