第48話 二人の間

「ん……んん……」


櫻子さんが目を覚ましたのは、櫻子さんの自室のベッドに運んですぐのことだった。


「か、薫……いるの?」


「ええ、私はここにいます」


まだ意識がはっきりしないのだろう。ぼんやりと天井を眺める櫻子さんの手を僕は握った。


「大丈夫。もう安全ですよ。櫻子さんを傷つける悪い人は、ここにはいません」


安心してもらうために。僕はそう言って握る櫻子さんの手を、もう片方の手で何度も撫でた。


「ん……よかったぁ……」


櫻子さんは気持ち良さそうに目を細めると、ゆっくりと手を握り返した。


「薫さん。私は外におりますので」


ここまで櫻子さんを運ぶのを手伝ってくれた雪乃さんは、櫻子さんが意識を取り戻し返事をしたことでもう大丈夫と判断したのだろう。部屋の出口に向かって歩き出した。


「……はい、ありがとうございます雪乃さん」


出て行こうとする雪乃さんに僕は深く頭を下げてお礼を伝える。雪乃さんは一度柔らかく微笑んで、それから何も言わずに出て行った。


「今の人、一緒に助けに来てくれた人?」


櫻子さんは上半身を起こして、部屋を出る雪乃さんの背中を見つめていた。


「ええ、そうです。あの人がいなければ、私もどうなっていたか分かりません」


「そうなんだ……。じゃああたし達二人の恩人だね」


「本当に……本当にそうですね」


ここまで来るのに僕一人では無理だった。


雪乃さんが力になってくれなければ、今頃本当にどうなっていたことか。雪乃さんに感じる恩は計り知れない。


「ふふふっ。薫って本当に女の子みたいだね」


「なっ! 何を言っているんですか櫻子さん! 確かに今はこんな格好だし、こんな喋り方ですが、私はれっきとした男です!」


揶揄われ少しムキになってしまったが、その様子を櫻子さんは面白そうに笑う。


「うん、うん。知ってるよ。子供の時から薫は男の子。男の子だから、あんなにいっぱいいた悪い人をやっつけられたんだよね」


「そ、そうですよ! 私は強い男なんですから当然です」


だけど櫻子さんは、優しく笑いながら首を振る。


「……でも、あの人が部屋を出る時の薫はやっぱり女の子みたいな顔をしてた。寂しそうに」


「なっ……」


僕はどう返事をしたら良いか分からず戸惑ってしまう。


そんな僕の頭を櫻子さんはゆっくり撫でた。


「……好きなんでしょう? あの人のことが」


櫻子さんに静かに問われ、僕は自問する。


「……」


だけど、時間はそれほど掛からなかった。


「……やっぱりね。あたし薫のことは何でも分かるんだよ?」


幼馴染に全てを見透かされ、僕は観念する。何よりこのことで櫻子さんに嘘を吐いてはいけないから。


「……ごめんなさい」


櫻子さんの顔を正面から見た時に、僕は……自分に正直でいようと思った。だから謝る。


「何で謝るの? 薫に酷いこと言ったのはあたしの方なのに」


「……だって櫻子さんが、泣いているから」


瞳に流れる一筋の煌き。櫻子さんは笑顔のまま、優しい顔のまま、涙を流していた。


「え、嘘。あたし泣いてなんか……あれ、おかしいな。ごめんね薫。あたし悲しくなんてないのに……悲しくなんて……そんな、やだどうして……っ、く、うぅぅ、うぅ……」


それは心のダムが決壊してしまったかのように、遂に櫻子さんの涙は止まらなくなる。


声を上げて泣く櫻子さんを僕は背中に腕を回して抱き締めた。だけど櫻子さんはすぐに僕の身体を押し戻す。


「……ありがとう薫。でも、大丈夫。あたし強くならなきゃ。薫がいなくても平気にならなきゃいけないから」


櫻子さんは手で何度も自分の顔を拭う。止まらぬ涙を止めるように。


「あたしね、多分まだ薫のことが好きなんだと思う。……変だよね、昨日あんなに怒って薫に嫌な想いさせたのに」


「……嫌な想いをさせたのは私の方ですから、どうか謝らないでください」


「ううん、違う。違うの。そうじゃなくてね、あたしって馬鹿なんだ。あんなに酷いことを言ったのに、それでも薫はまだあたしのことを見ていてくれるだろうって、そんな風に勘違いしてたの」


