第37話 透明な君に

「さて、お待たせしました大崎さん。どうぞお掛けになって」


ようやく僕は連れてきた男子生徒の大崎さんに向き直ると、手持ち無沙汰に壁際に立っている彼に椅子を勧めた。


「いえ、結構です」


しかし大崎さんはそれを断り、立ったまま視線を僕ではなく廊下側の壁に向けていた。


「ああ、大丈夫ですよ。この部屋は元々先生方の打ち合わせ室として作られた部屋だそうで、大声で叫ばない限りは外に声が漏れることはありません」


「そっすか」


僕の言葉を聞き、大崎さんは僅かに安堵のため息を溢した。


他人に聞かれないことが分かり生まれた安心がそうさせたのか、大崎さんは近くのパイプ椅子にどかっと腰を下ろすと、長机の上に両足を投げ出してみせた。


今まで物静かに大人しくしていたのが嘘のような態度の急変に僕は面食らう。


「確かに二人きりで話がしたいと言ったのは私ですが、くつろいで良いとは誰も言ってませんよ?」


「んなもん知るかよ。どうせもう俺は終わりだし、好きにさせろ」


「終わり……とは、どう意味ですか?」


「とぼけんじゃねーよ。あんたが俺を呼び出す用なんて一つしかねーだろうがよ」


足を上げてガンッと机に踵を落としてみせ怒りを露わにするこの男子生徒は、教室を訪れた時に出会った顔面蒼白の弱々しい生徒とはまるで別人のようだ。


「そうね、確かに。もうあなたも何で呼び出されたか理解しているのなら、開き直るのは得策と言えないのではないかしらね」


大崎さんの言い草から、恐らく僕の衣装への悪戯の犯人であることはもう確定的だ。


ただ一つ腑に落ちないのは、彼がいった「終わり」という言葉。


確かに自分の恥ずべき行いが他人に知られるのは恐ろしく屈辱的ではあることは間違いないが、大崎さんはまるで人生の最後かのように諦観し、自暴自棄になっているようにも見える。


どうして彼はそんな反応をするのだろう。たかが僕一人に知られたからと言って、恥ずかしくなる気持ちは分かるが、横柄な態度を取ったり、机を蹴り威嚇するほどのことだろうか。


もし僕が彼の立場なら、逃げ場がないと分かればこの場で謝罪して、事態を穏便に済ませる方向を目指すが、他の人は違うのだろうか。いいや、きっと同じなはずだ。ならば何故彼は全く別の行動をとるのか。これじゃあ事態が悪化するだけにしか思えないが。


「うるせえーな。確かにあんたの服でシコったのは悪かったけどな、汚い手を使ったのはお前らだろうが。脅すのは構わねえが、俺が二度も言うこと聞くと思ってんのか? ああん?」


それはようやく聞けた罪の告白だったが、彼のした行為や自白が霞んでしまうくらい、気になる言葉が飛び出した。


「……脅すつもりはありませんし、誰かに話すつもりもありません。約束します」


「はっ、どうだか。あいつもそう言ってたけど、現にあんたに喋ってんだろ。約束なんて信用する訳ねーだろ」


やはり。僕は敢えて彼の話に合わせてみたら、予想通り乗ってきた。


彼の話から推測するに、大崎さんの自慰行為を知る人間が僕以外にもいるということだ。


その人物は何らかの形でその事実を掴み、彼を脅した。大崎さんは僕がその人物から聞いたと思っているらしい。


「いいか? もし俺の写真をばら撒いたりしたら、お前をぶっ殺してやる!」


「確かに恥ずかしいわよね。女の格好した男にまさか欲情して、みっともなく自分のあそこを服に擦り付けてる写真だなんて。私だったらもう二度と学校には来れないわ」


彼の言う写真が何を指すかは分からない。だけれどそれは間違いなく彼の自慰行為の現場を収めたものだろう。


だからあえてそれを煽ってみたが、どうやら正解だったらしい。激怒した彼は立ち上がり、僕に迫る。


「ぶち犯してやるぞこのオカマがっ‼︎」


彼の手が伸びて僕の胸ぐらを掴みに掛かる。


が、その寸でで逆に手首を捉え、彼の背中に捻り上げる。


「い、いででっ! くそっ!」


そのまま机の上に押し倒すと、後ろ手に拘束したまま耳元に口を寄せ、囁くように喋った。


「静かになさい。言ったでしょ、この部屋は防音じゃなくて減音なの。あまり大きな声を出すと外に聞こえてしまうわ」


机に上半身を押しつけられているにも関わらず、それでもなお男子生徒は体をもぞもぞ動かして抵抗する。


「んっ————っ‼︎」


これ以上暴れられては僕も怪我をしかねないので、捻る手首の角度を更に急にする。彼の口から声にならない絶叫が上がると、それから抵抗は収まった。


「いい子ね。私もこんなことしたくはないけれど、大崎さんから仕掛けてきたのだから文句はないわよね。そのまま大人しくなさい。暴れれば暴れるだけ、痛い思いをするだけだから。それと、嘘を吐いてもね」


少しだけ手首を捕まえる腕に力を込めてみせると、彼は額から珠のような汗を流しながら必死に首を縦に振る。痴漢対策で習った武術がこうも役に立つとは僕も思いもしなかった。


