第三話 七年前(1)

  第三話 七年前


 その日、直虎が十歳の誕生日を迎えた日の夜、直虎は母に呼ばれて屋敷の奥にある床の間付きの座敷にいた。床柱を背にして端座する母を前に、正座している直虎は緊張していた。母の自分を見る目が、いつにもまして剣呑に思えたからだ。

 直虎の母、真行寺朱鷺恵しんぎょうじ・ときえは波打つ黒髪を持つ華やかな顔立ちの美人だった。地味な和服ではなく、もっと派手な衣装で着飾っていれば、孔雀が羽を広げたようだっただろう。

 だが直虎は朱鷺恵が着飾っているのを見たことがない。笑ったところさえ知らない。朱鷺恵はいつも思いつめた険しい顔をしており、冬のように厳しく、威厳に満ちて、直虎を一人前にすることだけに心を砕いている人であった。

 ために直虎はこの母を心底畏怖しており、今も正座したまま身じろぎ一つせず、母がなにか云うのを待っている。

 しばらく無言の時が流れ、朱鷺恵はやっと口を開いた。

「直虎、改めて十歳の誕生日おめでとう。生まれる前に父親を亡くしたあなたを、私は今日まで立派な男の子として育てたつもりです」

「はい」

「それもこれもゆえあってのこと。あなたはまず一人の人間として立派にならねばなりません。そして真行寺家の幻術を継ぐ魔法使いとしても完成せねばなりません」

「はい」

 直虎は目を輝かせ、胸を熱くしていた。父から受け継いだ真行寺家の血筋を誇りに思うとともに、代々受け継ぐこの幻術を、自分も立派に修めてみせると物心ついたときから決心していた。二年前に祖母が亡くなったときには、祖母の霊前で改めて誓った。

「御安心ください、母上。直虎にはもうその覚悟ができてございます。真行寺の名に恥じぬ立派な幻術使いになってみせます。父祖の名を辱めるようなことはいたしません」

 直虎は澄み切った声でそう答えていた。これが十歳の子供の言動とは、普通であれば信じられない。だが普通ではない教育を受けてきたのが直虎である。

 そんな直虎に満足しているのか、朱鷺恵は目を和ませて続けた。

「よろしい。頼もしいですよ、直虎。しかしあなたにはもう一つ、背負ってもらわねばならぬことがあります」

「もう一つ……?」

 初めて聞く話に目を丸くした直虎に、朱鷺恵が一つ頷いて云う。

「あなたにはもう一つ、真行寺家の幻術ではなく、そこに嫁いできた私の魔法を継承してもらいたいのです」

「母上の魔法、ですか」

 直虎は目をぱちくりさせた。

 朱鷺恵がもともと流れの魔法使いであることは聞いている。だがその由来や出自についてはなにも知らない。祖母からも聞いた覚えがないし、なにより朱鷺恵がその話題に触れられるのを厭がっていると、なんとなく察していたので、訊くに訊けなかったのだ。だが本当は知りたかった。

 そんな直虎に朱鷺恵が云う。

「一人の魔法使いが、二つのまるで異なる系統の魔法を修行するのは効率が悪い。したがって二つの魔法を継承できるとしても一つに絞るのが普通です。しかし――」

「必要なことなのですね?」

「そうです。あなたは絶対にこれをやり遂げねばなりません」

 そこで朱鷺恵の気魄がいや増した。

「――正直に云いましょう、直虎。あなたがただ幻術を修めて、真行寺家の当主となるだけならば、私はあなたをこれほど厳しくは育てませんでした。私自身、もっと慈愛に満ちた母親であったでしょう。つまり私の魔法を受け継ぐことは、真行寺の家よりも重いのです。なぜなら、それはこの世界の命運を左右するからです」

