第二話 敵の名は(1)

  第二話 敵の名は


 シザーリオと出会ってから一年余りが過ぎた、二〇一五年六月八日月曜日の午後、高校二年生になっていた直虎は、学校の教室で歴史の授業を受けていた。

 教壇には世界史の教師が立ち、今は生徒たちに背を向けて黒板を書いている。だが今の直虎はあまり勉強に身が入らないでいた。

 ――こんなことをしている場合なのか。

 今日は六月八日。あと二日で自分は十七歳の誕生日を迎える。いずれ来る日だとわかっていたが、どんな気持ちでその日を迎えればいいのか、未だにわからない。

 だがどうにせよ、今は授業中だ。ぼうっとしていて教師に目をつけられてもつまらないと思い、直虎は教師がこちらを振り向いたのを機に居住まいを正した。

「――というように、太平洋戦争でアメリカと痛み分けに持ち込んだ大日本帝国は、東アジアに大東亜共栄圏を打ち立てた。だがそれも長くは続かない。ヒトラー暗殺、ソ連の崩壊、植民地の解放運動などが立て続けに起こり、世界は昏迷の時代を迎える。だが人類は一致団結してそれらを乗り越え、一九六〇年に世界統一政府が発足、共産主義を一掃し、中東から西洋の影響力を取り除き、魔法使いの存在が明るみになるも手を取り合うことに成功し、アフリカの子供たちには徹底した教育を施し、十五年をかけて地球上のあらゆる紛争が解決され、世界は平和になりました。めでたしめでたし」

 とは云うものの、もちろん人間のやることだから、搾取や貧困や差別はある。小さな諍いは起きているし、火種は消えることなく燻っている。だがそれでも、世界中のすべての国を束ねる統一政府があらゆる紛争を水際で阻止し、大きな秩序は保たれていた。もう何十年も、世界のどこでも大きな戦争は起こっていない。ユートピアとまではいかないものの、人類は二度の世界大戦を経て上等な世界を手に入れたのだろう。

 と、そのとき女生徒の一人が挙手して云った。

「先生! 白い魔女の話は?」

 すると教師は苦笑いをし、教卓に置いてあった教科書を生徒に見せるようにして掲げ、もう片方の手で教科書を叩いた。

「そんなものはただの伝説だよ。教科書にも載ってないでしょ」

「だって――」

「ま、先生にもわかります。世界統一政府の発足にあたり、裏で貢献した女性がいるという伝説。その女性はすべてを見通す神のような目を持ち、あらゆる紛争に介入してこれを解決、すべての悲劇を未然に防ぎ、のちに世界のリーダーとなっていくような偉人たちを次々に発掘しては政府の要職に就けた……白い魔女と呼ばれた彼女がいなければ、世界が一つになるなんてことは夢物語で終わり、人類は今でも戦争を続けていたと云う話」

 教師はそこで言葉を切り、おもむろに中指で眼鏡を持ち上げた。

「ま、たしかに、そういう神がかった人物がいなければ、戦争のない世界なんて実現していないという話はわかります。でもそんな人は実在しないんですよ。歴史に残ってないんだから。そういうのは虚像っていうの。テストに出ませんから覚えても無駄。わかった?」

 はーい、とその生徒は返事をしたが、いかにも不満そうであった。


 放課後、直虎は琉歌とシザーリオを誘って繁華街に繰り出していた。六月ともなれば日も長く、辺りにはまだ暮色が立ち込めてもいない。

 直虎とシザーリオはこの一年で背が数センチ伸びていた。特にシザーリオなどは金髪に緑の目ということも相まって、学校の女子たちからプリンスなどと呼ばれている。一方、琉歌は完全に成長が止まってしまっているのか、身長も体重もまったく変わらない。感情が凍てついているのも相変わらずであった。

