第1話 その日の正行

 その日、平野平正行は大学に通うため家から乗ってきたバイクを駅の駐輪場に止めて駅のコンコースを歩いていた。

 新年度が始まり、正行は今年に二十二歳になる。

 浪人と進級の失敗で他の同い年と卒業式には参加できなかったが、今年は無事、大学二年生に進学できた。

 肩から帆布で作られた学生鞄をかけている。

 これから、勉学もそうだが、就職活動も本格化する。

 正行は、今年度の授業開始が午後からだったが、就職課の相談を受けるため少し早めに家を出た。

 新年度の授業もあるので少し洒落た服に身を包んでコンコースを歩く

 すでにラッシュ時は過ぎて、のんびり学校前の駅まで座ってひと眠りしようなんて考えていた。

 だが……

 駅のホームは混んでいた。

 雰囲気もどこかピリピリしている。

 時計を見ている者。

 スマートフォンで電話向こうの相手に謝罪している者。

 みな、スーツを着ている。

――あれ、朝のラッシュだっけ?

 正行は心の中で首を傾げた。

 時計は、十時を過ぎている。

 ラッシュは終わっているはずである。

 頭上の電光掲示板でこんな文字が流れていた。

【住良木線(すめらぎせん)稻生(いなお)駅(えき) 人身事故のため九十九里浜駅との間で運転に遅れが出ております】

 正行は納得した。

 悲しいことだが、事故にしろ自殺にしろ線路に身を投げて自殺するものは年に数回起こる。

 正行は、数秒間だけ頭を下げて亡くなった者を追悼した。

 その時だ。

「何だ‼ お前!?」

 と激高した声がホームに響いた。

 正行が向かうと、そこには五十代と思わしきスーツを着た男性と目を閉じ白い杖をついた女性がいた。

「俺の足を突いて謝らないってどういうことだ‼? この野郎!」

 女性は、まだ二十代にも満たないような女性は「申し訳ありません」と何度も謝った。

 だが、男性は言う。

「聞こえねぇよ‼」

 正行の周囲では色々な言葉が飛び交う。

――可哀想

――でも、障害者って甘えだよな

――そうそう、わざわざこんな時間に来なくても……

 男性が女性に向かい暴力をふるおうとした瞬間。

 正行の体は自然と前に出て、女性を庇っていた。

「何だ……」

 だんだん、男の声が小さくなく。

 正行の身長は百九十センチの筋肉質である。

 それも、子供の頃か鍛え上げられた筋肉だ。

 並のボディービルダーなどでは立ち向かえない迫力があった。

 その迫力に男の態度はどんどん畏縮した。

 正行の目は普段若干垂れている。

 眠いわけでもなく、やる気がないわけでもないが、そのせいで大柄なのに何処か抜けているような雰囲気があり威圧感がない。

 その目じりを若干上げるだけで雰囲気はだいぶ変わる。

「何ですか……?」

 男の目が完全に怯えていた。

 まるで悪鬼にあったような怯えようだ。

 だが、正行の中は実はのんびりしていた。

『思わず、かばったけど……さて、どうしよう?』

 男性の攻撃は祖父と父による日々の修行によりあまりダメージになっていない。

 毎日、木刀で体中にみみずばれが出来るほど打ち合い、時に刃も出してくる。

 厚手のブラウスの中は内出血などがある。

 さすがに人目を引くので、正行は厚手の服で隠している。

 漫画や小説、ドラマの主人公なら何というのか?

第一、自分がドラマのようにカッコいいだろうか?