「せ、世界の命運……?」

 今まで朱鷺恵の言葉を疑ったことのない直虎だったけれど、世界の命運と云われてはさすがに眉唾物である。

「母上、それはいったい……そもそも、母上はどういった魔法使いなのですか?」

 すると朱鷺恵は居住まいを正して続けた。

「順を追って説明しましょう。直虎、あなたも知っての通り、この世界において魔法とは精神に所有する道具であり、他者に譲り渡すことができるものです。多くは親から子へ、師から弟子へと、平和的に譲渡される。あなたの幻術もあなたの御父様、御婆様から譲られたもの。幻術を継承した瞬間、あなたは魔法使いになりました」

「はい」

「しかし魔法使いになる方法は、親や師匠から魔法を譲ってもらう以外にもあります。なにかわかりますか?」

 その問いに、直虎は一つ頷いてすらすらと云う。

「今現在、所有者のいない魔法というものが、どこかに転がっていたり安置されていたりします。そういう魔法を見つけて獲得すれば、その者は魔法使いです」

「その通り。ほかには?」

「ほかには……」

 そこで直虎の言葉は宙に浮いた。すぐには思いつかない。と、そんな我が子に、朱鷺恵は先回りして云う。

「わかりませんか、直虎。この世界の魔法は精神に所有する道具であり、所有権は容易に動く。ならばもっと手っ取り早い方法があるでしょう」

 それで直虎ははっと息を呑んだ。

「母上、それはまさか……」

「そうです。殺して奪うのです。そして私を殺して私の魔法を奪わんとする者が、今この時にもこの屋敷に迫っているのです!」

 直虎はらいに打たれたような衝撃を感じた。魔法を殺して奪うという乱暴な発想にも驚かされたが、その先の言葉には恐怖すら感じる。

「は、母上を殺して、母上の魔法を奪う?」

「まさしく、そういうことを企んでいる男がいます」

 そう聞いた瞬間、直虎のなかで炎が爆ぜた。たった一人の母親を、魔法を奪うためなどという理由で脅かす者がいる。怒りが炎となって燃え上がり、直虎は決然、立ち上がった。

「そのようなこと、絶対させません! 母上は直虎が守ってみせます!」

 直虎は肺のなかの空気が熱くなって、呼吸が乱れてくるほどだった。そんな直虎を見て目つきを和ませた朱鷺恵が云う。

「ありがとう、直虎。でも今は落ち着いて私の話を聞きなさい。あなたは先ほど、私がどういう魔法使いなのかと尋ねてきましたが……」

「は、はい」

 そう云って ふたたび正座をした直虎に朱鷺恵が云う。

「ずばり、私は時術……時間魔法の使い手です」

「時間、魔法……?」

 そんな魔法があるとは初耳であった。だが朱鷺恵は直虎の驚きをよそに淡々と語る。

「そうです。時間を自在に操る……これほど強力な魔法はありません。下手をすれば宇宙の法則そのものを揺るがしかねない。ゆえに時術を所有し使うことができるのはただ一人……すべての過去と未来、すべての可能性、すべての平行世界のなかでたった一人だけが、時術を所有します。もし時術の譲渡が行われる場合は、私たちが認識できる時空の外側でも同時に時術の譲渡が行われます」

「私たちが認識できる時空の外側……?」

 すぐには理解できず、首をかしげる直虎に朱鷺恵は考え考え云った。

「そうですね……たとえばあなたが私から時術を継承したあと、時術を使って継承前日にタイムリープしたとします。その場合、私とあなたの二人が時術を持っているかというと、そうではありません。あなただけです。あなたに時術を譲った時点で、過去の私も同時に時術を譲っているのです」

 直虎は正直、すぐには呑み込めなかった。そんな直虎に、朱鷺恵は我慢強く云う。

「因果を超越するのですよ。一般に物事は過去に端を発し未来に決着を見ますが、時術の移動については、現在に起こったことが過去にも影響を及ぼすのです。直虎、タイムパラドックスという言葉を聞いたことがありますか?」

「あ、はい。それなら知っています。たとえば自分が生まれる前の時代にタイムスリップしたとして、歴史を変えてしまい、両親が出会わなくなるなどして自分が生まれなくなったとする。すると今そこにいる自分の存在はどうなるか、というパラドックスです」

