第27話 甘い誘惑、戸惑う気持ち

「……だけどやっぱり驚いたのは山岸君が君を拒んだことだよ。いや、当然か。自分の好きな男が他の女との場面を知ってしまえば、百年の恋も冷めるのだろうか」


「……何度も言いますが、沙織さんが悪いのではありません。それは僕が……僕が間違ったことをしてしまったせいで……だから……櫻子さんは……くっ……」


駄目だ。泣いてはいけないのに……。 


それでも胸に気持ちが溢れて止まらなくなってしまう。してしまったことを悔いてはいけない。


例え昨日の出来事が原因だとしても、悪いのは自分の素直な想いを僕にぶつけた文香ちゃんではなく、彼女の真摯な気持ちを軽はずみで受け止めてしまった僕なのだから。


その結果こうなってしまったのだから仕方がない。仕方がないのだけど、涙が止まらない。


あぁ、泣いていては沙織さんがまた心配をしてしまう。僕には誰かに優しくされる資格なんてないのに。


「またその顔をしている。全ては自分が悪いのだと戒めて、自分を追い込んでいる顔だ。……言っておくよ薫君。私は君のそんな顔が嫌いだ。……好きな人には笑顔でいて欲しい。そう願うくらいは許して欲しい」


「……そうは言われましても。少しだけ……少しだけでいいからこのままでいさせてください。そうでないと、気持ちに整理がつかないのです」


いつまでも落ち込んでいてはいけない。頭では理解していても、すぐには無理だ。


ほんの一時間前の出来事は未だ鮮明で、映像はいつまでも頭のスクリーンに映し出されている。


好きだと気がついたのはほんの数日前だというのに、それまでに気づかず積もっていた想いの強さが僕を苦しめる。


はっきりと大嫌いと言われたならば、まだこれほどの未練も残らずに割り切れたのかもしれない。


あるはずもない微かな希望を探しに行きたい気持ちは止まらない。


自分の今の顔は見えないけれど、それは思春期特有の青臭い惨めな苦悩のを浮かべているのだろう。


そういうものとは無縁であるという自負もあったのは、きっと今までそういう思いをしたことがなかったから。


自身に満ち溢れ、朗々と達観したかのような物言いの沙織さんに隣で優しくされると、如何に自分が子供かと思い知らされる。


「君は甘え方を知らないんだよ。君はきっと私と同じで人に頼りにされて生きてきたんだ。ずっと頼りにされていると、気がつけば自分がなんでもしなければならない。そんな風に考えてしまうようになってしまう。するといつの間にか、人は誰かに甘えるということを忘れてしまう」


横並びのベッドの上は保健室に忍び込んだ隙間風によって冷やされている。不意に温かくなる手の甲は、沙織さんの手が重ねられた証。


「……でも沙織さんに甘えてしまっては迷惑が掛かってしまいます」


僕は手を自分の太ももの上に逃がす。


「迷惑を掛けることと甘えることは違うよ。相手に甘えるということは、その人を信頼して身も心も全て委ねるということだ。……もっとも知り合って僅かの私では、君の信頼を得られるような人間にはなれていないという自覚もあるけれど」


追いかけるようにやってきた沙織さんの手は太ももに優しく乗せられる。僕は自らの意思でその手を重ねた。手の甲ではなく、手の平で感じる温もり。


「……そんなことはありません。沙織さんは僕のためにこんなにも親身になって話をしてくださるのですから、それだけで僕の心の拠り所になります。……だけど、僕のこの黒い感情に沙織さんのような方を巻き込むのは気が引けるのです。僕は未だに考えてしまう。さっきのは悪い夢だったと。今隣にいるのは沙織さんではなく櫻子さんだったとしたら……そんな未来を夢見ている僕は、沙織さんに甘えてはいけないのです」


「そうだろうね……。確かにその言葉は私にとっては残酷だ。だけど、それ以上に傷つき悲しむ君のことを思えば、私のことなんかどうでもいい」


「んんっ……」


二つの唇は一つに重なる。寄せられた顔は一瞬の憂いを帯びて、僕の口を啄ばんだ。


「何も考えなくていい。傷ついた男を慰めるのは女の務めだ。君はただ、その身を私に委ねていればいい。辛いことも全部、私が忘れさせてあげるよ」


「ですが……これは流石に……んんっ」


「ちゅっ、んちゅっ、ちゅう……ん、ちゅっ」


それは深い繋がり。僕の唇を割って忍び込む舌は口腔で僕を見つけだすと、抱き締めるように絡みついた。


沙織さんを受け入れてはいけない。一度犯した過ちが招いた結果を忘れてはいけない。


僕は櫻子さんが好きで、他の女の子と交わってはいけないのだから。


しかしそう思えば思うほど、振られたという現実が溢れ出し、胸が苦しく、心が痛くなっていく。


助けて。こんな気持ちは嫌だ。辛い。僕は縋るように沙織さんの舌に応えてしまう。


沙織さんならもしかしたらこの僕を救ってくれるのかもしれない。


沙織さんなら本当に、僕から櫻子さんへの想いを忘れさせてくれるのかもしれない。


そんな思いが徐々に強くなり、何度も熱烈に、濃厚で甘美な沙織さんの唇を求める。


救いを求めるように彼女を求めた。

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