第45話 折られたサクラ
山岸櫻子に状況を把握する術はなかった。
それは一通のメールがきっかけだった。五限と六限の授業の狭間。たった五分のささやかな休憩の時間に届いたメールの差出人は、櫻子にとって大切な幼馴染みからであった。
それは長いこと恋焦がれ、それでいていつまでも一緒にいたいと願った人物であったが、それも昨日までのこと。
三鷹薫が櫻子に抱いていた好意には、本人も気がついていた。だがお互いに過ごした幼馴染みとしての長い年月は、幼馴染みという関係から恋人同士へと発展させるには、障害となった。
なぁなぁの関係を過ごせば過ごすほど、変化を急ぐ必要はない。いつかその時がくれば自然とそうなるものであるという思い込みを生み出した。
それは傲りだ。それは怠慢だ。お互いが両思いなのだからそれでいいと傲り高ぶる油断は思いもしない形で裏目となり、結果として恋人になるという未来は潰え、幼馴染みとしての友人関係にさえ綻びが生まれた。
櫻子は薫の告白を拒んだ。告白の前日に届いた匿名のメールに添付されていた音声を真に受けた訳じゃない。
むしろそれは信じられないもので、信じたくないものでもあった。
確かめよう、確認しよう。あれは何かの間違いで、きっと誰かの悪い悪戯だと。しかし現実はあまりに非情であり、慌てふためき戸惑う幼馴染みの姿には落胆すら覚えた。
だが櫻子の胸には疑念が残る。どうしてあのような音声が自分の下に届いたのか。薫が悪戯であのようなものを作った可能性もあるが、だとすればそれを突き付けた時の狼狽に説明がつかない。
であるならば、これは誰かの策略である。自分の想い人が他人と寝たからどうしたというのだ。
これが恋人の浮気であったならば、破局の原因にもなる。しかし櫻子は薫と恋人という訳ではない。
両思いであったことは間違いないが、それまで曖昧な関係で先に進むのを恐れていたのは間違いなく櫻子の方だった。
だからこうなってしまうのも可能性の一つとして間違いなく存在していた。
ましてや薫は学校で女子から隠れた人気を持っている。時々自分では薫とは不釣り合いではないのかと思い悩むこともあった。
故に愚かなのは自分であり、事実は誰かに先を越されたというその一点である。
であるならば、誰かと寝たことを理由に一方的に責め立てるのは間違いであったと櫻子は後悔した。
誰かの策略にまんまと嵌り、薫を自ら拒絶したのが間違いなく自分であると櫻子は自覚した。
だからちゃんと謝ろう。まだ薫に僅かでも好意が残っているのなら、そのチャンスに縋ろう。そう決意して学校に臨んだのは今日の朝。
だが謝罪ややり直しのチャンスは訪れなかった。
どういう訳か、薫は女装姿で登校していた。それもどうやって調達したかも分からない女子の制服に身を纏い。
櫻子は困惑した。自分が彼を振ったからおかしくなってしまったのではないかと。
それも含めて彼に話をしようと試みるも、女装をした薫の人気は絶大で、クラスメイトだけでなく他のクラス、学年から薫の姿を一目見ようと群衆が殺到し、二人きりで話をする機会を得ることは叶わなかった。
これは昨日自分が彼を冷たくした報いなのだろう。人気者の薫にはやはり自分は相応しくなく、これが本来のあるべき姿なのだろうと。
大勢に囲まれ幸せそうな薫と、方や教室の隅で一人そんな様子を眺めるだけの櫻子。嫉妬はもちろん感じていた。しかし、それ以上に突き刺さる現実は冷酷で、だから櫻子は諦めるしかなかった。
薫はもうかつての幼馴染みではなく、どこか遠い存在になってしまったと。
そう思っていた櫻子だったからこそ、その後体調不良で早退した薫からメールが届いた時の嬉しさは筆舌に尽くし難いものとなる。
「二人きりで話がしたい、今すぐ僕の家で」
ただそう書かれていただけだったが、櫻子を学校から飛び出させるには十分だった。
だがそれこそが罠であったと、今になって思い知らされた。
櫻子が学校を抜け出して薫の家がある方向に向かって歩きしばらくした頃、櫻子の前に停まったのは一台の国産SUV。
それも塗装が剥がれあちらこちらがサビだらけの、相当古い廃車寸前の車が近づいたと思えば、中から飛び出した柄の悪そうな男数人によって車の中に連れ込まれてしまう。
