第22話 その温もりは

誰かに頭を優しく撫でられる感覚に目を覚ます。


屋上で寝てしまったはずなのに、身体は寒くない。それどころかむしろ暖かくて、その温もりに頭が覚醒を拒んでいる。


頭の下は屋上の床にしては妙に柔らかで、微かに弾力もある。ほのかに香る石鹸の匂いが鼻腔をくすぐって、気持ちは安らかに落ち着いた。


再び何かが僕の髪を流すように撫で、僕はそれがくすぐったくて目を開いた。


自分の今の状況はどうなっているのか。未だに気怠い眠気の中にいて、瞼が上手に動かせない。


ゆっくりと上下に開いた景色の先には二つの丸い影があって、それは僕の視界の半分を奪っていた。


これは何だろうと寝ぼけた頭で考えて見たものの、答えは出てこず、僕は確かめようと手を伸ばした。


下から丸みを包むように手のひらで揉んでみると、布のゴワゴワとした感触の奥にとても柔らかい何かがあって、とても触り心地が良かった。それは先日初めて知った女性の胸の感触によく似ていて——え、女性の胸っ⁉


「うわあああっ!」


「わっ!」


脳みそが一気に覚醒し、今自分がしたことに気がついた僕は、飛ぶように身体を起こした。


途端に小さな悲鳴が聞こえたと思うと、目の前にいたのは凛と咲く一輪の花のように華麗な顔立ちの女性。


「さ、沙織さんっ! どうしてっ⁉」


その人は間違いなく僕が知る沙織さんだった。文化祭で初めてちゃんと会話して以来、この三日間で毎日名前を聞かされていた女性。


宝塚の男役のような凛々しい顔立ちの中にある女性らしい美しさを備え持つ彼女は、僕の前で可笑しそうに微笑んでいた。


「君は結構大胆なんだね。期待に添える胸であるかどうかは分からないけれど、役得ではあったかな」


少しだけ恥ずかしそうに自分の胸を撫でる沙織さんの姿を見て、そこで僕が何をしたのか確信してしまう。


「ご、ごめんなさい沙織さんっ! 僕はとんでもないことを……」


その場で居直って深々と頭を下げる。いくら寝ぼけていたとはいえ、勝手に胸を触ってしまうなんて許されることじゃない。これで誠意が伝わるとは思えなかったけど、これが僕に出来る精一杯だ。


「ははは、別に謝らなくていいのに。それを言うなら私の方こそ寝ている君を勝手に膝の上に乗せていたのだから、それでお相子だよ」


「膝枕……ですか」返ってきた沙織さんの意外な言葉に僕は面食らう。


「そう。君を探しに屋上へ行ったら寝ているところを見つけてしまってね。風邪を引くといけないから起こそうとも思ったのだけれど、あまりに気持ち良さそうに寝ているものだから、せめて枕代わりになれば君も辛くないだろうと思ってね。ほら、こんな硬いところで寝ていたら起きた時に身体が痛くなってしまうからね」


言われてみれば確かに僕はフェンスに寄り掛かって寝ていたはずなのに、起きた時には柔らかい感触の上だった。それが沙織さんの膝の上だとすれば、目の前に胸があったことにも説明がつく。


「それは更に申し訳ありません。僕なんかの為にそんなことさせてしまいまして」


文化祭で一度話したっきりの、ほぼお互いを知らない者同士の相手に膝枕をしてもらっていたなんて、正直驚いた。


相手は女子生徒に絶大な支持を得ている学内の有名人「麗しの君」だと言うこともあり、その驚きはまた格段のものだった。


少なくとも僕は、麗しの君が男子生徒にそのようなことをしたという話を聞いたことがなかったから。


「不思議そうな顔をしているね。確かに私も意外かなと思うよ。でも君の寝顔があまりに可愛いものだから、つい眺めていたくなったって言うのが本音かな」


そんな聞いているこっちが恥ずかしくなるような台詞をこともなげに言ってのける沙織さんの微笑はとても美しく、僕は真っ直ぐ見ていられなかった。


そう言えばミスコンの時も沙織さんは僕にそんな事を言っていた気がする。少なくとも僕は自分の顔よりも沙織さんの方が綺麗で女性らしく、いつまでも眺めていたくなる魅力があると思う。


「それにしたって、こんな屋上にずっといたら寒くて堪らなかったはずでしょう。僕はどれだけ寝ていたのですか?」


僕が感じていた暖かさ、それは多分沙織さんの温もりで、そう考えるとかなり恥ずかしいのだけれど、びゅうと吹く冷たい風はそんな余韻さえも瞬時に奪い去ってしまうほどの勢いだ。