「ええ、その通り。しかし時術の所有者は因果を超越するため、そのパラドックスとは無縁です。もしあなたが時術を継承後、自分が生まれる前に飛んで私の存在を抹消したとしても、あなたの知っている未来が別の未来に変わるだけで、あなたの存在は消えません。なぜなら時術の継承者は因果の超越者であり、過去の原因によって未来の結果が決まるという因果律を超越しているからです」

「な、なるほど……」

 わかったような、わからないような直虎である。そんな直虎に母は云った。

「ゆえに時術の継承者は、時術をみだりに扱うことなく、悪しき者から時術を守るとともに、命あるうちに時術を受け継ぐ後継者を育てることを使命とするのです。しかし……」

 それを聞いているうちに、直虎の顔にはたちまち真剣味が戻ってきた。因果の超越だの、タイムパラドックスの克服だのは、もっと咀嚼して反芻しなければ理解できない。だが時術がこの世界、この宇宙にとって極めて重要な魔法であることはわかる。そしてそれを狙っている者がいるのだ。

「母上を殺して、時術を奪わんと企む者がいるのですね」

「そうです。その者の名は仁羽王太郎……私の幼馴染です」

「お、幼馴染?」

「ええ。彼と私は同じ街に住む魔法使いの家系に生まれた者同士で、子供のころはよく一緒に遊びました。私たちはお互いのことを知り尽くしており、彼が時術の存在を知っているのもそのためです。ですが今の彼は私から時術を奪い、過去に遡って歴史を変えようと企む者。そして直虎、あなたのお父様を殺した男です」

 そう聞いたときの直虎の心は、むしろ爽やかだった。父は自分が生まれる前に死んだと云う。だがなぜ死んだのか。どうして父はいないのか。そのことを誰も教えてはくれなかった。それが今、突然真実を知らされて、直虎は自分の心の窓が一つ開かれたような気がしていたのだ。だがその窓から吹き込んできた風は冷たい。

「父上がなぜ死んだのか、私は知りませんでした。父上は殺されたのですか。その、仁羽王太郎と云う男に」

「そうです。十年前、あなたを身ごもっている私の前に王太郎が現れ、私を殺して時術を奪おうとしました。そのとき、直之さんが、私を守ってくれたのです。これから子供が産まれるんだ、自分の命を差し出すから朱鷺恵は許してくれ、と。そんな直之さんに王太郎は云いました」

 ――同じことだ。俺が時術の力で過去に戻り、歴史を変えてしまえば、その子供も生まれなかったことになる。それでも守ろうと云うのか?

「直之さんは守ると云いました。そして王太郎は直之さんを殺し、その命に免じて、私に十年の猶予を与えました」

 ――十年間、子供と過ごす時間をやる。だがその子が生まれてから十年後、俺は必ずふたたびおまえの前に現れ、おまえを殺し、時術を奪う。

「……その十年後というのが、今日なのです。まもなく王太郎はここへやってくる。約束通り、堂々と」

 そんな話を聞いた直虎は、心の奥から怒りが蹄を鳴らして駆け上がってくるのを感じていた。

「……父上の仇が、母上を殺しにやってくるのですね」

「そうです」

 決然、直虎は雷火の迸る声をあげていた。

「迎え撃ちましょう! そして血祭りにあげましょう!」

「いいえ、いけません。今のあなたでは王太郎には太刀打ちできない。それより私に考えがあります。これより私が持っている時術の魔法を、直虎、あなたに譲ります」

「時術を受け継げば王太郎に勝てますか?」

 直虎はそう飛びつくように訊ねていたが、朱鷺恵はそれにもかぶりを振った。

「そういうことではありません。私の考えとは、今夜の戦いを回避する策です。今夜、王太郎が時術を奪いにやってくる。しかし時術の所有者が私からあなたに移っていれば、王太郎はあなたを殺せない。なぜならあなたはまだ子供だからです。彼に子供を殺すことはできません」