 いや、そんなにカッコよくない。

 一学生なのである。

 正行は男を無視することにした。

「大丈夫ですか?」

 回れ右をして、白い杖を突く女性に声をかけた。

「は……はい。ごめんなさい」

「いったん、ホームを出ましょうか?」

 正行が提案する。

 ただでさえ狭い駅のホームから、正行は自分のブラウスを掴ませてコンコースまで戻った。

 本来なら、肩を掴ませるのがいいのだろうが、正行は背が高いため彼女がつかむには少し辛い。

 コンコースの隅で彼女はアイフォンを出し会社へ電話していた。

「すいません、ありがとうございます。会社と話して自動車を回してもらえるようです……」

「それはよかったです」

 正行は心から安堵した。

「じゃあ、俺はこれで失礼します」

 今からなら、バイクを少々飛ばせば午後の授業には間に合うし、その後で就職課に行くことだっていいのだ。

 そんなことを考えながら正行は駐輪場へ歩いて行った。

「あ、あの……!!」

 白い杖を突いた女性が声を投げた。

「何か、困ったことありました?」

 振り返る正行。

「いえ、あの、私のような人間に優しくして頂きありがとうございます」

「え?」

 女性は笑顔でこう言った。

「私は、自分が社会でどんなに迷惑をかけているか知りました」

 女性の杖を持つ手が強くなる。

「本当にすいませんでした」

 再び頭を下げる女性。

 だが、正行はこう反論した。

「正直、俺は、あなたが障害者であろうとなかろうと助けていましたよ」

 だが、女性は頭を振った。

「そんな嘘、いいです」

 正行に色々な感情が湧きあがった。

 それを一言にまとめた。

「じゃあ、どうしたんです?」

 女性にとって初めての問いだ。

「ずっと、そう思って生きていくんですか?」

 女性は言葉を失った。

 戸惑っているようだ。

 そこまで言って正行は父の言葉を思い出した。

――人の主観に安易に入り込むんじゃない

――その責任が取れるのならいいが、今のお前にそんなことできないだろ?

 正行は自分の性格が『おせっかい』だと人に言われる。

 本人も時々感情的になることは理解している。

 反省すべきところだろう。

「勝手なことを言い、すいませんでした」

 正行は目の見えない女性に頭を下げて、今度こそ、駐輪場へ向かった。


 これが一年前の出来事であり、始まりであった。





 それから、一年後。

 正行は今年の夏に二十三歳になる。

 大学三年生になり、いよいよ勉学よりも就職活動に力を入れないといけないのだが、正行はマイペースだった。

 決して、就職課のセミナーなどを無視しているわけではないし、親に頼んでスーツも作った。

 が、そもそも『自分は将来どうしたい?』という目標が全くないのだ。

 薄らぼんやりあるが、全くまとまらずにいる。

『今の自分から考える』と就職課の人に言われたが、これも正行は頭を悩ます。

「とにかく、就職できればいいよ」という人もいる。

 とりあえず、履歴書を書いてみたが、まとまらない。

 そんな孫に、祖父である平野平春平は言った。

「焦るな。俺の貯金を崩せばお前の学費ぐらいならニ、三年はどうにか工面できる。お前はもう少し社会を知れ」

 その言葉がありがたく、その場で正行は祖父に頭を下げた。


 その日、午前中の授業が終わり、正行は教科書などをロッカーに入れて小銭入れを出して学生食堂へ向かっていた。

 だが、実のところ、少々懐が寂しい。

 友達とのカラオケ代や映画代、会社説明会で着たスーツのクリーニングなどで出費がかさんだ。

 この場合、普通、お弁当を持参するのだが、今日は珍しく祖父も正行も目が覚めた時は八時半過ぎで大急ぎで服を着て、祖父が握ったおにぎりを口に詰め込み、鞄を荷台に入れて、バイクで学校へ向かった。

