第一話 直虎と琉歌とシザーリオ(3)


「日本語はいつ勉強した?」

「こっちに来ることが決まってからだよ。勉強はできる方なんだ」

「日本に来てまで男装している理由は?」

「これは僕の決意の現れだよ」

 シザーリオは威儀を正すと自分の胸の上に片手を置いた。男として生きると父親に啖呵を切った手前、張り通すつもりなのだろう。

「心臓が弱いのに体を動かすのが好きだと云ったな?」

「うん。ダンスか、あるいはなにか別のスポーツをしたい」

「怖くはないのか? その……」

「心臓が止まってしまうことが?」

 自分の云おうとしていたことに先回りされて、直虎は少し口ごもった。だがシザーリオは莞爾かんじと笑って云う。

「昔は怖かったけど、今は怖くない。髪を切って男の姿になったとき、僕のなかから恐怖という感情が消えてしまった。そう、今はなんでもやってみたいと思っているよ。たとえその結果心臓が止まってしまっても、構うもんか。僕は死を恐れない!」

 そう溌剌と語るシザーリオが、しかし直虎にはひどく透明な存在のように思えた。まるで次の瞬間にも消えてしまうような、儚さを感じる。だが。

「……自分で決めたことなんだな?」

「そうだ」

「だったらシザーリオ、俺と一緒に武術をやらないか? 旋風寺流古武術だ。この近くに道場を構えていて、女人禁制だが本格的でやりがいがある。どうだ?」

 それにはシザーリオもたちまち難色を示した。

「僕は乱暴なこと嫌いって云ったろう? だいたい女人禁制なら、いくら男装してたって僕は無理じゃないか。断られるよ」

「俺の幻術で完璧な男に化ければいい」

「幻術で?」

 シザーリオの目が明るく見開かれた。武術はともかく幻術には興味があるらしい。

「知っての通り、真行寺家は幻術使いの家系だ。幻術と云っても色々だが、俺の幻術は目や耳といった感覚器官じゃなくて、脳をごまかす」

「ふむ。つまり光学迷彩や音そのものに細工する魔法とは根本的に違うわけだね」

「そうだ。目や耳自体は、正確な情報を受け取っている。ところが脳がそれを正しく認識しない。たとえば男装の幻術だと、目は女を見ているのに、脳は男と判断する。耳は女の声を聞いているのに、脳は男の声と思ってしまう。言葉遣いですら、女言葉を話していても相手には男言葉として聞こえる。触ったときの肉体の感触だってごまかせる。しかし真実を知っている場合……つまりその人物が本当は男ではなく女だと知っている場合、脳はごまかされることなく、対象を正しく女として認識する。そういう術だ」

「ふうん。つまり真実を知られなければ相手を徹底的に騙せるってことか。強力だね」

「だが裏を返すと、真実を知っている者には一切通用しない、儚い術さ」

 直虎がそこで言葉を切ると、シザーリオは相槌を打って訊ねてきた。

「それを僕に施すってこと? でも君と別行動を取っているときはどうするの?」

「真行寺家の幻術には術者が直接展開するものと、護符を身に着けることで発動するものがあるんだ。幻術の護符として、肌身離さず身に着けておけるようなアクセサリを用意しよう。それなら道場への入門も可能だと思うが、どうだ?」

 だがシザーリオはかぶりを振って云う。

「答えはノーだ。僕は武術なんてやらない。でもその護符って云うのは、作ってほしいな。男の人に声をかけられることがなくなりそうだ」

「護符か……」

 直虎としては、やぶさかではない。今日から始まる友情のしるしに贈ってやってもよい。しかしこの際だから、直虎はそれを取引に使ってみようと思った。

「俺と一緒の道場に通うことが条件だ、と云ったら?」

 するとシザーリオの顔に初めて迷いが浮かんだ。

「どうしてそんなに僕を誘うの?」

「琉歌以外で、組手相手がほしい。それにおまえは俺と琉歌が組手稽古をすることに反対のようだが、それならおまえが武術を習って俺の相手をするというのは、立派な解決方法だと思う」

