第51話 消えない過去、そしてこれから
雪乃さんと連れ立って脱衣所にやってきた。
お世辞にも広いとは言えない我が家の脱衣所は人が二人も入ればかなり手狭だったため、先に僕が服を脱ぎ浴室でバスチェアに座りながら待つこととなった。
浴槽には汚れていない綺麗なお湯が既に張られていて、妙な理由で追い出してしまった父に感謝をしつつ、浴室の引戸の曇りガラスの向こうに見える雪乃さんの服を脱いでいるシルエットにドギマギしていた。
「それでは、入りますね」
「は、はい!」
そしてその時がやってきて、引戸の向こうから雪乃さんの声が聞こえてくると、緊張のあまり声が上ずってしまった。
雪乃さんもそんな僕がおかしかったのか、向こうからくすくすっと笑い声がしてから、ガラガラと戸が開かれた。
浴室の前に立つ雪乃さんは一糸纏わず生まれたままの姿でそこにいた。
櫻子さんを助け出すときに受けた切り傷や打撲のアザが身体中にあり痛々しいが、それでも全身の肌の白さや大きな二つの膨らみ、そして細いのにはっきりとした腰のくびれといったスタイルの良さや美しさに目を奪われて、僕は一言も発せずにいた。
そして何故か雪乃さんも、僕を見つめたまま固まっているようだった。
「ど、どうかなさいましたか、雪乃さん?」
一足先に我に返った僕はそう問いかけると、雪乃さんはぼんやりとした表情で口を開いた。
「……薫さん。綺麗です、とても」
雪乃さんはどうやら僕の身体を足の爪先まで全身を観察しているようだった。
「あ、ありがとうございます……」
そんなことを言われたら誰だって羞恥を覚えるというもので、僕は肩を縮こませて視線を躱そうとした。
「いいんですよ、恥ずかしがらなくて。むしろ誇りに思うべきです。男性でありながら、それほどまで女性的な色気を全身から放つなんて、普通じゃないですよ?」
「ほ、褒めてるんですか……それ?」
「ええ、もちろん。結局薫さんは、女装をしていなくとも女の子なんですね」
やっぱり褒められているのか微妙なところだったが、僕はもう以前のように女の子だとか言われても抵抗したいと思う気持ちはなくなっていた。
むしろ雪乃さんが僕を、そして僕の身体を気に入ってくれるなら、それでもいいとさえ思う。
「……でも、雪乃さんの身体もとても綺麗です。もし僕が女性として生まれたならば、雪乃さんのようなスタイルになりたいと思ったはずです」
「ありがとうございます。でも男なのに女性的というのがポイント高いのですよ。……それに、男性の身体には分かりやすいバロメーターがついてますから」
そこで雪乃さんの視線が僕の身体の一点に集中し始めたことに気がついて、慌てて隠す。
雪乃さんの身体に見惚れて、気づかぬ間に元気になっていたようだった。
「隠さなくてもいいじゃありませんか。私に興奮してくれている証なんですから。むしろ大きくなってくれた方が、私も女性としての自信になります」
「そ、そんな風に言われたくないから隠しているんです!」
「はいはい分かりましたからどうかご随意に」
雪乃さんは観念したのかそう言うと、蛇口を捻ってシャワーから水を出す。
水からお湯に変わるとシャワーヘッドを持って僕の背中にお湯をかけた。
「お湯加減はどうですか?」
「……少し沁みますけど、ちょうどいいです」
「ま、それはしょうがありませんね。むしろあれだけのことがあって、この程度で済んでいるのが奇跡みたいなものですから」
そうしてお湯が僕の全身にかけられると、雪乃さんも自分の身体を温めるようにシャワーを浴びた。
「さ、薫さん。今日は特別に私が身体を洗って差し上げますから」
「そ、そんないいですよ。自分で出来ますから」
僕がそう返事をすると、雪乃さんは不機嫌そうな顔をして、ぐいと近づいてきた。
「……薫さんはお忘れですか。あなたはもう私の彼氏なんですよ? あ、いえ告白の時は女装してたから彼女……? どちらにしても私の恋人なんですから、大人しく洗われてください」
恋人だから洗われるというのもあまり聞かない理屈だったけど、それより僕は雪乃さんの口から出た恋人という言葉でようやく現実を実感し嬉しくなる。
だからという訳じゃないけれど、雪乃さんがそうしたいと言うのならと了承した。
「はい、素直でよろしい」
僕の返事を聞いた途端、雪乃さんは嬉しそうな笑顔を見せた。その顔を見れただけでも良かったかなと、僕はそんな風に思う。