 九時十五分からの授業にはギリギリ間に合った。

――最近、徹夜仕事、多かったからなぁ

 正行は内心愚痴りつつ食堂へ続く廊下を歩く。

 目は既に蕩けそうに垂れている。

 あくびをして新鮮な空気を体に入れる。

 多少目じりが持ち直す。

 疲れを取るように首を左右に振る。

 ゴキゴキと音がする。

「平野平!」

 名前を背後から呼ばれて驚いた。

 思わず、振り返る。

 そこには、去年卒業した年下の先輩がいた。

「戸口先輩!」

 身長も年もしたが正行は礼節を守っていた。

「お久しぶりです……今日はどうしたんです?」

 正行の言葉に、戸口康介は少し暗い顔になった。

 だが、すぐに元に戻った。

「今日は、会社の休みで……久々に学校を見たくなってな……どうだ、一緒に飯でも食うか? 奢るぞ」

 正行の顔がぱっと明るくなった。

 彼は分かりやすい人間である。


 二人は大学近くにあるファミレスに入り注文した。

 戸口が「遠慮なく何でも好きなものを頼んでいいぞ」と言うが、正行は日替わりランチとチョコバナナサンデー、ドリンクバーを頼んだ。

 以前、本当に好きなものを頼んだから相手から「財布が破産する」と言われたからだ。

 その反省である。

 戸口も同じメニューを頼む。

 ドリンクバーで好きな飲み物をグラスに注ぎ、二人は、いや、正行だけが学校での出来事や就職の話をした。

 正行がいくら戸口に話しを振っても「いや……」と苦い顔をする。

 戸口はただ、正行の話を聞いて相槌を打っていただけだ。

 料理が運ばれてくる。

 ファミレスは兎角、自称『美食家』などにやり玉にあがるが、正行に文句はない。

 確かに冷凍だったりレトルトだったり問題があるのかも知れないが、値段などを考えれば美味い。

 そもそも、日本全国同じ味を安い価格で食べられることはありがたい。

 デザートが運ばれてくる。

 正行は時計を見た。

 正行が受ける授業は午後二時からなので、まだ余裕がある。

 目の前のパフェを正行は美味しく食べているが、戸口の様子がおかしいことに気づく。

 元々は体育会系気質なのに、一向に話そうとしない。

 料理も半分ほどを正行に渡した。

 よくみれば、目の下にクマが出来ている。

 昼下がり。

 周りは主婦やサラリーマンなどでざわめいているが、正行と戸口の周りは結界を張ったように別世界だ。

「何か、ありました?」

 正行は恐る恐る聞く。

 この重い空気に耐えられなかった。

 ほとんど、アイスの解けたパフェの向こう側で戸口は問うた。

「平野平……お前、この街に棲む『鬼』を知っているか?」

 この言葉にストローでグラスの中のメロンソーダを飲んでいた正行は驚いて顔を上げた。

「鬼……ですか?」

 正行は戸口の言葉にすぐに返答せず、メロンソーダを一気に飲み干した。

 戸口の目はふざけてない。

 真っ直ぐに正行を見る。

「何かあったんですか?」

 反問を試みる。

「話さないと駄目か?」

 戸口の声は低い。

「駄目と言うか……俺が力になれることがあればお手伝いします」

 正行は戸口に告げた。

「それに、『鬼』なんてよく知っていますね。最近聞いていませんでしたよ」

 戸口が睨むように正行に言う。

「じゃあ、ズバリ聞くが『鬼』の正体はお前だろ?」

 先輩の言葉に後輩は驚いた。

「何で、俺が?」


 豊原県星ノ宮市界隈では『鬼がいる』と時々噂になることがある。

 その鬼は、かつてはるか遠い西からやってきた。

 鬼は元々人を食べていた。

 巨大な鬼であった。

 火を酒のように飲み、吐く息は疫病を蔓延させた。

 老若男女関係なく腹を満たすために彼は人を襲った。

 だが、その鬼に一人の男が手を伸ばした。

「友達になろう」

 鬼は気まぐれか、その手を取った。

 男は、鬼を自分によく似た子供に変えた。

 彼らは東へ旅をした。

 鬼はそこで知った。

 人の世の数限りない、悲しみと怒り。

 そして、大いなる慈愛と喜び。

 相反する様々な思い。

 東の端についた時、鬼はもう、人間を食べ物とは思わないでいた。

 鬼は彼らを守りたいと願った。

 末永くいつまでも守れる存在でありたい。

 男は、この変化を喜んだ。

 そして、願いを最後の力を振り絞って叶えた。

 鬼を人間の姿に変えたのだ。

 だが、その力だけは残した。

『感心したお前の力は役に立つはずだ。お前は理不尽に人を喰ってきた。その行いは決して許されはしないだろう。また、成りこそ人だが心は鬼のままだ。人を助けろとは言わない。ただ、誰かが雨の中に立ち止っていたら傘を差しだしてほしい』

 恩師をなくし人間になったが鬼は差別を受けた。

 彼を守ったのは、その当時の領主、猪口家と山の娘だけだった。

 猪口家は戦乱に突入する世を予見して鬼の力を欲した。

 実際、猪口は名もなき足軽として数々の武勲を上げたが、そのほとんどを猪口家の当主に献上している。

 猪口家は、その見返りに住む家と身分を保証した。

 以後、猪口家は、鬼の子孫と『持ちつ持たれつ』の関係を築くことになる。

 山の娘は非人であった。

 だが、頭がよく鬼によくなついていた。

 娘が身ごもったのを受けて、結婚した。


「その子孫がお前だ」

 戸口は正行を指差すが、正行はメロンソーダの影響で空気の塊が喉からせり上がる苦しさに辛くなっていた。

 正行は思わず蛙を潰したような声と空気を吐き出した。

「すいません……でも、俺、普通の学生ですよ」

「誤魔化すな」

「誤魔化しちゃいませんよ」

 正行はグラスに残った氷を口に入れるとボリボリ食べた。

「そりゃ、家は武術の道場をやっていますが、あれは半分道楽のようなものです。爺ちゃんも親父も、他に本職を持っています……実際、爺ちゃんは、その『鬼』を研究するために郷土歴史研究家になったんですから……」

