第39話

若葉色に琥珀を散りばめた様な、不思議で綺麗な瞳がゆっくりと開かれる。

何度か瞬きを繰り返し、少し顔をずらせば、穏やかな表情で眠る有里の顔があった。


まだ、あの続きなのか・・・と思ったが、意識的に動かした腕に、身体に、あぁ・・戻ったんだ・・・と安堵の溜息を漏らしながらゆっくりと手を伸ばし、有里の頬を撫でた。


全て、思い出した。


あれは夢ではない。有里が自分に掛けた呪まじないが解けていく・・・その瞬間だったのだ。

いや、正確にはユリアナがかけた・・・・となるのだが。

ユリアナは、有里が消えて入れ替わる様にアルフォンスの元に現れた。

その時、有里をここに戻してくれと泣きながら懇願し、かなり困らせた事も思い出した。


あまりの取り乱しように心配したユリアナが、それに便乗して呪いをかけたのだ。


有里がかけようとした呪い。アルフォンスが有里を忘れる事。

アルフォンスがそれを解く呪い。それが、今まさにこの状況。

幼い自分の切なる願い。


有里が自分を抱きしめて、あの頃の様に眠りにつく事・・・


有里に口付けし、初めて好きだと自覚したあの夜。でも、何処かすっきりとしないところがあった。

だが、今はどうだ。まるで不規則に並んでいたものが、あるべきところに納まり、かちりと全てのピースがはまったかのような爽快感。

目の前がというより全てがクリアになり、有里への愛おしさ、恋しさ、切なさだけがどんどん沸き上がってくる。


あぁ・・・何て愛おしくも切ない記憶なのだろうか・・・


大人がいる前では仏頂面を貫き、部屋に戻ればメソメソと泣く。なんとも、素直ではない、ひねくれた子供だった。

助けてほしいのに誰にも言えず、伸ばしてくれた手さえも取らず、自ら雁字搦めになっていったあの時。


今思えば、何故あそこまで意固地になっていたのかすら思い出すこともできないが、有里が目の前に現れ、全てが一変したのだ。

子供ながらに有里に恋をし、誰にも姿が見えないのであればそれは好都合だとすら思うほど、純粋な独占欲さえ持っていた。

だからあの時、有里が施した自分を忘れる呪い。彼女を、その思いを封じたのはある意味正解だったと思う。

あんなに幸せで、一人になってしまった時の、絶望的なまでの寂しさ。それを抱いたまま生きていくのは、辛すぎる。

幸せだった時の思い出だけを胸に生きていく・・・・なんてのは、絶対に無理だ。

ユリアナを待っていた時の思いとは、比にならないほどの悲しみが強すぎて。


アルフォンスは、物思いに耽ながら有里の瞼、髪、頬、唇を、その指先に想いを込めて触れていく。


有里はくすぐったそうに肩をすくめると、ゆっくりと瞼を持ち上げた。

「・・・アルフォンス・・・・おはよ・・・あと、ごふん・・・・そしたら・・・起きるから・・・」

そう言いながら、アルフォンスの頭を抱き寄せると、また、静かな寝息が頭の上か聞こえ始めた。

そんな有里がおかしくて、クスクスと小さく笑う。

彼女の寝ぼけ眼まなこに映っているのは、幼い自分なのだろうか。

有里は朝が苦手で、幼い時も彼女を起こすのは彼の役目だった。

今と同じく「あと少し」と言いながら、ギュッと抱きしめまたも穏やかな寝息をたてる。

それが嬉しくて、何時も早めに有里を起こし、抱きしめ合って眠ることを密かな楽しみにしていたのだ。


幸せだったあの頃の、何ら変わらない幸せが今、目の前にある。

違う事と言えば、自分は大人になっているという事。

自然と緩んでゆく頬と、抑えきれない衝動。アルフォンスはギュッと有里に抱きつき、大きく息を吸った。

柔らかでどこか甘い匂いが鼻腔をくすぐり、熱い吐息を吐き出す。

自分の身体であって身体でない、幼い自分の中に存在したこの意識。

触れたいのに触れられず、ただ見ている事しかできなかった。理性が擦り切れそうな時もあった。

でも、今は違う。こうして触れあえ、温もりを分け与えられる。


アルフォンスは有里の優しい戒めを解くと、片肘を付き身体を起こした。

先ほど指で触れていた、頬や髪や瞼や唇や・・・・今度は自身の唇で辿る。

その唇に、何度も口づけを落とせば、有里もさすがに瞼を開けた。

そして間近にあるアルフォンスの顔を見て、一瞬、驚いたように目を見開き、今度は混乱したかのように「あれ?え?」と声を上げる。

「おはよう、ユウリ」

「・・・お、はよう・・・あれ?アルフォンス?」

いまだ、視線が定まらない有里に、アルフォンスは「夢でも見ていた?」と意味ありげな笑みを浮かべ問う。

「あ・・うん。夢・・だったの?アルが小さくて・・・可愛くて・・・って、アル!具合は!?」

ようやく現うつつに戻った有里は飛び起き、アルフォンスの額に手を当て熱を測る。

「ほっ・・・熱が下がってる・・・痛い所とか、苦しい所はない?」

「大丈夫だ。それよりも、ユウリがどんな夢を見ていたのか気になるな」  

「夢?あぁ・・・あれは、夢なんだよね・・・私は此処にいるし、アルも大きいし・・・」    

いまだ混乱したかのように纏まりのない言葉にアルフォンスは、「ユウリは呪いを使えるなんて、知らなかったな」と敢えてユリアナの事は言わず、有里の事だと言えば、「え?」と初めはキョトンとしていたのが、みるみる驚愕の表情へと変わっていく。