 直虎は短くうめいた。理屈はわかるが、感情がわからない。

「身重の母上を殺そうとした男が、そんな情けをかけるでしょうか?」

「本当に無慈悲な男であれば、あのときに私を殺していたでしょう。しかし王太郎は律儀に約束を守って十年待ちました。絶対、私の考えは上手くいきます。私は王太郎のことを一番知っていますからね」

「幼馴染だからですか」

 直虎のその言葉に、朱鷺恵は唇を薄く伸ばして笑う。それを見て直虎は心底仰天した。

 ――母上が笑った。

 いつも厳しい母親は、直虎の前でついぞ笑ったことがない。そして初めて見せたその笑みは、どこか夢を見ているようでもあった。

「王太郎は必ず私の思う通りに動く。それに直虎、御父様の仇を討ちたいでしょう」

「はい、それはもちろん……」

 王太郎が父を殺したと聞いたときから、それは直虎のなかで運命づけられてしまった。許せない、報いを味わわせてやりたいと思う。

「王太郎は、時術を奪って歴史を変えると云いましたね。そんな馬鹿げたことのために父上を殺したというなら、直虎は絶対許しません」

「ならば今は時術を継承しなさい。そうすれば王太郎は、あなたが大人になるまで待つでしょう。そのあいだに力をつけ、あなたが王太郎を倒すのです。これは仇討ちであると同時に、世界を守ることでもある。もし王太郎が時術を手に入れ、過去に遡って歴史を変えれば、今ここに生きている人々は存在自体が消滅します。そのようなことを許してはなりません。あなたが世界を守るのです!」

「わかりました!」

 直虎は心の底からそう答えていた。自分の使命、父の無念、歴史を変えるために平気で人を殺す悪の化身から世界を守るのだという崇高なものが混然一体となって、十歳になったばかりの直虎を小さな英雄に変えていた。

 直虎はすっくり立ち上がると朱鷺恵を見下ろして云う。

「そういうことなら直虎は命を懸けて戦います。時間の魔法を受け継ぎ、父上を殺した大悪党から世界の歴史を守るため、人生を捧げましょう!」

「よく云いました!」

 朱鷺恵もまた歓喜に震えながら立ち上がり、まだ成長期にも入っていない直虎の華奢な肩に両手を置くと、感極まったように云う。

「それでこそ私の子です! 私は嬉しいですよ、直虎」

「はい」

 そう返事をした直虎の頭に手を置き、朱鷺恵は云う。

「では目を瞑りなさい。これより時術の継承を行います」

 直虎は云われた通りにし、静かにそのときを待った。

 突然、自分の頭に置かれた朱鷺恵の手を通して、自分と朱鷺恵の心がつながるような感覚があった。次の瞬間、朱鷺恵のなかにあったなにか巨大な力の塊が、一瞬の流れ星となって自分の内部に移ってくる。

 その瞬間、直虎は時術を体得し、因果の超越者となっていた。

「終わりましたよ」

 そう云って朱鷺恵が直虎の頭から手を離したので、直虎は閉じていた目を開けた。そして自分の両手を見下ろしている直虎に朱鷺恵が云う。

「感じますか? あなたに魔法が受け継がれたのを?」

「はい。たしかに今までにないものが、私のなかで息づいています」

「これで時術はあなたのもの。ですがみだりにその力を使ってはなりません。しばらくは私の監督しているときにのみ、使用を許します。そして自覚なさい。あなたは宇宙の法則を揺るがしかねない、巨大な力を手に入れてしまった――」

 朱鷺恵がそう、直虎に注意を促したときだった。

 突如、庭で落雷のような轟音がして、屋敷自体が鳴動した。直虎もまた肝を潰され、心臓が止まりかけたほどだった。

 一方、朱鷺恵は落ち着き払ったものである。

「……派手なノックだこと」

「母上、これは……」

「ふふっ、一足遅かったわね、王太郎。直虎、ついてきなさい」

 朱鷺恵はそう云うと直虎の返事も待たず部屋を横切り、縁側の廊下に出る障子を開けた。直虎は朱鷺恵がまた笑ったことに驚きつつも、とにかく朱鷺恵のあとについていく。

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