「では単刀直入に聞くわ。私の鞄に盗聴器を仕掛けたのはあなたなの?」


「と、盗聴器……? 何のこ——いでででっ! ま、待て! 待ってくれ! 知らないんだ、ほんとに何のことかっ!」


苦悶の表情を浮かべる男子生徒は痛みに苦しみながら否定している。どうやら本当に盗聴器のことは知らないようだ。


「じゃあ次、あなたは私の服でオナニーしていたのよね。その時の写真を撮ったのは誰?」


あまり拷問紛いのことはしたくはないけれど、僕ももうなり振り構ってられなかった。どうしても聞きたい質問。


彼が盗聴器を知らないというのなら、怪しいのは彼の行為をレンズに収めたという人物だ。彼を脅してその人は一体何をさせたのか。それだけは聞き出しておかなければならない。


「あんた、それは冗談か? 知ってるはずだろ」


「いいえ。あなたが勝手に勘違いしただけです」


「知らないなら言えねーよ! 教えたら本当に終わりなんだ!」


「……そう。それならそれでもいいけれど、痛い思いはもう十分なはずでしょう?」


「やめろ、やめろって! 話すからやめてくれ!」


これ以上手首を締め上げれば肩が脱臼してしまうだろう。だからこれはただの脅し。だけどこの脅しはよく効いた。


どうか出来れば、櫻子さんの名前が出ないようにと願いつつ。


「檜山沙織だ! あいつが俺を撮ったんだ!」


「さ、沙織さんが……? そんな、まさか……」


願いは叶ったものの、彼の口から飛び出した名前に僕は動揺する。それはまさに予想外で、想像すらしていなかった。


「どうしてそんな……」


「俺が……知るかよっ!」


鈍い衝撃、強い痛み。


頬に受けた拳に僕は弾き飛ばされて体が壁にぶつかる。


衝撃の事実に気を取られ、拘束する力が弱くなり、その隙に逃げ出した大崎さんに殴られたようだ。


大崎さんはそのまま飛び出すように生徒会室を出て行くが僕は追いかけない。いや、追いかけられなかった。


僕はただどうして檜山さんがそんなことをしたのだろうかと思いを巡らすばかりで、いや実際は頭も上手く回ってはいない。


ただただ聞かされた話を頭の中で反芻しているだけ。背を壁に預けたまま立ち上がる気力すら失っていた。


「お姉さま! 大丈夫ですか!?」


大崎さんと入れ替わり生徒会室に入ってきた文香ちゃんは、僕を見るなり血相を変えて近づいた。


「血が出ていますお姉さま! すぐ手当てしないと……。今すぐ保健室に!」


確かに文香ちゃんの言う通り、口には血の味がしていた。多分鼻血が出ているのだろう。


「いえ、構いません。私が保健室に赴いたら騒ぎになってしまいますから」


「ですが……っ!」


無理矢理にでも立たせて保健室に連れて行こうとする文香ちゃんに首を振って意思を伝える。僕自身がこの件を大ごとにしたくないからだ。


「ならせめてこれで傷口を抑えてください」


そう言って差し出されたのはポケットテッシュだ。


僕はそれを受け取ると鼻と口を覆うように押し当てる。途端に暖かい液体がティッシュを通じて指に滲む感触がやってきた。


「許せません。お姉さまを殴るだなんて。すぐ先生方に報告しなければ」


怒りに燃え、急いで職員室の方へ向かおうとする文香ちゃんを引き止める。


「どうして止めるのですか? ふみはお姉さまを思って……」


「いいのよ文香ちゃん。さっきのは私もやりすぎましたから。それよりも、外の皆さんはまだいますか?」


「……いいえ。お二人が入られてからしばらくして何処かへ行きました。会話が聞けなくてつまらなかったのでしょう」


「そう。なら文香ちゃんもそろそろ戻って。もうじき昼休みも終わるから」


「お姉さまはどうされるのです? 保健室に行かれずとも、せめて教室まではお送りします」


文香ちゃんは心配そうに僕の顔を見て頬に手を当てている。ひんやりとした手が熱を持った頬に触れて気持ちがいい。この調子じゃ酷く腫れているのだろう。


「どのみちこの顔では教室でも騒ぎになるでしょうから、授業が始まった頃合いを見計らって早退します。……そうね、文香ちゃん。少し頼みごとだけれど、私のクラスの人に伝えてくれるかしら。体調不良で早退すると」


「それは承知致しました。……ですが本当によろしいのですか? 大崎さんのことを先生に言わなくて」


「ええ。どちらかと言えば、これは私が一方的に悪いので。恥ずかしながら、あまり公にしたくないのです」


「お姉さまがそう言われるならばふみに異論はありませんが……」


だけどまだ納得してはいないと言った風で、渋々僕の側を離れる。


「ありがとう、文香ちゃん。悪いけどよろしくお願いします」


「お姉さまの頼みとあらば何だって」


文香ちゃんはそう返事をすると、僕を残して部屋を出て行った。


扉が締まり、僕以外誰もいない部屋。僕は一人口を開いた。誰に話しかけるでもなく。いや、そうじゃない。この声が聞こえる誰かに向かって。


「……聞いているのでしょう、沙織さん? 私はここにいます。話をするつもりがあるなら来てください」


ポケットから取り出した栞くらいの大きさの機械の電源は、朝からずっと入ったままだ。

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