第38話

アルフォンスは今、この目の前で起きている事、起きてきた事に、そして自分の置かれている状況に眩暈を覚えていた。

とは言っても、今現在の自分は幼い頃の自分の中に存在しているだけで、何かできるわけではない。

正直、これは異常事態だ・・・と、感じている。あれから、六回の夜を過ごした。

有里は幼い自分の中の『自分』には気付いていない。ましてや、有里そのものが他者の目には映っていない。加えて、この部屋からは出る事ができないようだ。

自分自身は幼い自分の中に存在している所為か、その様な縛りはなかったが。

よって、今は亡き父の顔を見た時には、涙が出そうになったことは言うまでもない。

そして考える。これは本当に夢なのか・・・だが今現在、幼い自分が辿っている時間には記憶に有るものと無いものが混じっていた。

正確に言うならば、自分の覚えていた記憶とかなり違う所がある。


『夢なのか・・・だが、夢にしては余りにも全てが現実感がありすぎる』


だが有里は「これは夢ね!」とサクッと割り切り、すぐに行動を起こしはじめた。

ヌルガリ伯爵が寄与した乳母を幼い自分自身に解雇させ、馴染の侍女を復帰させた。

というのも、有里の姿は自分以外に見る事も触れる事もできないという、まるで幽霊のような存在で側にいるのだから、見える自分が動かなくては事が進まないのだ。

そして、一人で何でもできるように・・・恥ずかしいことだが、この頃の自分は一人で着替えや入浴などできなかったので、有里が全て教え始めた。

この世界では考えられない事を、次々していく有里。

有里が生きていた世界の、国の、自分が子供達にしてきた事を与えてきた事を、アルフォンスにも惜しげもなく与える。

それは嬉しくて、恥ずかしくてそして、とてもとても幸せで・・・

だけれど、時には幼い自分と大人の自分の意思が繋がっていなくて本当に良かった・・・と、胸を撫で下ろすことも多々ある。

その一つを上げれば、風呂だ。なんと毎日一緒に入っているのだ。

正直、アルフォンスは愛しい人の裸をこんな状態で見る事になろうとは・・・と、目を覆ってはみるものの、彼も男。

初めは罪悪感と共に指の隙間から覗いていたのだが、さすがに今では凝視はいまだできないが傍に居ること自体には慣れてきた。いや、正直かなりきつい。理性が。

そして、就寝。有里は幼いアルフォンスを抱きしめて毎日眠りにつく。


こんな事があっただろうか・・・と、有里の寝顔を眺めながら記憶のすり合わせを何度もしてみる。

これまでの記憶の中では、乳母の解雇、身の回りの事、全てユリアナが教えてくれたものだった。だが、今目の前で起きている事が夢ではなく、時間を遡り見せられているものだとすれば・・・

『これが、正解なのか?』

今現在この身に起きていること自体、夢か現かとてもあやふやな事なのに・・・

ただ変わらないのは、幼い自分がとても幸せだという事。この気持ちだけは、本物だ。


『だけど、できる事ならば本来いるべき自分の時代で、有里とこうして抱きしめ合いながら眠りにつきたかった・・・』


嬉しいが、大人のアルフォンス限定で言えばかなり切ない日々。小さなアルフォンスにしてみれば、幸福な日々。

そんな優しい時間も、長く続く事はなかった。それは突然、終わりを告げようとしていた。

何時もの様に就寝するためにベッドに上がれば、有里は正座をしアルフォンスを呼んだ。

「何?ユウリ」

「うん・・・なんか、私、戻らなきゃいけないみたい」

その言葉に、幼いアルフォンスは零れそうなほど目を見開き、そして、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。

「え・・・?なんで?僕、悪い子だったの?」

「アルフォンスは悪い子じゃないよ。とぉっても、良い子!!」

「じゃあ、なんで?」

縋りつくアルフォンスに、有里も苦しそうに笑った。

「うん・・・・私の生きている世界は、ここじゃないんだぁ・・・だから、帰らないと」

「行かないで!!ここにいてよ!!」

「泣かないで・・・私たち、必ず又、会えるから。必ず」

「嫌だよ!そばに居てよ!!」


大人のアルフォンスに伝わってくるのは、何が何でも引きとめたいという必死さ。

『あぁ・・・これは・・・』


泣きながら抱き着いてくるアルフォンスを有里は優しく抱き止め、今にも零れそうな涙をごまかすように小さなその肩に顔を埋めた。

そしてポンポンと背中を叩き、大きく息を吐き顔を上げた。

「・・・アルフォンス、私は今あなたにおまじないをかけたよ」

「え?」

驚いたように身体を離し、有里を見上げた。

「私を忘れる、おまじない」

その言葉にアルフォンスは、正に絶望する。


『・・・この場面・・・この感覚・・・この悲しみ・・・』


「ユウリは、僕が嫌いなの?だから、おまじないをかけるの?」

「違うよ!大好きだから・・・とても大事だから、かけるんだよ」

「ウソだ!僕が嫌いだから・・・ダメな子だから・・・・」


『あぁ・・夢で見ていたのは、これだったのか・・・』


「違う!アルフォンスはとても素晴らしい皇帝になる事、私は知っている。だから、自分を貶める事を言ってはダメよ!」

「なら、なんで忘れるおまじない・・・」

アルフォンスは嗚咽で言葉にならず、引き留める様に有里に抱き着いた。

「じゃあ、このおまじないを解く方法は、アルフォンスが決めていいよ」

そう言えば、驚いたように顔を上げた。

「いいの?」

「いいよ」

「・・・じゃあ、おまじないが解けたら、僕と結婚して!」

有里は驚いたように目を見開くも、いいよ、と頷いた。

「だったら、簡単に解けるようなものは駄目だよ?」

「わかってる。だって僕はユウリの事、忘れちゃうんでしょ?」

「うん」

「でも、きっと僕はユウリの事をまた、好きになる!」

涙で濡れた瞳でじっと見つめられ、有里はドキンと心臓が跳ねた。

まだまだ子供のアルフォンスにときめく自分に驚きながら、何だか、大人の・・・いつも傍に居てくれるアルフォンスに会いたくて会いたくて、胸の奥がギュッとなる。

「アルフォンス、貴方に会える事を、楽しみにしているよ・・・」

そう言って、有里はアルフォンスに口付けを落とせば、まるでそれが合図であるかのように、有里の姿が薄れ始めた。

「ユ・・・ウリ、さみしいよ・・・いやだよ・・・・」

縋りつき泣きじゃくるアルフォンスを強く抱きしめ「私も寂しい・・・でも、会えるから・・・必ず、会えるから・・・」まるで呪文の様に繰り返す。

お互いに温もりが失われていくのを感じながら、まだ感触が残る腕に力を込めた。

アルフォンスは有里の名を繰り返し、有里は「うん、うん」と相槌を繰り返す。


そして、まるで闇に飲まれるかのように、本当の別れがやってくる。

手から砂が零れていくかの様に相手の感触が無くなり、空を掴むようにアルフォンスは前のめりになった。

「ユ・・・ウリ・・・」

ほぼ消えかけた有里に手を伸ばす。

「・・大好きだよ・・・・アル・・・」

その言葉を残し、有里は静かに消えていった。

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