「それでは失礼しますね♡」
雪乃さんはシャワーで僕の髪を十分に濡らすと、シャンプーを手に取って僕の頭で泡立てて洗いはじめる。
「はーい、お客さん。痒いところはございませんかー?」
髪の毛をわしゃわしゃ洗いながら、雪乃さんはまるで美容師のような口調になっている。
だけどその手の動かし方は本当に美容師のように上手で気持ちが良い。
散髪に行った時にも確かに気持ち良いと感じるが、今日こうしてされて感じる気持ち良さは美容室以上かもしれない。
ああ、そうか。雪乃さんにしてもらっているからそう思うのだと僕は気付いた。
いつも以上に安心感が生まれリラックス出来る。確かに恋人に洗ってもらうのは特別かもしれない。
「薫さんは頭皮の将来に陰りがありますから、念入りにマッサージしておきましょう」
「ちょっと雪乃さん、それは中々心が抉られると言いますか……あぁ、でも……ん、それ、凄く気持ち良いです」
適度な圧で頭皮をマッサージされ、頭が揉みほぐされると、少なからず癪ではあるが存外気持ちが良く癖になりそうだ。
「雪乃さん本当にお上手ですね」
「ありがとうございます。これでも薫さんと同じ年の頃は美容師になるのが目標でしたから」
「そうだったのですね」
美容師の雪乃さん……か。確かに何でも器用にこなす雪乃さんなら、カリスマ美容師として名を馳せていた未来があったのかもしれない。それだけに、どうして雪乃さんが美容師にはならなかったのかが気になる。
「薫さんの聞きたいことは分かりますが……そうですね。事情はやや複雑なのですが、端的に申しますとなりたい職業と向いている職業は違うということになります」
雪乃さんは浴室の鏡越しに僕の表情を読み取ったのか、質問を口に出す前に答えくれた。
「それで暴力団付きの探偵になられたのですか?」
今までの雪乃さんの行動や言動、即ち盗聴器といった専門機器の知識や対策、それから暴力団組長の娘であった沙織さんが雪乃さんと知り合いであったような口ぶりなどから総合的に判断して、僕はそうでないかと結論づけた。
僕がそう口を開くと雪乃さんの手は止まり、はぁとひとつため息を溢す。
「……望んでそうなった訳ではありません。探偵は私が自分の能力を最大限発揮するに一番向いている仕事でしたから。ですが、気がついたら底無し沼のように深みに嵌って動けなくなっていたのです」
きっとそうなるまでには様々な事情と苦悩があったのだろう。きっと雪乃さんが以前話した恥ずべき過去とはこのことだ。
「話しにくいことを聞いてしまいすみません」
「いえ、こうなった以上いずれはお話しなければならないことでしたから。……頭、流しますね」
雪乃さんは取り乱す様子もなく、落ち着いて再びシャワーヘッドを手に取り僕の頭の泡を流す。
「……今回の件も、私の忘れ物が使われてしまったから起きてしまったようなもので、責任の一端は私にもあるのです。本当にごめんなさい薫さん。本当……あなたをこんな目に合わせてしまって……」
背中に流れるのはシャワーのお湯よりすこし冷たい滴。雪乃さんは僕の背中に頭を乗せて泣いていた。
「……雪乃さんはもう、彼らとは関係ないのでしょう? ならばいいじゃありませんか。僕の知る雪乃さんは、文香ちゃんの家の少しだけ口の悪い家政婦であり、僕の女装指南の先生です」
僕は身体を雪乃さんに向けた。
「そして何より重要なのは、今は僕の大切な恋人だということです」
「……薫さ——んんっ!」
少しだけ強引に雪乃さんの唇を奪う。驚いたように目を見開く雪乃さんだったけど、すぐに僕を受け入れてくれた。
「ん、んんちゅ……んはぁ……。薫さんは、こんな私でも受け入れてくださるのですね。こんな罪深い私でも」
「罪深いというのなら僕もです。僕も大きな過ちを犯してきましたが、それでも雪乃さんは受け入れてくれましたから」
「……私の罪に比べたら可愛いものですが、それでも嬉しいです、薫さん。好きです、薫さんあなたが好きで堪りません」
「僕も大好きです、雪乃さん!」
僕は力一杯雪乃さんを抱き締めた。離したくない、失いたくない。僕は自分の全てを掛けてこの人を愛すると、そう決意した。
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