 そして直虎は少しだけ髪を伸ばすようになっていた。これはシザーリオのせいだ。

 ――頼むから坊主頭はやめてくれ。見ていられない。伸ばしてくれ。

 そうシザーリオがしつこく頼んでくるので、とうとう直虎の方が根負けしたのである。

 と、そんなシザーリオが直虎の前に回り込んで笑う。

「誘ってくれて嬉しいよ、直虎。でも君が遊びに行こうなんて珍しいよね。いつもトレーニングか勉強か、あるいは君のお母さんと二人で秘密の鍛錬をしてるかなのに」

 秘密の鍛錬とは、魔法の訓練のことである。人の耳目があるのでそうぼかしたのだ。ともあれ、直虎は声を張り上げて云う。

「たまには息抜きも大事だからな。なんでも好きなもの奢ってやるよ」

「そりゃすごい」

 シザーリオははしゃいだ声をあげると、今度は琉歌の後ろに回り込んでその華奢な肩に両手を置いた。

「聞いたかい、琉歌? なに食べたい?」

「私は別に、栄養のあるものならなんでも。味も匂いも感じませんから」

「でもとびきり辛いやつなら刺激があるって、最近判明したよね。四川料理なんかどう?」

「シザーリオ様たちがそれでよろしいのなら」

 琉歌はいつものように淡々と答え、シザーリオがわざとらしいほど大袈裟な仕草で両手をひろげ、空を仰ぐ。

「これだよ」

「琉歌は変わらないからな。そしてシザーリオは、なんだか騒々しくなった」

 するとシザーリオはがらりと表情を切り替え、直虎を睨めつけながら指差してくる。

「君らが暗いから僕が盛り上げてあげてるんだろう。で、食事はどうする?」

「そうだな……」

 思案ののち、結局、直虎たちは激辛カレーが売りのカレーショップで夕食にした。学生三人が制服姿で高い店に入るのもおかしいと思ったからだ。

 カレーはシザーリオが一番甘口で、直虎は中辛、琉歌は一番の激辛を頼んだ。直虎も一口だけ食べさせてもらい、火を吐きそうになったそのカレーを、琉歌は淡々と食べている。辛味による刺激が愉しいのか、その顔が少しだけ微笑んでいるように見えたのは、琉歌がこの一年で見せた数少ない変化であったろうか。


 カレーショップを出たあと、直虎たちは色々な店を冷やかし気味に見て回った。そうこうしているうちに日は沈み、人工の光りが溢れ出し、街は夜の顔を見せ始めた。

「七時を過ぎたか……」

 腕時計を見てそう云った直虎に、シザーリオが声をかけてくる。

「今日はありがとう。カレー、美味しかったよ」

「ああ」

「でも、本当になにがあったの?」

 シザーリオは唇だけで笑っていた。目は笑っていない。それで直虎もたちまち表情をなくし、どことなく寂しげにシザーリオを見返して云う。

「どうしてそう思う?」

「一年も友達をやっていればわかるさ。君は強さに餓えているようなところがあった。それなのにこのごろはうわの空で、稽古にも身が入っていない。おかしいと思っていた。ところで僕は気づいたんだけど、明後日誕生日だよね」

「ああ」

「十七歳になったら、なにかあるのかい?」

 そう云ってこちらをじっと見つめるシザーリオの瞳は、真実を求めていた。直虎はそれをわかっていながら、しかし苦笑いして云う。

「云えない。これは俺の家の問題でもあるからだ」

 するとシザーリオは失望に顔を曇らせたが、怒りはしなかった。

「そう、か……」

 それきり三人、道の真ん中で立ち尽くしてしまう。時折、通りすがる人が直虎たちを邪魔くさそうに避けていった。あるとき誰かが舌打ちしたので、直虎はそれを契機に声をあげた。

「もう帰ろう」

 直虎は少しばかり背中を丸めて歩き出した。琉歌とシザーリオは顔を見合わせたが、なにも云わずそのあとについていく。

 後ろから二人がついてきてくれているのに、直虎は一人で歩いているような気持ちになっていた。もうすぐ最後かもしれないから、心残りはすべて片づけておきたい。

 いつしか直虎は家路から逸れていた。まっすぐ駅を目指していたのが、別の方向を指して歩いている。やってきたのは歩道橋であった。

 立派な歩道橋だが、どこかのビルと連絡しているわけでもなく、またすぐ下に横断歩道があるせいか、あまり人が通らず、繁華街の真ん中にあって死角のような箇所になっていた。

 直虎は歩道橋の真ん中で足を止めると、欄干に肘を預け、眼下を通り過ぎていく車のテールランプに目をやった。

「直虎様、いかがいたしました?」

 琉歌の問いに、直虎は気もそぞろといった顔をして相槌を打った。

「……なんで俺は、こんなところに来ちゃったんだろうな。ここならあんまり人も通らないし、話をするのにちょうどいいと思ったのかもしれない」

 そのぼやきの意味を、シザーリオはすぐに理解したらしい。

「直虎!」

 シザーリオがぱっと顔を輝かせ、直虎の左隣の欄干に飛びつき、直虎に顔を近づけてきた。きらきらと目を輝かしている彼女から気まずそうに目を逸らした直虎は、琉歌が右隣に立つのを見ると、「全部は話せない」と前置きしてから口を切った。

「……家の問題っていうのは、魔法の問題ってことだ。俺の母上がもともと流れの魔法使いだって云う話は知ってるだろう?」

「うん。珍しいよね、魔法使い同士で結婚なんて」

「ああ……」

 この世に魔法使いが千人しかいない以上、魔法使い同士の結婚は稀である。だから多くの場合、結婚相手には魔法の存在を打ち明けるよりほかにない。だが世界統一政府の下で魔法の存在がおおやけになった今でも、魔法使いと一般人の結婚にはトラブルがつきものだ。しかし朱鷺恵の場合は元々流れの魔法使いであったため、そこは問題がなかった。

「……そして俺は真行寺家の幻術に加えて、母上の魔法も受け継いでいる。今まで秘密にしていたが、俺は二つの魔法を持っているんだ。その魔法については、今も母上から指南を受けている。もちろん武術もやっている。それもこれも、すべて一人の男を倒すため」

 それには琉歌もシザーリオも目を瞠った。直虎が戦いを睨んでいることは二人も知っていたけれど、敵の正体について具体的な言及をしたのはこれが初めてであったのだ。

 シザーリオが目をぱちくりさせて云う。

「男?」

「そうだ。たった一人の男だ。とてつもなく強い力と、危険な思想を併せ持つその男……そいつを倒すために、俺の人生はあった」

「人生って、そんな……」

 シザーリオは脅かされたような顔をした。冗談だと云えば、彼女は安心して笑うのだろう。だが残念ながら、直虎は本当に一人の男を倒すためだけに十六年間生きてきたのだ。

 シザーリオは固唾を呑むと、目を伏せて云った。

「本当なんだね」

「ああ、奴の名は――」

「俺の名は?」

 突然、直虎たちの会話に男の声が割って入り、直虎たち三人は弾かれたように振り返った。跫音あしおとなどはしなかったはずなのに、ちょうど直虎たちの真後ろ、反対側の欄干を背にして、一人のハンサムな大男が腕組みしながら立っていた。

「な――」

 愕然と目を剥く直虎を見て、男は晴れやかにわらった。

「やあ、七年ぶりだね。直虎君」

 屈託のない笑みを浮かべたその男は、黒髪に青い目をした東洋人であった。身長およそ一九〇センチ、年齢は三十四歳のはずである。肩幅が広く、胸板は厚く、ギリシャ彫刻のように逞しい体つきをしていて、美男だが少し口が大きい。それが異国情緒漂う青い衣服を身に着けている。

 おおよそ、誰もが好感を持つようなこの男を一目見て、直虎はらいに打たれたようになってしまった。

「な、なぜだ……なぜおまえが、ここにいる? おまえが現れるのは明後日、俺が十七歳の誕生日を迎えた日のはずだ!」

「いいや、違うよ、直虎君。その日は、俺が君を殺す日だ」

 あっさりと云われたその言葉に、シザーリオはもちろん、感情を失ったはずの琉歌さえ驚きを呈していた。

 そんな二人は目に入らないのか、男は直虎を見据えて云う。

「だからその前に、挨拶しに来たんじゃないか。元気だったかい?」

「挨拶……挨拶だと?」

「うむ、挨拶は重要だ。まがりなりにも君の命を奪おうと云うんだ。問答無用でいきなりというわけにもいくまい。その前に少し話をしておいた方がいいと思ってね」

 その堂々した態度に、直虎は唖然として声もない。シザーリオもまた絶句している。ただ一人、琉歌だけが自分のペースで直虎に訊ねてきた。

「直虎様。直虎様の敵だという男は、この方なのですか?」

 それにも返事ができないでいる直虎に代わり、男が云った。

「うむ、その通り。実は悪いと思ったんだが、昼間から直虎君のことをつけていてね。どのタイミングで姿を現したものか迷っていたんだが、直虎君は君たち二人に俺のことを話し始めたじゃないか。ならば隠れている必要はないと判断して出てきたんだよ」

 男はそこで琉歌への言葉を切ると、直虎に視線をあてて云う。

「それで直虎君、俺の名は?」

 そう迫られた直虎は大きく息を吸うと、まるで恐ろしい敵に、勇気を振り絞って向かっていくように声を絞り出した。

仁羽王太郎じんば・おうたろう……!」

 それがこの英雄的容姿を持つ大男の名前であった。

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