「勘違いなんかじゃ——


続きを言おうとしたけれど、櫻子さんの柔らかな手が優しく僕の口を塞ぐ。濡れた瞳で真っ直ぐ僕を捉えながら。


「薫が助けに来てくれた時本当に嬉しかった。あたしはもうダメなんだーってあの時は思ってたから。助けに来てくれた薫が凄く格好よく見えたの。薫が格好よく見えるって相当だよ? 薫は顔は可愛いけど、いつだってうじうじ悩んでばかりの少し情けない男の子で、それがあたしの知ってる幼馴染」


「櫻子さん……」


「でも今日の薫は本当に格好よかった。……薫と同じくらい、隣にいたあの人も格好よかった。それであたし気付いたんだ。ああ、薫をこんなに格好よくしたのはこの人なんだって。少し羨ましかった。本当の意味で薫の隣にいるのが相応しい人がいるんだって分かったから。私がいつまでも薫の隣にいたら、多分薫は一生格好よくなることなんてなかったと思うから」


櫻子さんの涙はまだ止まらない。だけどその涙は悲しみには見えなかった。むしろ表情は清々しい。


「ねぇ薫。もし今日こんなことがなかったとしたら、あたし達上手くいってたかな?」


その質問は重く深く、僕の心に問うていた。


今日がなければ、こんなことがなければ、きっと僕は櫻子さんと恋人になっていただろう。そんな未来もあっただろう。


ifもしを想像して物思いにふけることは簡単だ。だけど想像は想像に過ぎず、意味がないことを今の僕は知っている。


「……仮定の話は私には出来ません。だけど重要なのは、櫻子さんがわた——僕にとっていつまでも変わらない大切な幼馴染であるということで、唯一無二の親友であるということです」


「ありがとう、薫。……でもそれって結構酷くない? それって要するに一生お前とは恋人にならないって意味でしょ?」


「……へっ? え、ああ! そ、そこまで言ったつもりじゃ——


「冗談。揶揄っただけだよ」


もうそこに櫻子さんの涙はなく、いつもように小悪魔のような笑みを浮かべる大好きな幼馴染がそこにいた。


「今度はちゃんと口にして。……好きなんでしょ、あの人が」


「はい、愛しています」


再度の問いかけに、僕は即座に返事をした。それは迷いも嘘も偽りもない、僕の本心だったから。


「うっ、愛してると来やがりますか……。これじゃあたしが入り込む余地がないじゃない」


「ごめんなさい。でも……私はもうあの人の女らしいので」


沙織さんを殴り飛ばす時、雪乃さんがそう叫んでいたことを思い出し、僕は思わず頬が緩む。


僕のニヤケ面を見た櫻子さんは勘弁してくれと言わんばかりに少し嫌そうな顔をする。


「はいはい、ご馳走様。誰かさんの女はいつまでもあたしの部屋にいちゃ不味いでしょ? さぁ行った行った!」


「ちょっと櫻子さん! まだ起きちゃだめですよ!」


ベッドから立ち上がった櫻子さんは僕を押して強引に部屋の外に追いやった。


「いい、薫? あたしはまだ諦めた訳じゃないから。これからどんどん自分を磨いて、薫と並んでも恥ずかしくないくらい良い女になってやるんだから。薫が幸せにならなかったら、絶対にあの人から薫を奪ってやるんだから。生命の恩人でも、あたしは遠慮しないから!」


冗談っぽく言っているが櫻子さんの目はとても真剣だ。だからそれが櫻子さん流のエールなんだと理解した。


こんなに色々酷い目にあって、それでも挫けることなくいつまでも変わらない姿は、やはり櫻子さんが僕の大切な幼馴染であることを思い知る。


「……ありがとう櫻子さん」


余計な言葉は掛けない。言葉に装飾はいらない。ただ僕はシンプルに礼を伝えるだけだ。


「うん、それじゃあね。薫」


それから部屋の扉が閉ざされて、僕と櫻子さんの間は隔たれた。


扉の向こうから微かに聞こえる嗚咽は櫻子さんのもの。再び扉を開けて、櫻子さんを抱き締めたいと思う。優しい言葉を使って慰めてあげたいと思う。


だけど、それは櫻子さんに対する冒涜だ。櫻子さんの気持ちを踏みにじらないためにも、僕自身の気持ちを裏切らないためにも。僕は扉を背を向けた。

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