「うーん、そうだね……私が来たのが昼休みの中頃だったから……かれこれ二時間以上は寝ていたんじゃないのかな」


「二時間もですかっ?」


慌ててスマホを取り出して時間を確認すると、確かに昼休みは終わっていて、それどころか六限の授業もとっくに過ぎていた。


そんな……眠気に身を任せて授業までサボってしまうなんて。


「もしかして沙織さんは、その間ずっとここに?」


沙織さんは来たのが昼休みと言っていたから、下手をしたら二時間以上も僕に膝枕をしてくれていたのかもしれない。


沙織さんだってサボりになってしまうのだから起こしてくれても良かったのにとも思ったが、不用意に屋上で惰眠を貪っていた僕がそもそもの原因である手前、それを言うことは憚られた。


だけどそんな僕の顔から感情を汲み取ったのか、沙織さんは少し照れくさそうに笑った。


「言ったと思うのだけど……私は君に一目惚れをしているからね。目の前に好きな人の寝顔があったら、側にいたくなるというものじゃないかな」


「……意外です。あの麗しの君ともあろう方が、そんな冗談をおっしゃるなんて」


恥じらいの中にも一服の清涼剤のような爽やかさが前面に出ている沙織さん。


さらりとこちらが恥ずかしくなってしまうようなことを口にできてしまう辺りは、流石麗しの君と呼ばれるだけのことはある。


「冗談ではないよ。いくら麗しの君だなんて陳腐な二つ名を頂戴していても、所詮私も女だからね。当然下心もあるさ」


「下心ですか。それはまた随分明け透けな……」


まさに王子様といった言葉がよく似合う流麗な女性とはとても似つかわしくない言葉に思わずどきりとさせられる。


あの時言われた一目惚れというのは、その場だけの社交辞令か何かだと僕は思っていたから。


「ですが、僕は今女装をしていませんよ? 一目惚れなされたというのは僕が女の格好をしていた時にでしょう。男の僕を眺めたところで、突然女に生まれ変わるということもありませんのに」


沙織さんが男性に好意を寄せているという話は一切聞いたことがなかった。


これだけの美人で学内でも有名人なのに、浮ついた噂を一つも聞いたことがないというのは中々珍しい話で、だからこそ僕に一目惚れしたという話が噂となって学校中をざわつかせているのだろう。


でも僕はそうは思っていない。風の噂では沙織さんは……所謂そっちの人だという噂もあって、だから女装していた僕に話しかけたのではないか。そんな風に考えていた。


「……一目惚れという言葉は基本的に外見に惚れたことを指して言う言葉なんだろうね。そうかもしれないけれど、そういう意味では少しだけ私は違うのかもしれないね」


「それは、どういうことですか?」


沙織さんの話している言葉の意味が分からず、僕は聞き返した。


「ほら、私達がちゃんと会話したのは一昨日が初めてだったけれど、以前から顔と名前はお互いに知っていたし、挨拶程度は交わしていただろう? 薫君、君も頻繁に噂に出てくるタイプの人だから」


「はは……自分の噂はなるべく聞かないようにしていましたから。どうせロクな噂じゃないでしょうし」


「ふふふ。まぁそういうことにしておいてあげるよ。……ともかく私達は初対面じゃなく、少なくともお互いの存在を認識する程度の仲ではあったということだよ」


そう言われてみると確かに、と僕は納得した。


一目惚れという言葉は大抵初対面で会った人のことが気になった時に使われる。そういう意味では僕らは初対面という訳ではなかったし、一目惚れという表現は不適切かもしれない。


「つまり、今まで何気ない存在でしかなかったけれど、その……僕の女装をきっかけに見方が変わってしまった……ということでしょうか」


「君は聡いね。ご慧眼恐れ入るよ。その通りミスコンはただのきっかけで、今まで人生で大きな関わりもなかった君が急に気になるようになってしまった。女装をしているしていないはそれ程重要ではないんだ。もちろん、君の女装した姿は本当に可愛いと思うけどね」


「はは……ありがとうございます……」


何とも返事に困る話をされて、僕はただ愛想笑いで返してしまう。


この一連のやりとりや、ミスコンでの一目惚れ宣言が冗談じゃないとなると、それはそれで問題だった。


寄せられる好意は嬉しいのだけれど、僕にはそれを受け入れられない事情がある。


曖昧にしてしまっては、また文香ちゃんのように間違いを犯して傷つけてしまうかもしれない。


このまま僕が煮え切らない態度で沙織さんに接してしまえば、それは沙織さんにとっても不幸なことだ。


ならばいっそ早く決着をつけてしまった方がいいのかもしれない。


「沙織さん——」


「待って、薫君。それを言わなくてもちゃんと分かっているから」


意を決して告げようとした僕を、沙織さんは静かに遮った。


「この気持ちは確かに君への好意であることは間違いない。だけど、君が私に対して脈がないことぐらい分かるよ。でも……お願いだからそれをはっきりと言わないで。やっとこうして会話出来るようになったのに、気持ちを拒絶されたら私はどうしたらいいのか分からなくてなってしまうから……」

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