第26話 賢者には安らぎを

「少しは落ち着いたかな?」


日は傾いて、西日が差し込む頃。途中自動販売機で購入した缶コーヒーを啜りながら、純白という言葉がよく似合うベッドの淵に腰掛けている。


「本当は飲食禁止なんだけど、鬼の居ぬ間になんとやらかな」


そう言って可笑しそうに笑う沙織さんにつられて僕も頬が緩む。


僕が連れて来られたのは学校の保健室。


微かに消毒液が香るその部屋は、通っている学校であっても、余程怪我や病気がちでなければ年に一回の身体測定くらいでしか立ち寄らない場所だった。


「でもいいのでしょうか、勝手に使用して。見たところ養護教諭はいらっしゃらないようですが」


少し休める場所として沙織さんが選んだのがまさに保健室だった。


沙織さんは勝手知ったると言った具合に遠慮なしに扉を開くと、中程まで進んで僕をベッドに座らせた。


本当は体調が悪い人のために空けておかなければならない清潔なベッドにも、それどころか保健室にすら僕達以外に誰もおらず、ならばと遠慮することもなく使わせてもらっていた。


「あの先生は基本的に自由人だからね。同じ部屋でじっとしていることが我慢ならないらしいよ。だから放課後は基本的に無人なんだ」


そう言って沙織さんは人差し指と中指をくっつけて口に近づける動作をしてみせた。なるほど、どうやらタバコを吸っているらしい。


「あの人ヘビースモーカーだから、一度抜けたらずうっと帰ってこないんだよ」


「確かにここで吸っていたら問題ですものね。……ですが先生が保健室にいないとなると、いざって時に困るのでは?」


「まぁ、いないのは放課後だけだし、居場所も分かっているからね」


もし保健室に誰もいなくても、用があれば喫煙所に行けば良いということだろう。


あまり保健室のお世話になったことがないから顔をよく知らないが、とても野放図な先生のようだ。


「随分とお詳しいのですね。もしかしてこちらへは頻繁に?」


沙織さんに病弱というイメージを僕は持っていないので、基本的に保健室とは縁遠いような存在だと思っていただけに、学校の保健室事情に明るいことは意外だった。


「私が利用しているって訳じゃないんだけどね。……ほら、私の周りにはいつも人がいるから、その子達が倒れてしまった時にここに連れて来たりしているうちにね」


「あぁ、なるほど」


今日の沙織さんには誰も引っ付いていないが、確かに普段は大勢の女子生徒に囲まれている。それも今朝の僕の比ではないくらいに。


皆沙織さんを慕っている手前、いくら友達関係でないとしても、面倒を見ない訳にはいかないのだろう。


「頼られているのですね、沙織さんは」


「そういう星の下に生まれてきてしまったようだからね。そこは諦めているよ」


諦めという言葉は沙織さんには似合わないなと思いつつ、それが僕の中で勝手に作られた麗しの君というキャラクターだということに気がついた。


沙織さんは屋上で誰も本当の自分を知ろうとしないと言っていた。


頼り甲斐のある麗しの君という存在は、きっと本当の沙織さんではなく、ただ役割を演じているだけ。だからこそ沙織さんは苦悩しているのだろう。


「頼られるのは嫌じゃないんだけどね。でも本当に私が頼って欲しい人はあの子達と違ってとてもしっかりしているんだ。若干他人を寄せ付けない雰囲気も漂っているしね。でも私はその人が本当はとても傷つきやすい優しい人だと知っている。だから気になって仕方がないんだよ」


それは例え話のように抽象的な言い方だったけれど、視線の先でそれが誰か分かってしまう。


「……僕ですか?」


僕の答えはどうやら正解だったようで、隣に腰掛けている沙織さんはゆっくりと僕の髪を撫でた。


「君と知り合ってまだ僅かだけど、私には分かる。君は相手に気を遣って、傷つけないためには自分の気持ちも殺してしまうタイプの人間だ。感情を押し込めて相手に尽くすことが平気な人もいるけれど、多分君は違う。相手のために自分が傷ついて、誰にも相談出来ずに裏で泣いている」