頭に布を被らされ視界を奪われて、両手両足をロープのようなもので縛られる。抵抗しようと車内で暴れるも、腹部を数回殴られたところで櫻子の戦意は喪失した。
車が再び停まったのは、それからしばらく走った後だった。
足のロープだけを外されて車から下ろされると、歩けと命令される。
生まれて初めて感じる生命の危機に、櫻子は恐怖で足が震え命じられた通りに歩くことが出来ない。
ヨタヨタ歩きのように少しずつ足を前に運んでいると、業を煮やした誰かが櫻子の背中を蹴飛ばした。
両手を縛られ、受け身をとることも出来ずに顔から地面につんのめると、途端に周囲から下品な笑い声が上がった。
「おいおい嬢ちゃん。パンツ丸見えだぞ? 誘ってんのかよ」
誰かが放った心ない一言に、櫻子の心は完全に折れた。
男達に誘拐され、動きを封じられ、繰り返される暴力に耐えきれず、櫻子は声を上げて泣いた。涙と過呼吸で顔の布が口に張り付いて段々と息が苦しくなる。
「ったく、騒ぐんじゃねえよクソガキが。……おい、お前こいつの腋持て。さっさと中に入れるぞ」
足腰に力が入らず地面に伏す櫻子の両腋に腕が差し込まれると、無理矢理体を引き起こされ足を引きずられながら、どこかへ運ばれる。
「よし、ここで下せ」
そうして櫻子の身体が離されると、力の支えを失い膝から崩れ落ちる。
だが膝に当たる感触はアスファルトやコンクリートではなく、柔らかくもないが硬くもない弾力のある生地のようなものの上に落ちたようで、痛みを感じることはなかった。
それから頭の布を外されると、ようやく櫻子の視界が捉えたのは、見たこともない倉庫のような場所だった。
とても広いが何もなく、屋根付近の窓から微かに陽の光が差し込む程度の、とても薄暗く埃っぽい場所だ。
倉庫の真ん中に自分はいて、体育の授業で使うようなマットの上に置かれている。
同じ空間には櫻子を攫った男達を含め、十人程の人間がいる。高級そうなスーツを着た男から上下スポーツブランドのジャージ姿の男まで。全員に共通しているのは、皆柄が悪い男達であるということだ。
その内数人は金属バットや自転車のチェーン、果てには日本刀のようなものを持っている者までいて、普通ではない人間の集まりであることは、櫻子からしても一目瞭然であった。
「嬢ちゃん。あんたには恨みはないが、騒いだら犯す。犯してから殺す。そしてゴミのように捨てる。分かったな?」
高級スーツの男は懐からナイフを取り出して、櫻子の首筋に当てる。男の冷たい声に櫻子は恐怖に慄き、零れる涙すら一瞬にして止まり、首を何度も上下させた。
「……よし。念のためぐつわしとけや」
「うっす」
勢いよく返事した男が一人櫻子に近づいて、口を大きく開けるよう命令すると、櫻子の口にタオルを詰め込んで、それから口を覆うようにテープで顔を何周も巻きつけた。ついでにと言わんばかりに再び足にもロープを巻かれた直後、高級スーツの男に電話が掛かる。
「はい俺です。……ええ、ご命令通りに。……了解。連絡を待ちます」
男が敬語を使っている様子から、恐らく自分を攫うよう指示した相手だろうと櫻子は理解した。
だが相手が誰かまでは分からない。初めは薫が自分への仕返しにやったのではないかと思ったが、薫に柄の悪い友達はいない。
次点で疑わしいのは音声データで薫を誘惑していた生徒会長だ。
櫻子は生徒会長のことをよく知らない。薫からお金持ちであることは聞いていたが、黒い付き合いを通じてこのようなことをしたのではと疑ったが、あの音声を聞く限り、そんな悪い人間だとも思えなかった。
櫻子はありとあらゆる可能性を思案したが遂には首謀者を思い浮かべることは出来ず、ただ現状として自分がかなりまずい状況に陥っていることを再認識したことと——
「よう聞けぇ、お前ら。お嬢の許しがでるまで少しお預けだ。なに、あと少し我慢すればお楽しみだ。それまで金玉ん中よう溜め込んどけよ!」
自分に残された時間があまりないことだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます