桜庭の初陣

 凶器を誰かに向けるなんて経験、真っ当に生きてきたこれまでの人生にはなかった。もちろんこれからもそんな予定はないと思っていた。

 震える手は、ひとたび気を緩めてしまえば握ったナイフを落としてしまいそうで。両手でしっかりと支えなければとても握りつづけていることなどできなかった。


 ダリルの造ったナイフを手にした桜庭は、決死の覚悟で飛びだした先のクロードに向けて切っ先を突き立てる。

 しかし戦闘経験のない彼では、いくらオズワルドやダリルが戦っていた場面を見ていたとしてもとうていそれを真似できるはずもなく。相手との間合いの取り方すら分かってはいない彼のナイフは、見当違いな空間へと突き出された。


「残念、当たらないよ!」


「えっ」


 確かに空中にあったナイフの先を見ていたはずのクロードであったが、彼は桜庭の奇襲をかわすと異形の右腕を振り上げて横になぎ払う。

 ギリギリ身を低くして桜庭はそれを避けたものの、軌道上にあった常緑樹が真っ二つに折れたのを見て背筋を凍らせる。


「なっ……あんなのを避け続けろっていうのか!?」


 桜庭の頬を汗が伝う。


「クロード、とりあえず待てだ! 待てはできるよな!?」


「その手には乗らないよ! もう僕はご主人様以外の言うことは聞かないって決めたんだから!」


 再び、桜庭のすぐ横をクロードの拳が掠めていく。

 ダリルの言う通り、あんなものが何度も飛んでくる中で捨て身でナイフを当てにいくことには無理がある。しかし、それは避けつづけないといけないことも同じなわけで。


「お前、俺が普通の人間だってことを忘れてるだろ!」


「でも先に攻撃してきたのは君だもん! 僕はもう怒ったんだ!」


「だからってそんな馬鹿力まともにくらったら……あぁもう!」


 ナイフを当てることはきっぱりと諦めて、桜庭は常緑樹の間を縫うように逃げはじめる。むしろこれからが本番であった。

 もちろんはなからナイフが当たるなど、桜庭とて思ってはいない。素人がいくら武器を持ったところで、格段に身体能力や経験値があがるなどありえるはずがない。ようするに彼の行動はにすぎないのだ。


 必死に走る桜庭の後ろからは、クロードが横を通りすぎるたびに邪魔な木々がなぎ倒される音が何度も辺りに響いている。

 足のあまり早くはない桜庭が追いつかれるのは時間の問題で、上空から飛んでくる槍がクロードの進行を妨害してくれているおかげでどうにか逃げつづけることができていた。

 その槍は時おり桜庭の足元に飛んでくることもあり、初めは驚いていた桜庭もそれが逃げるための道を示しているのだとすぐに気がつく。左右どっちに走ればいいか分からなくなった時は、地面に刺さる槍を避けて走ることでギリギリ追いつかれずに済んでいた。


 思えば今日の桜庭は、マジュウたちとの追いかけ追い回されの繰り返しのせいで今にも足がもつれそうなほどに疲労していた。おまけに回復したとしても痛めた足がこんなに早く完治するはずもなく、ダリルの援護なしに自分一人で立ち向かおうとした愚かさに今更ながら恥ずかしくなる。


 なぎ倒される木の数は時間に比例して増えていき、しだいに桜庭が隠れる場所はなくなっていく。

 辺りに倒れた常緑樹による木の匂いや土の匂いが立ちこめる頃には桜庭の体力も限界で、ついに彼は最後の一本となった常緑樹へと背中をつける形で追いこまれた。

 あれほどあった庭を飾る木々はすべて地面に転がり、辺りは一面は無惨な荒れた庭と生まれ変わっていた。


「ふっふっふ、これで追いつめたぞ。観念するんだ」


「観念って……俺を殺すのか?」


「そ、そんなことはしないよ。もう一回頭を叩いて気絶させるくらいさ」


「もしかしなくてもそれ、一歩間違えれば頭蓋骨折れるやつだよな……」


 いつもであれば冗談のような言葉も、彼の怪力の前では冗談ではすむはずがない。

 クロードが腕を振り上げるのを見て、桜庭が思わず肩を縮こませる。あの柔らかそうな肉球も、きっとなんのクッションとしても役に立つことはないだろう。


「ごめんね。……起きたらまた遊ぼうね」


 申し訳なさそうに声を潜めてクロードが腕を振り下ろす。

 彼の異形の手が桜庭の頭蓋骨を粉砕ふんさいしようと迫りくる。


 しかし。


「――いや、寝るのはアンタの方ですよ」


「ッ!? いったぁ!」


 クロードの振り下ろした腕は桜庭に当たることはなかった。

 それもそのはず。桜庭が背をつける木のにいたダリルが、飛び降りるとともにクロードの肩口に向けてナイフを刺したのだ。

 すぐにクロードはダリルを振り払おうとするが、ナイフに塗ってあった麻痺毒のおかげで力が入らないのか膝をつく。


「うぅ、君どうして……。匂いなんてしなかったのに」


「あんだけ派手にこの辺りの木なぎ倒しゃあ、一時とはいえこの辺りは土と木の匂いで充満するでしょうよ。桜庭さんはいい感じに囮役してくれましたし、おかげさまで隠れるのも楽でしたわ」


 そう言ってダリルがクロードの肩に刺さったナイフを消すと、クロードの身体はその場でパタリと倒れる。


「そっか……。僕、ご主人様の役に立てなかったんだ……。捨てられちゃうのかなぁ」


「クロード……」


 悲しそうに、寂しそうに耳をペタリとした彼はくぅんと鼻を鳴らす。

 それを見た桜庭はクロードの顔元に膝をつくと、彼を安心させるように微笑んだ。


「なぁクロード。よかったら今度、いっしょに公園に行こうか」


「公園……?」


「三度目の正直だ。今度こそたくさん遊ぼうよ。ボールとか、フリスビーとか、あとは君の好きなおやつとか持ってってさ。……あ、もちろんその姿だとみんなびっくりするから犬の姿で」


「僕……君のことをたたいたり追いかけたりしたっていうのに……。それでもいいって言うの?」


「もちろんさ」


 その言葉は嘘ではなかった。


「俺、君には普通の幸せをつかんでほしいんだ。暴力を使わない真っ当な生き方で。マジュウの君には失礼かもしれないけれど、俺の暮らしていたせか――故郷みたいに、飼い犬としてのんびり暮らすのも悪いんじゃないかなって」


「のんびり……ふふ、それなら僕は原っぱで日向ひなたぼっこがしたいなぁ」


「それも楽しそうだな。きっと叶うから……だからクロード。今度会った時は友達として遊ぼう。こんなお互い傷つくような争いなんて抜きにしてさ。約束しよう」


 クロードは意外そうな顔で桜庭を見つめていたが、すぐにへにゃりと破顔した。


「うん。約束……だね。へへ、ミーシャ以外にお友達ができたのなんて、はじめて……だな……」


 じょじょにクロードのまぶたが重くなっていき、麻痺毒が効いたのか彼はすやすやと寝息をかいて動かなくなる。人型に変身するマホウも解けたのか、あとには灰色の毛並みをした大型犬が一匹だけ残った。


 それを見届けた桜庭は立ち上がると、呆れたような表情でこちらを見ていたダリルの方へと振り向く。


「まさかマジュウにまで情けをかけるなんて。いいんですか、あんなこと言って」


「当たり前だろ。彼はただ、大好きな人たちのために頑張りたかっただけなんだ。だから憎めなくて……。俺にとってのサンディや、それからオズやダリルみたいに友達になれたらいいなって思ったんだ」


「僕たちも?」


 意外そうに目を丸くするダリルに桜庭はうなづく。


「もちろん同じ仕事場の仲間ってことには変わりないけどさ。いっしょにご飯食べに行ったりゲームしたりって、それはもう友達ってことだろう?」


「そうですか……まぁ、友達って言われて悪い気はしませんねぇ。とりあえずその犬については心配ないでしょ。約束、きっと叶いますよ。……もとりましたから」


「え?」


「なんでもないです。さ、早くキサラギたちのところへ向かいましょう。ここで大分時間くいましたし、逃げられたら元も子もないですからね」


「あ、待てってダリル!  ……それじゃあクロード、また会おう」


 ダリルは少し照れたように笑うと、その表情を見られたくないのかくるりと背を向けて足早に先を行く。

 最後に一度クロードへと別れの挨拶を送ると、その背中を桜庭は追うのだった。

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