第24話 二人の気持ちは虚しく遠く

「お願いです櫻子さん! 話を聞いてくださいっ!」


櫻子さんと向き合ったその場所は三年生の教室が並ぶ階。


眠っている間の放課後に今は誰もおらず、長い廊下に僕の声が響いた。


「別にあたしはあんたの話なんか聞きたくない」


冷たく突き放す言葉を放って、櫻子さんは視線を逸らすように横を向く。それでも僕はその顔を視界の真ん中に据えたまま離さない。


「櫻子さんが聞きたくなくても、聞いてください。あれは誤解なんです!」


弁明しようと口を開くも、飛び出す声に櫻子さんは興味も示さない。その顔は怒りでも悲しみでもなく、ただ無表情だった。


「別に薫が誰と付き合おうと誰と抱き合っていようがどうでもいいし。わざわざあたしに言い訳しなくていいってば。どうぞご勝手に」


「だからそれが誤解なんです! 僕は誰とも付き合っていませんし、あれは不可抗力みたいなもので……」


僕が喋れば喋るほど、空回りしていくのが嫌と分かる。それは決してハマることのない歯車のようで、いくら僕だけが必死に動いても櫻子さんには届きもしない。


「いいの本当に興味ないから。授業をサボってまで女の子との……それも麗しの君との逢瀬だなんて、良いご身分ね。羨ましいくらいよ。はぁ……心配して損した」


「心配……ですか」


もしかして櫻子さんは僕が午後の授業に出席しなかったことを気にかけてくれていたのかもしれない。


そう聞きたい気持ちに駆られたが、それを聞くなという殺気に睨まれてしまい、口にはできなかった。


「とにかくあたしは薫に用はないし、もう行くから邪魔しないで」


「だめです待ってください!」


その場から立ち去ろうとする櫻子さんの腕を掴んで引き止める。櫻子さんはぶんぶんと腕を振り回して逃れようとするが、僕は意地でも放さなかった。


「ちょっと放して! 触らないでよ!」


櫻子さんの本気で嫌がる顔が辛かった。一番見たくないそんな顔に僕がさせてしまっているのが耐え難い。


だけどこのまま櫻子さんを行かせてしまっては、もう二度と口をきいてもらえなくなる。そんな予感がしていた僕は必死に食い下がった。


「お願いですから行かないでっ! 櫻子さん僕はっ!」


「分かった、分かったから放して! もう逃げないし、話も聞いてあげるから手を放してよ」


根負けしたのか、それともただ面倒くさくなったのか。いずれにしても櫻子さんは抵抗をやめて僕に向き直ってくれた。


ようやく話を聞いてもらえる態勢になる。チャンスは今しかない。


「まず言っておきたいのは、僕は沙織さんとお付き合いしている訳ではありません。櫻子さんもご存知の通り、告白に近いことを言われたのは事実ですが、それ以上のことはありません」


抱き合っている現場を見られてる以上、苦しい言い訳にも聞こえてしまうけれど、嘘は言っていない。


「さっきも言ったけど、あたしは薫が誰と付き合っているかなんて興味ないの。なんでそんな話するの?」


櫻子さんは不愉快そうに顔を歪めたまま、僕を見ている。どうしてそんな弁明をするのかと櫻子さんは聞いた。それはもちろん決まっている。


「……櫻子さんだからこそ、知っておいて欲しかったのです」


櫻子さんのことが好きだと気がついたその時から僕の想いは決まっていて、櫻子さんには絶対に誤解して欲しくない、嫌われたくない。そんな一心で僕はここに立っている。


「……やめて。そんな言葉聞きたくない。そんな目であたしを見ないで」


一拍の間。それから続く言葉は思い出すように。


「一昨日……あの時あんなことをして悪かったわ。あたしが間違ってた……。あたしがあんなことをしなければ……」


「さ、櫻子さん?」


目からは涙。櫻子さんの瞳から流れた粒は大きく、突然のそれは僕を戸惑わせる。


とっさにポケットからハンカチを取り出して渡そうとするけれど、櫻子さんは僕の手を払い退けた。


「貴方のは嫌。……貴方が嫌なの。お願いだから近寄らないで」


「櫻子さん……どうして」


果てしなく感じる無力感は、目の前で泣いている好きな人を前にして拒まれる心の痛みの中で生まれた。


理由を問う僕の言葉には答えず、ほろほろ落ちる涙は静かに止まらない。


「……貴方が麗しの君——檜山さんと……いいえ、誰とも付き合ってないって話だけど、あたしは信じるよ。屋上でしてたのだって、どうせあの人が無理矢理したんでしょ?」


「ええ……その通りです。それを拒めなかった僕も悪いのですが」


今まで一方的に遮断していた櫻子さんがいきなり僕に歩み寄ってくれたことに少しだけ嬉しくなる。


だけどどこか含みのある言い方が気になって、僕は櫻子さんの言葉を待った。


「いいの、分かってる。だってあたし達、幼馴染だもん。薫が押しに弱いのは知ってるし、あたしもそれを利用していたとこもあるから悪く言えない。……だけどもう無理なの! いくら薫が女の子に厳しく出来ないって頭では理解していても、納得出来るものじゃないのっ‼」