「ア・・・アル、フォンス?」

「ん?何だい?」

そう答えながらにっこりほほ笑めば有里は口元をヒクつかせながら「夢じゃ、なかったの?」と、思わず正座した。

「ユウリは知らないよね?俺がユウリの呪いを解く方法」


有里は、零れ落ちそうなほどに目を見開いた。


「今ようやく、ユウリの呪いは解けた」

「じゃあ・・・あれは・・・・・」

「そう、ユウリが俺に施した呪いが解かれる瞬間。俺の記憶が戻る瞬間だ」

いまだ混乱中の有里は意味のない「え?」とか「あ?」とか言いながら視線を彷徨わせている。今現在、自分がどんな格好をしているのかすら忘れて。


あぁ・・・今の俺には・・・目の毒だ・・・


アルフォンスは下着姿の有里をシーツでくるむと、そのまま抱き込む。

「呪いが解けたら・・・約束、守ってくれるよね?」

「・・・・やく、そく?」

「呪いが解けたら、俺と結婚してくれる約束をした」

その言葉に、暫し考え込む様な仕草を見せたかと思うと、くわっと目を見開きアルフォンスを見上げた。


初めは夢だと思っていた。小さなアルフォンスと触れあえて嬉しかった。

幼いアルフォンスを見た事はないが、直感で彼だ・・・とわかったのは、夢だと思ったから。夢では、理解不能な事でも納得してしまうものだから。

でも、過ごしていくうちに疑問も沸いてきてはいた。あまりにリアルで不可思議で。

彼を見ていると大人のアルフォンスに無性に会いたくはなったりするものの、でも、とても優しく愛おしい時間だった。


小さな彼は甘えん坊で、何もできないお坊ちゃまで・・・でも、とても嬉しそうに笑ってくれるから、何でもしてあげたくなった。

そんな楽しい時間にも終わりはやって来る。上手くは言えないけれど・・・もう、夢から覚める時間なのだと本能的にわかった。

泣きじゃくるアルフォンスを一人置いていくのはとても心配で寂しくて。この先の将来、立派な大人になる事はわかってはいても、離れるのはとても忍びなかった。

だから、嘘も方便で『まじない』をかけたのだ。・・・・とは言うものの、有里に特別な力はない。


平たく言えば暗示の様なものだ。効けばラッキー位の気持ちで彼を抱きしめ言葉を紡いだ。

なのに、彼からは思いもかけない反撃を受けてしまう。


『・・・じゃあ、おまじないが解けたら、僕と結婚して!』


彼の言葉に驚いたものの、すんなり了承してしまった自分にもっと驚いている。

了承したのはきっと、この時間が自分が本来いるべき時間ときと重なっていないと思っていたから。

例え重なっていたとしても、覚えていないだろう。出会った時のアルフォンスを思い起こせば、そう思えたから。なのに・・・・


「言ったろう?ユウリの事を好きになるって」

思考の海深く沈んでいた有里を難なくアルフォンスは引き上げる。

そして、まるで壊れ物でも扱う様に優しく抱きしめ、彼女の肩に顔を埋め小さく吐息を漏らした。


「ユウリ・・・・好きだ・・・・好きだ、好きだ・・・」


苦しそうに、絞り出すように繰り返すその言葉に、ユウリの胸がギュッと締め付けられる。