「ご推察恥ずかしいのですが……僕はそんな出来た人間ではありません。沢山の過ちを犯した恥ずべき人間なのです。それで僕自身が傷ついても、それは自分が悪いのですから」


大きな過ちのせいで、僕は櫻子さんを失望させてしまった。相手のためにしたこと。そんなものはただの言い訳に過ぎず、結局は下心が働いてしてしまったことだ。


今更悔いるのはおかしな話だし、何よりそれでは文香ちゃんを悪者にしてしまう。悪いのは僕なのに。


「山岸君だって思うところはあったはずだよ。そうでなければ、今までずっと一緒にいた君を振るなんてことしないはずだから」


「見て……いらっしゃったのですね」


「最後の会話だけね。でもごめん、謝るよ。突然君が飛び出して行ってしまったものだから、少し気になってしまって」


あんな風に出て行けば誰だって疑問に思う。その結果あの様子を見られていたとしても、沙織さんを責める気にはなれない。


「もしかして……山岸君があんなことを言ったのは、私のせいかな。私が不用意に君に触れてしまったからでは……」


「……違います。沙織さんのせいではありません。悪いのは……全て僕なのです」


「面白くないな」


「えっ?」


脈絡のない言葉に耳を疑った。だけどそれは突然沙織さんが興味を失ったとかそんな風ではなく、真剣な眼差しはまだ僕に向けられている。


「またそうやって自分が悪いなんて言われると、なんだか私の一人よがりなのではないかという気分にさせられる。いっそのこと私のせいだと罵られた方がまだマシな気分だよ」


「……そんなこと言いません」


「分かってる。だけど現実として、山岸君が屋上で私が馴れ馴れしくしているところを見たせいで、君が辛い思いをしてしまった。それも取り返しのつかないくらいの酷い思いを」


そして俯き微かに目を潤ませる。沙織さんの涙に含まれているのは、多分罪悪感。


沙織さんは彼女なりに自分のせいでこうなってしまったという想いがあるのだろう。


「……山岸君の性格を考えたら、君に近づくとこうなることは分かっていたのにね。馬鹿だよ私は」


そう呟いた沙織さんはまるで櫻子さんという人を良く知っているという言い方だった。


毎年ミスコンで顔を合わせているし、同じ学年なのだから全く知らない存在という訳ではないのは当然だけれど、性格を踏まえての発言は少し意外だった。


「櫻子さんとは親しいのですか?」


いくら幼馴染といえど、櫻子さんの交友関係まで全てを把握している訳ではない。


逆を言えば櫻子さんだって僕の友人全てを知っている訳じゃない。


だから櫻子さんと沙織さんがある程度会話をする仲……いや友達であっても不思議ではなかったのだが、何となく直情型の櫻子さんとでは相性が悪いのではないかと思っていた。


「……山岸君とは去年まではよく一緒に遊びにも出かけていたよ。たまたま家の方向が同じで帰り道が一緒になることが多くてね」


「そうだったのですね」


やはりそれは初めて聞いた話だった。僕の前で櫻子さんが沙織と一緒に会話している姿も、僕に沙織さんの話をしたこともなかっただけに、それを知った今となっては複雑な気持ちにさせられる。……何より気になったのは、沙織さんの含みのある言い方だ。


「だから実を言うと、君のことももっと前から知っていて、その存在がずっと気になっていたんだよ。実際は中々声を掛けられず挨拶止まりだった訳で、ちゃんと話し掛けられたのは一昨日になってしまったんだけどね」


「それは知りませんでした……。ですがそれならば、いつでも声を掛けてくださればよろしかったのに」


「ははは。それは少し難しかったかな。何せ君の側では山岸君が睨みを効かせていたからね。おいそれと近づいて行ける女子はいなかったのではないかな。……それは私も含めてね」


「そんな大袈裟な。別に会話するくらい何も問題ではないではありませんか。その……櫻子さんと僕は別に……恋人同士ではなかった……のですから」


そしてこれからもずっと。心の中ではそう言葉が続いた。


「確かに声を掛けるならね」


一旦間を置いて、沙織さんは僕に尋ねた。


「君は山岸君のことが好きなんだろう?」


「……はい」


あの現場を見られて、ショックに呆けている姿を見られていては嘘も吐けない。だから僕は正直に答える。


「山岸君もね。ずっと君のことが好きだったんだよ。それは本当に前から。付き合いの浅かった私ですらすぐに分かるくらい、彼女はいつでも君の話をしていたよ。……そんなお互い好き同士の中に入っていく勇気がある子なんていないよ。下心があるならば尚更にね」


櫻子さんが僕の話を沙織さんにしていたことに驚く。


もし沙織さんの話が本当ならば僕は櫻子さんの気持ちにずっと気が付かないで側にいたことになる。


幼馴染というぬるま湯にずっと浸っていた僕達は、いつの間にか背中合わせの隣人の気持ちに知らないふりをしていたのかもしれない。


あまりにその場所の居心地がいいから。


失ってから初めて気がつくのは、そんなものばかりだ。

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