徐々に熱がこもり、語尾を荒げる櫻子さん。


櫻子さんが怒る姿は何度も見たことがあるが、ここまで感情的になっているのを見るのは初めてだった。


僕は櫻子さんの話が全く見えて来ない自分に苛立っていた。そんな様子に気がついたのか、櫻子さんは大きくため息を吐くと、目尻に涙を浮かべたまま、怒気を孕んで僕に言う。


「まだ分かんないのっ⁉ あたしはとっくに分かってる。薫はあたしのことが好きなんだよ。だからさっきは必死になってあたしを止めに来たんでしょ? ……でもね、薫は気づいていないけど、あたしだって負けないくらいあんたのことが好きだったの。……好きだったのにっ‼」


気付かれていないと思っていた僕の気持ちが見破られていた驚き。


そして櫻子さんも同じ気持ちであったことへの衝撃。


最早過去形となっているその想いに、それまで気が付けなかった自分の鈍さが憎い。


櫻子さんはいつだって手を伸ばせば届く距離にいたのに、そうだったと知らされた今となっては、遠い向こうに行ってしまったかのようだ。


「櫻子さん……僕は……」


でもまだ間に合うのではないだろうか。いつの間にか亀裂が生まれた溝を埋めるために言の葉を尽くせば、僕の想いが伝わるのではないだろうか。


そう思って半歩踏み出す。ぐんと近くなる櫻子さんとの距離。だけどすぐさまそれは元通りになってしまう。いや、それ以上の距離を開くように、櫻子さんは僕から離れた。


「分かるでしょ? さっきも言ったけど、もう無理なの。もうこれ以上薫のことで悩みたくない。薫が他の女の子に優しくしているのを見るだけ……いや、知るだけでおかしくなりそうなの」


それは凍えるくらいに冷めた言い方をしていて、表情に感情がこもっていない。それはまるで抜け殻のようだった。


「僕は櫻子さん以上に愛おしいと思える女性はいません。何故ならば、僕は櫻子さんのことが好きだからです! お願いです、まだ間に合うのなら僕の側に来てください! 貴女がいないと僕はダメなんですっ!」


生まれて初めての告白。先に気持ちが知られていようと関係ない。僕の口からそれを言わなければきっと櫻子さんには届かない。


櫻子さんが僕への気持ちを失った理由が分からない。だけど、今取り戻せるならば、僕はなりふり構わない。


「薫……。やっと好きって言ってくれたね。ちょっとだけ嬉しいよ」


僕の言葉を受けた櫻子さんは僅かに微笑んだ。だけど言葉は続く。


「でもやっぱりごめん。あたしには信じられないの」


「どうしてですか! せめて理由を……」


「……どうして? どうしてって、あたし知ってるんだから」


しつこく食い下がる僕に向かって櫻子さんは知ってると言った。


知ってる? それは何を指しているのだろうか。櫻子さんが一体何を知っているのか僕には見当もつかない。


……だけど何故か冷たい汗が額から滴り落ちる。背筋には悪寒が走り、それはとても嫌な予感がした。


「薫さ、他の女の子と……したでしょ」


「なっ⁉︎」


どうしてそれを。続く言葉は声にならなかった。


「やっぱりね。相手は生徒会の後輩ちゃんでしょ? あんたがいつも可愛がっていた」


文香ちゃんのことまで口にして、櫻子さんは決して口から出まかせを言っているのではないと確信した。


櫻子さんは知っている。僕が文香ちゃんとしてしまったことを。


でもどうして櫻子さんがそれを知っているのか。あの日、あの場には僕たち二人だけしかいなかった。いつもより人が少ない学校で、その日櫻子さんを見てはいないし、来る用事もなかったはず。


もしかしたら学校に来ていたのかもしれない。そしてたまたま生徒会室の前を通り掛かって、僕達の情事を聞いてしまったのかも。


可能性は考えれば考えるだけ生まれてくる。


「あんたが無理矢理女の子を押し倒すタイプじゃないのは分かるけど、いくら押しに弱いからって流されて他の子としちゃうような相手と恋人になりたいと思う?」


「……」


まさに正論で、僕には言い返す資格さえない。


朝から櫻子さんが不機嫌だった原因も間違いなくこのことだったのだ。そう思うと、秘密がバレていることも知らず馬鹿みたいに自分の気持ちばかりを優先させて誤解だ何だと必死になっていた自分の愚かさが嫌になる。


櫻子さんからしてみれば、他の人と行為に及んだ男が近寄ろうとしてくるしてくるのだから、堪ったものじゃなかったはず。


それも自分の好きな人が……だ。もしこれが逆だったとしたら、僕はどうしていただろうか。


「もう終わりだねあたし達。……付き合ってないのにこんなこと言うのは変だけど、好きだったよ薫」


たった今、全てが終わった。


幼馴染として積み上げてきた思い出、そして感情は粉々に割れて足元に散らばる。


踵を返して歩き去る櫻子さん。振り返り様に宙を舞う髪から香るローズの匂いは残り香となった。


もうそこには誰もいなくて、追いかけた背はまた遠くに行ってしまう。

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