息をするのも苦しいほどに、胸の奥の熱い何かを呼び起こし、揺さぶる。

顔を起こし、ひたりと有里の瞳を捕らえ、まるで熱で潤んでいるかのような婀娜めいた眼差しで有里の全てを絡めとる。


「愛してる。おかしくなってしまいそうなほど、愛おしい」

こくりと有里の喉が鳴った。

「もう、ユウリ無しでは生きてはいけない。あんな、辛く苦しい思いは、もう二度としたくない」

悲しそうに目を眇めるその表情に、有里は息を飲む。

「俺はユウリに二度も恋をした。また、忘れるような事があったとしても、絶対、必ずユウリを好きになる」

恍惚とした表情で愛を告げられ、息が止まりそうになる。


「愛している。俺の妻になってほしい」


そう言いながら、有里の左手を取って、その甲に口付けた。

何も言えず固まったままの有里に、アルフォンスはその瞳を覗き込みながら、クスッ笑った。

「ユウリ、顔が真っ赤だよ」

「・・・・・っ!だって、こんなっ!こんな・・・熱烈に告白された事・・・ないんだもん・・・恥ずかしいよ・・・」

語尾が消えそうなほど弱々しく反論したかと思うと、自分の胸元をギュッと掴んだ。


あぁ・・・この甘い痛みは・・・私が最も恐れていたもの・・・・


このまま、この想いの激流に身をゆだねてもいいのか・・・

心地良い胸の疼きに、全てを捨てて彼の手を取っていいのだろうか・・・

その手を取って・・・その後は?私は、恋に狂う醜い女になるのだろうか・・・・


・・・・怖いっ・・・・


有里は冷静に自分を見つめる自分自身に、ぶるりと身体を震わせた。

そんな有里にアルフォンスは優しく名前を呼ぶ。そして「俺を、見て」と、顔を上げさせた。

「ねぇ、ユウリから見て今の俺はどう映っている?恋に我を忘れて醜態を晒している、哀れな男?」

「そっ!そんな事無い!!」

「そう?今の俺は自分でも情けないなって思えるくらい、ユウリを口説くのに必死なんだ」

「う、そ・・・」

「嘘なもんか。余裕のひとかけらもないくらい緊張している。ほら」

そう言って、彼女の手を自分の胸へと押し当てた。

そこから伝わるのは、自分と同じ位の早さの鼓動。

びっくりしたようにアルフォンスを見上げれば、ちょっと情けないような困ったような表情で笑う。

「今俺の心の中を覗き見る事が出来るのであれば、きっとユウリに嫌われる事間違いなしだ」

「え?」

「邪な事ばかり考えているから」

一瞬なんのことか・・・と言う表情だったユウリは、目を見開き口をパクパクさせる。


「七日近くも好きな人の裸を見せられて・・・俺だって健全な男だから」


そうだった!私は・・・小さなアルフォンスとお風呂に入ったり添い寝したり、あんな事やこんな事や・・・って!えぇぇ!?

あわあわし始めた有里に、アルフォンスはクスクスと笑う。

そんな彼に文句の一つも言ってやろうと、顔を上げた有里は不意に違和感を感じ、小首を傾げた。


この人は、こんなにも表情豊かな人だったろうか・・・?


