第38話 Do not disturb!

昼休みの終わりを告げるチャイムはしばらく前に鳴り終わった。


校舎のあちこちから聞こえていた喧騒は遠く、彼方。


今では静まり返った廊下の向こうからコツコツと床を叩くローファーの足音がよく聞こえた。


それはゆっくりと、しかし確実に僕の方へと近づいてきて、やがて足音は止まり、カチャリと生徒会室のドアノブを回す音に変わる。


扉が開かれて現れる顔は優雅で美しく、それでいて慈愛に満ちていた。どこからか持ってきたのであろう救急箱を片手に室内に入る沙織さんの表情は怒りとは無縁の穏やかな顔だ。


「ごめん、遅くなった。これが必要になると思って取りに行ってたんだ」


扉を閉めて、未だ壁に寄り添う僕の前で膝を突くと、手にしていた救急箱を床に置き、中から消毒液とガーゼを取り出した。


「……触らないで」


液を染み込ませたガーゼを僕の頬に当てようと伸びる手を振り払った。だけど沙織さんは嫌な顔をせず、もう一度手を出して患部に押し当てた。


「うっ……」


「ごめん、染みるよね。腫れてるし、少し切れてるみたいだ。だけど恐らく跡にはならないだろうから安心していいと思うよ」


僕に拒絶されてもなお、甲斐甲斐しく手当てをする沙織さん。どうしてそんなことをするのか、僕には理解出来なかった。


「……本当にあなたが来るとは思いませんでした。今でも信じられません」


「君からしたら青天の霹靂だろうけど、私は昨日雪乃に見つかってから、君が私にたどり着くのも時間の問題だと分かってたけどね」


「では、やはりあなたが。……どうしてと聞いても?」


心の底から湧き上がる怒りの感情に支配され、僕は沙織さんを睨みつける。本当なら引っ叩いてやりたい気持ちにすらさせられるが、それが出来ないでいるのは未だに信じられない気持ちでいるからだ。


「どうして? そんなの単純だよ。好きな人のことを何もかも知りたいと思うのは普通のことじゃないか」


「動機は普通でも、手段が普通じゃありません。盗聴だなんて!」


「そうだね。だけど私は手段を選ばない欲深い女だから。欲しいものは必ず手に入れる」


手当てを続けながらも、顔だけをニヤリと歪ませるその様子に僕は背筋が凍るようだった。


これが沙織さんの本性なのかもしれないと思うと恐ろしくなる。今まで僕に接してくれた愛情深く優しいあの麗しの君はどこにもいない。


「所詮は君も私の表面しか見ていなかったということだろう。君にとっての私は、好意を寄せながら失恋の傷口を舐めてくれる都合の良い女なんだろう? もちろんそれでいい。私もそのつもりで君に近づいたのだから。多少の打算はあったけれど、概ね上手くことは運んだよ。無論、君に盗聴器が露見するまでの間までだけど」


そこまで言われても、僕は未だ言葉の意味を理解出来ていなかった。


確かに櫻子さんに振られ、沙織さんを逃避先に利用したのは紛れもない事実だった。言い方によっては沙織さんの好意を利用したと言っても間違いではない。


だけどというのはどういうことだろうか。それではまるで、僕が櫻子さんに振られるを予見していたようだ。


……いや、もう分かっている。盗聴器を仕掛けたのが沙織さんだとしたら、もう答えは一つしかない。


「……あなただったのですね。櫻子さんに盗聴器で得た情報を教えたのは」


その頃にはもう傷の手当てを終えて、沙織さんは目の前の床に座ったまま僕を見据えていた。


「薫くん。君は知っているかい? 私も女性誌のくだらない恋愛コラムで読んだのだけれど、失恋こそが最大のチャンスなんだってね。私も半信半疑だったけれど、昨日私に絆される君を見て、疑念は確信に変わった。特に君が女の情に流されやすいことも知れたしね」


沙織さんはそう言うとおもむろにスマートフォンを取り出して少し操作すると、そこから流れてきた音声に怒りを覚えた。


『もう我が儘は申しません。この一度だけ、この一度だけでふみはいいのです。お姉さまがどなたと愛し合おうと、嫉妬こそすれ文句をつける気はございません』


その声は間違いなくあの時の文香ちゃんのもの。僕の鞄に隠されていた盗聴器は、確実に音声を拾っていた。


「まったく健気だね。自分以外の誰と愛し合おうとだなんて。本当に君のことが好きじゃないとこんなこと、中々言えるものじゃない」


「黙りなさい。文香ちゃんを悪く言うことは私が許しません」


ね。雪乃も君に面白いことをする。まさか女装をしたら女の口調になるように、だなんて。ふふ、怒らないで。彼女達のおかげで君は最高に私好みの女性になってくれたんだ。感謝しないといけないかな。まったくあのお嬢さんも、雪乃も、揃いも揃って似た者同士の我の強い女だね。君のためあなたのためとうそぶきながら、結局は自分に振り返ってもらうために手段を問わない強欲な女達。結局のところ、私と何が違うのかな」


「私は黙れと言ったのです。三度目はありませんよ」


僕はもう我慢の限界を超えていた。僕のことはいい。だけど、僕の大切な人達をこれ以上愚弄されるのは耐えられない。ましてや、この卑劣な女と同類にされるなんて。


「その点山岸君は素晴らしい。彼女は特に純粋で君を一途に思っていた。一途だからこそ弱かったとも言えるけど。他の女に君が取られないように今まで懸命に守り続けて、必死にアプローチをしていたというのに、その牙城が脆くも崩れ去り想い人が寝取られたとあれば、誰だって自失茫然にもなるさ。寝取られたという事実さえ知ってしまえば、差出人不明の捨てアドレスから得た情報であってもね。彼女は君を想うあまり、他人に味見をされた事実を受け入れられなかったみたいだ。私達のように強欲な女は最後に私のところへ来ればそれでいいと思うが、山岸君は違う。そこが彼女の美しさだ」


怒りに震える僕を前にしても、沙織さんは臆することなく、いやそれどころか熱に浮かされたように饒舌に喋り続けた。


それは一見すると自らの罪ののように見えるけど違う。これは自分の想いに素直になった愛のだ。


「……そうですか。沙織さん、あなたは好きなのですね。櫻子さんが」


「ああ、その通り。好きだったよ。君のその姿を一目見るまではね」


沙織さんは蕩けたような眼で僕を直視する。だけど、僕の拒絶の視線と交わることはない。

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