 するとシザーリオは腕組みし、しばらく唸ったあとでこう訊ねてきた。

「その旋風寺流道場って、なにするの?」

「非常に実践的な古武術の稽古だ。護身もあるが殺人術もある」

 その言葉にシザーリオは心底ぞっとしたようである。

「殺人術って、そんなの習ってどうするのさ?」

「云ったろう、倒すべき敵がいると。で、道場のことだが、原則的に朝稽古はない。遠くから通っている人もいるからな。稽古は夕方から夜にかけて、あとは土日祝日。稽古が終わったらみんなで飯に行ったり風呂に行ったり……夏には合宿もある。あとは――」

「ちょっと待った」

 シザーリオがそう遮ってくるので、直虎は小首を傾げた。

「なにか?」

「今、一緒にお風呂って云った?」

「ああ。同じ道場で稽古して汗を流すんだからな、食事はもちろん、みんなで銭湯に行ったりもするさ。だが心配いらない。幻術でおまえが女と知らない相手には、おまえの裸は男のものとして映る。たとえなにかの拍子に体を触られたって、向こうはごつごつした男の体を触ったと感じるだろうさ。だからなにも問題は――」

「問題大ありだよ! 直虎は僕のこと女だって知ってるじゃないか!」

「ああ、その件なら――」

 直虎としては、それについてはきちんと解決策を提示できたのだが、シザーリオは矢継ぎ早に云う。

「それにさ、いくら幻術でカムフラージュされてるからって、僕の認識では裸になって男たちと一緒のお風呂に入るってことだろう? そんなの絶対無理! 駄目駄目駄目!」

「そう、か……」

 直虎は胸にかすかな失望を植え付けられるのを感じた。せっかく仲間を見つけたように思ったのに、結局シザーリオは男を装っているだけの女だったのだ。

 だが考えてみれば、本当に女を捨てる気ならシザーリオはまだ思い切りが足りない。髪を切ったらしいが、短髪なりにそれなりの長さはあり、三ヶ月でセミロングにできそうである。だが本気で男として生きるつもりなら、ベリーショートやスキンヘッドの方が潔いではないか。

 そして男たちと一緒の風呂に入り、合宿のときには同部屋で雑魚寝しても平然としていられるような、そういう覚悟が、シザーリオにはないのだ。

「……わかった。もう誘わない。そして護符はやる」

 その気前のいい返事に、シザーリオは息を凝らすほど驚いたようだった。

「いいの?」

「最初からそれとこれとを引き換えにするつもりはなかった。友達のしるしだよ」

 するとシザーリオの直虎を見る目はたちまちきらきらと輝き出した。だが飛び上がってはしゃいだり喜んだりはせず、ばつの悪そうに頭を掻く。

「なんか悪いな。それに……」

 シザーリオは琉歌を見た。相変わらずほとんど喋らず、ここまでの会話にも積極的には参加してこない。その姿、佇まいは人形のようだ。

 シザーリオは琉歌の前まで行くとその場に片膝をついた。

「すまない、琉歌。僕はさっきあんな綺麗事を云ったのに、君を救うことより自分の羞恥心を優先してしまった。恥ずかしいよ」

「そんなこと、構いませんよ」

 琉歌は冷たい声で云った。それは許しているというより、どうでもいいのだろう。琉歌は自分で自分のことをがらくたのように思っているから、誰かになにかしてもらうことが理屈に合わないのだ。

 ――くそ、本当に、人形みたいになってしまって。

 昔話をしたせいか、子供のころの活き活きとした琉歌の姿がまなぶたに蘇り、直虎は目頭が熱くなった。

 そこへそのとき、人形のようだと思っていた琉歌が口を開いた。

「それより直虎様、お願いがあります」

「な、なに!」

 直虎は溢れかけていた涙も吹き飛ぶかのようだった。琉歌がこうなって五年、彼女が望みを口にしたことはほとんどない。いや、これが初めてではないか。

「おまえが俺にお願い? なんだ、なんでも云ってみろ」

「はい。シザーリオ様に差し上げる男装の幻術の護符ですが、私にも作っていただけないでしょうか」

 それには直虎も目を瞠った。

「それは構わないが、男装してどうする?」

「直虎様と同じ道場に通います。この家でお世話になっている以上、私はあなたの役に立たねばなりません。しかるに今の私では、組手相手として力量不足。なので女人禁制の旋風寺流古武術を、男装して学んでみようと思います」

「おまえには無理だ」

 直虎は反射的にそう否定していたが、それが理屈に合わないことは自分でもわかっていた。琉歌もまた不思議そうに首を傾げている。

「なぜでしょうか? 心得はあります。ほかならぬ直虎様が私に稽古をつけてくださいましたので」

 そう、琉歌は運動神経自体は悪くない。小柄なりに体力もある。ただこの性格で、荒くれや体育会系の多い武道家たちと上手くやっていけるかは不安があった。

 しかし一方、琉歌が自発的に『なにかをしたい』と云う意志をはっきり示したのは、これが最初である。

「直虎」

 シザーリオがそう声をかけてくれたので、直虎は一息つくような気持ちで云った。

「る、琉歌がこんな風になにかをやりたがるのは、彼女がこうなってから初めてなんだ。もしかすると、これは彼女の心の回復に向けた一歩なのかもしれない……」

 だがそれでも直虎は迷っていた。理由は自分でもわからない。

 と、そのときシザーリオが立ち上がって凛呼たる声をあげた。

「やるべきだ」

「シザーリオ?」

「琉歌がそうしたいと云うならやるべきだ。やっと出てきた芽を踏み潰したら、彼女はもうずっとこのままかもしれない――僕も一緒にやるからさ」

 思い切ったように云われたその言葉を聞いて、直虎は驚きのあまりたじろいだ。

「一緒にやるって、い、いいのか?」

「もちろん殺人術なんか学びたくない。護身術だけにさせてもらうよ」

「幻術でカムフラージュされるとはいえ、男たちに混ざるのは厭なんだろう?」

「そうだけど、琉歌が行くって云うのに知らんぷりをしたら、僕たちは一生、本当の友達にはなれないような気がする。それが一番厭だ」

 その真摯な言葉に直虎は胸を打たれ、シザーリオのことを引き込まれるように見つめながら、自然と握手を求めていた。その手を取ったシザーリオが笑う。

「初心者だからフォローしてくれよ」

「もちろんだとも」

 そうして握手を終えたところで、シザーリオが思い出したように云う。

「問題は君に裸を見られる可能性があることだな。さて、どうしたものか」

「ああ、それなら――」

 と、直虎が口を開きかけたのに先んじて琉歌が云った。

「それでしたら、恥ずかしがる必要はありません。なぜなら直虎様は――」

 その先の秘密を聞いたシザーリオの目が、みるみる驚きに見開かれていく。心に起こった大波は彼女の全身に広がり、ついに彼女は叫んだ。

「え、えーっ!」

 その驚愕の叫びが朝方の空にわっと広がって溶けると、直虎は唇を尖らせながら云った。

「そんなに驚くこともないだろうに」

「だ、だって……」

 シザーリオは色々に表情を変え、うなり、そして最後にはこう漏らした。

「君が強さを求めているのはわかったけど、そこまでして倒さなくちゃいけない敵って、いったい……」

「それは琉歌でさえ知らないことだ。これは俺の戦いだからな」

 そう切り捨てるように云ってのけてから、直虎はふと付け加えた。

「だが、もしかしたらおまえたちになら、話す日も来るかもしれないな」

 するとシザーリオは半分笑い、半分は疑わしそうな顔をして云う。

「期待しないで待つことにするよ」

「そうしてくれ」

 直虎はそう云って微笑むと、青い空を見上げて両手を広げ、伸びをした。

「では男装用の護符を二つ拵えたのちに、入門手続きを取るか」

 このとき直虎たちは十五歳。これより一年のあいだは平和であった。

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