リリやランも『無表情が通常装備』と言っていたし、自分といる時は結構、表情は豊かな方だとは思っていたが、今の様にコロコロ変わるほどではなかった。

まるで小さなアルフォンスを思い起こさせるような、そんな表情だ。

有里は無意識に、アルフォンスの頬に手を伸ばし、そっと撫でた。

そんな、突然の彼女の行動に驚きはしたものの、その手に自分の手を重ね、甘える様に頬を摺り寄せた。


あぁ・・・もう、無理・・・


有里は観念したように目を閉じた。

彼は自分を慰めようとしているのだと悟る。きっと、リリ達から聞いていたのだろう。

恋愛に対し、あまり良い感情を持っていない事を。

だから彼は、きっと包み隠さず今言える自分の想いを伝えてきた。怖い事など何もないのだと・・・皆、同じなのだと・・・

そんな事をさせてまで、彼を拒絶してしまう理由がもう、有里にはなかった。

有里はもう片方の手も彼の頬に添え、そっと瞳を合わせた。


「ありがとう。アルフォンス」

「それは、何に対しての礼?」

「うん・・・全部に対して、かな?上手く言えないや」

困った様に笑えば、アルフォンスの顔が徐々に近づいてきた。

「ねぇ、返事を聞かせて、ユウリ」

こつりと、互いの額が合わさる。

「うん・・・・こんな私だけど、宜しくお願いします」

そしてまるで吐息の様に小さく紡がれた言葉は、アルフォンスの耳をくすぐる。


「好きよ・・・アルフォンス。大好き」


次の瞬間、まるで箍が外れたかのように、アルフォンスは有里の唇を奪った。

押し倒し、これまでの想いをぶつけるかのように激しく。

有里も拒むことなくそれを受け入れ、ギュッとアルフォンスを抱きしめた。

ようやく解放された時には、有里は息も絶え絶えで、潤んだ瞳でアルフォンスを見上げる事しか出来ないでいた。

「・・・・そんな目で見ないでくれ・・・今の俺はここまでしか・・・できないから・・・」

そう言うと、彼女の上に力なく倒れ込んできた。

「ア・・アル!?」

「・・・だい、じょうぶ・・・だから・・・ごめ・・・重い・・・だ・・・」

最後まで言葉は続かず、まるで気を失うかのにように深い深い眠りへと落ちていった。

熱は下がっても、きっと身体は相当辛かったに違いない。

そんな彼が、小さな彼とダブって見えて、格好良くて、可愛くて、愛おしくてしょうがない。

「無理させちゃったね・・・ありがとう。大好きだよ」

そう言ってそっと彼の鼻先にキスをした。


それから、数日後、皇帝アルフォンスと女神の使徒との婚約が成立したと、大々的に発表されたのだった。





闇が支配する、一室。


月もなく、満天の星ではその室内を照らすことすらできず、濃い闇が全てを飲み込んでいた。

そんな暗闇の中に、まるで幽鬼の如く白く浮かび上がる、人影。

その瞳は美しい紅玉の様に瞬またたき、暗闇の中でもその光は陰る事はない。

窓辺に腰掛け、感情すら読めない眼差しは、何処を見ているという訳でもなく、まばたきすら忘れたかのように一か所を見つめ続けている。

その視線がわずかに動けば、部屋を包み込む闇とは異なる漆黒の塊が足元に現れた。


「・・・ザラムか」


凛とした声で白き幽鬼が問えば、「御前に」と漆黒は答える。

「報告を」

「はい。ユリアナ皇帝が使徒様と婚約をされました」

「・・・・そうか」

暫しの沈黙の後、幽鬼は小さく「我等も動かねばならぬな」と呟く。


そして「スキア」と呼べばもう一つの漆黒が足元に現れた。

「御前に」

「奴の動向をこれまで以上に監視せよ」

「御意」

「ザラムは引き続きユリアナへ」

「御意」

そして漆黒は、闇の塊が霧散したかの様に姿を消した。


白き幽鬼は、小さな溜息を吐くと瞼をおろし美しい紅玉を隠す。


「あの時、手を離さなければ・・・私の元に降りていたのに・・・」

それは、後悔と身の内に燻る憤りとを、まるで吐き出すかのような声色。

だが、その瞼を開けばその言葉とは正反対の、どこか甘さを滲ませたかのような優し気な眼差しが現れ、窓の外の星が犇ひしめく夜空を見上げる。


「早く会いたいものだ・・・」


小さな呟きは漆黒達に対するものとは正反対の、柔らかさを漂わせ、この部屋を満たす暗闇へと溶けていった。




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