「でも、そんな商売、儲かるわけないだろ?」

 戸口は未だに疑いの目で正行を見ている。

「爺ちゃんの場合、若い頃の話はあまりしませんが、戦争に行って、戦後はマッサージ屋みたいなことをしていたみたいです。他にも色々していて俺が生まれた頃に経済的に余裕が出てきて今の職業になったみたいですね」

「本当にそうなのか?」

「本当ですよ。漫画や映画みたいに『殺人許可書』なんてないんです」

 正行はきっぱり言った。

 戸口は少し正行を見て、溜息を吐いた。

「そうか……そうだよな」

 天井を見て、戸口は自分を納得させるように言う。

「何があったんですか?」

 正行が聞く。

「いや、まぁ……」

 戸口は口ごもった。

「俺、『鬼』ではないですけど、何か力になれたらなりますよ」

 正行の申し出に戸口は少し口ごもり話し始めた。

 長くなりそうなのでサイドメニューを頼む。


「俺が星ノ宮銀行駒鳥支店に就職できたのは知っているな?」

「はい、部内で一番の出世頭なんて言われていましたね」

 正行の言葉に戸口は皮肉な笑みを浮かべた。

「まあ、忙しいけど、いい職場でさ……彼女が出来たんだ」

 少し驚く。

「彼女……ですか? その彼女さんに何かあったんですか?」

 その返答は暗く沈んでいた。

「いや、今回話したいのは彼女じゃない。彼女の妹だ」

「妹さん?」

「その子が『鬼』に会いに平野寺に向かっている」

 運ばれてきた山盛りポテトから一本取って正行は聞いた。

「何か、願い事があるんですか?」

「『死んだ姉の敵を取る』というらしい」

「死んだ?」

 戸口は下を向き、唇をかみしめながら告白した。

「俺の彼女は、野木葵は……一年前に死んだ」

 正行は声を小さくして聞いた。

「失礼ですが、それはご病気ですか? 殺人事件なら警察が……」

 かぶりを振る戸口。

「電車への投身自殺だ」

「……」

「彼女は自殺する前に俺に電話をかけてきた。『汚れちゃった、ごめんなさい』」

「『汚れた』? ……まさか!?」

 思わず、大きな声を出す正行。

 戸口は頷いた。

「彼女は犯されたんだ……警察が街の防犯ビデオを洗いざらい見てわかったことだ」

「じゃあ、警察が逮捕すれば……」

 普通の声の大きさに戻した正行に戸口は首を振った。

「それは無理だ」

「どうして?」

「やった奴は極度の自閉症で知的障害があるから警察が『責任能力が無い』として逮捕を見送った」

「でも、そんなの……許されるんですか?」

 正行の言葉は真っ直ぐであった。

 戸口は温くなったコーヒーを啜って言った。

「奴の親は、東京から来た金持ちだ……実は、今朝、奴の親に電車会社の賠償請求に対しての支払いの裁判を起こした」

「勝てますか?」

 正行は心配そうに聞く。

 戸口の表情は暗いままだ。

「正直、分からん。ただ、奴の親は金と人脈を背景に東京から有能な弁護士を立ててくるとは思う」

「……」

 正行は数少なくなったポテトフライを摘まんで食べた。

 戸口は思い出したように言った。

「そうだ、お前に会いに来たのは、妹の由香里ちゃんのことだ」

「妹さん?」

「死んだ彼女の、野木由香里ちゃんが今朝『鬼に会いに行く』と言って行方不明になった」

「え?」

「たぶん、鬼に会える平野寺に向かっていると思うんだが、大丈夫だろうか?」

 正行は、考えて……戸口に聞いた。

「すいません。その妹さん、由香里ちゃんは幾つですか?」

「九歳だ……本来は明るい性格の子供だが大好きな姉が自殺して、相当のショックを受けていたようだ」

「その子は、公共交通機関が使えますか?」

「ああ……好奇心旺盛な子供なんだが、結構、賢く物知りで冬休みに電車とバスで俺の家まで一人できた事がある。ネットで調べたらしい」

 その言葉を聞いて、正行は安心した顔になる。

「たぶん、大丈夫だと思います」

 戸口は首を傾げる。

「その……由香里ちゃんは、たぶん、鬼に会えますよ」

「どういうことだ?」

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