不安にさせるのは誰

《イーリイ家――屋敷の中》


 何回死んだのだろう。

 すでに時間の感覚が分からなくなるほどに、ミーシャは疲弊ひへいしていた。それは身体的な疲弊でもあれば、精神的な疲弊でもあるのであって。

 マホウをつかい猫の姿へと見た目を戻すだけの力も、今の彼女には残っていなかった。


 この数分の間に、仰向けに倒れた彼女の周りにはとても人一人分とは思えないほどの血溜まりができていた。

 思わず目をおおうような惨状にミーシャの綺麗な白い耳や尻尾は紅く染めあげられており、何度ももがれた腕は指先までピクリとも動くことはない。拘束などされずとも、逃げることすらできなかった。


 ――もうあと、数回も死ねない。


 マジュウである彼女のマホウは、自身の姿を猫と人間その両方に変化させることができるというものと、それともう一つ。自分が死んだ時に蘇生をすることができるというものだった。

 それがどんなに修復不可能な傷であったとしても、綺麗さっぱり傷は治る。例え手足がもがれても、内臓が破裂しても、心臓を一突きにされても、窒息しても。


 しかし、それも無限にできるわけではない。


「おーい、ねこちゃん。起きてる? まだ寝るには太陽が沈みきっていない時間だよ。起きて起きて〜」


「む……、ぐ……」


 ぺちぺちと頬を軽く叩かれる感触に反応をしめそうにも、口の中に詰めこまれたオズワルドのハンカチーフがそれを拒む。

 声をだすことはできなかったが、それでもミーシャが生きていることを確認したオズワルドは嬉しそうに微笑んだ。


「あっ、よかったぁ。僕はこうして勝手にしているだけだからいいけれど、君へのお説教は終わっていないんだから。寝られても困るんだよね」


「……うぅ」


 といった通り、彼の拷問のような授業の時間は生と死の境界線を探るかのように手を替え品を替え彼女の命を奪う。

 オズワルドの黒いスーツとシャツはミーシャの血をたっぷりと吸いこんでおり、彼の言う『少しおっちょこちょいで頼りになる、優れたお兄さん的な上司』という姿は見るかげもなかった。


 猫は死期が近づくと自分から姿を消す、とはよくいうものだ。今のミーシャとて、姿を消せるものならばとっくのとうに姿なんて消している。

 そもそも、彼女が桜庭にした仕打ちの分はすでに仕返しをされていると言っても過言ではないのだ。それをオズワルドが良しとするかは別の話なだけであって。


「――だからね、君が先生にしたことっていうのはとても重罪なんだよ。僕は彼に死なれたら……ましてや世界を嫌われたら困るんだ。その行動ひとつで世界を滅ぼすことになる可能性があるっていうことを理解してくれないと」


 いつの間にかお説教とやらは再開されていた。

 口を動かす前に手を動かせとはよく言ったものである。

 彼自身はこの生産性のない勉強をしている間は口が暇を持て余しているのか、どうやらミーシャが桜庭に対して怪我をさせたことを怒って説教しているらしい。

 この場合は手よりも口を動かしてもらっていた方がミーシャとしても痛い思いをしなくてすむのだが、それであってもこの状況が改善するとは思えなかった。


「…………」


「聞いているかい? 君はどうせ世界が滅べばそれで終わりだろうからいいけれど、僕はそうはいかないんだよ。何年も何年も何年もまたひとりで……」


 そうは言われても、彼女にとってはなんのことだかさっぱり分からない説教。

 内容の一割も頭に入らない――どころか、入れる隙もなく何度も殺されるミーシャにとってはどうでもいい話。しかし死神でさえ鎌を振ることを投げだす間も語ることをやめない達者な舌が、ふとした拍子にピタリと止まった。


 不思議に思ったミーシャがオズワルドの顔を見上げる。今度は視線が交わることはなかった。


「あぁ……なんだかまた不安になってきたなぁ。先生、足も少し引きずっていたし、もしかしたら首と腕以外にもまだ怪我をしている場所があるのかもしれない。フォイユ村の時は僕がちゃんと確認したから大丈夫だったけれど、さっきは怒りでつい目の前のことを優先してしまったから心配だ。彼は平気だって言っていたけれど……今ごろ倒れていたらどうしよう。それに腕が動かなくなったら記録なんてできないかもしれない。それだけはまずい。どうして僕はだいじょうぶだなんて思っていたんだ? いまもむかしも、にんげんはすぐにしぬいきものだったじゃないか……」


 ――コイツ、ぶつぶつとなにを言ってるんだにゃ……?


 彼は静かになったのではなく、 もとより成立していなかった会話すらを放棄して独り言を呟きはじめていただけであった。

 不安げに揺れる瞳は屋敷の外へ通ずる扉の方をチラチラうかがっており、オズワルドは左手で自身の金色の髪をくしゃりと掴むとどんどん表情を曇らせていった。


「ふあんだ、不あんだ。かれが死んだら元も子もない。いや、あれは軽傷だ。きっとだいじょうぶ。……そもそも、なんでぼくはこんな不安にかられているんだ。なにが原因で、だれがせんせいを傷つけて」


「んぃ!?」


 落ちつきなく足先をパタパタと動かすオズワルド。彼は怪我を負う桜庭の様子が気になるのかしきりに不安だと言いつつもこの場から動く様子はなく、獣の聴覚をもつミーシャでようやく聞こえるほどの声で呟きつづける。

 が、そんな彼の独り言が急に止まったかと思えば、前ぶれもなく飛んできた風の刃がミーシャの顔の横の絨毯じゅうたんを抉りとった。


「……分かった。こんな不安なんかを直視しないように……僕は逃げようとしていたのか」


 扉の先を眺めていたオズワルドの顔が彼女の元へとゆっくり向けられる。その表情は血の気は引いていたものの、穏やかに笑っていた。


「ごめんごめん。たまに周りが見えなくなってしまうことがあってさ。君のことを少し忘れていたよ。……その口のやつ、苦しいだろうからとってあげようか」


 そう言うと彼はミーシャの口のハンカチーフを抜きとり、投げ捨てるとパチリと指を鳴らす。

 すると彼女の上空――ちょうど腰の真上へと、巨大な刃が姿を現した。

 直径は一メートルほどだろうか。今か今かと獲物を切断せんと浮かぶそれはまさに、処刑用のギロチンの刃だけが宙に浮かんでいる……そんな状態であった。


 ――は?


 人間であれマジュウであれ、生物は身体を二分割にされれば普通は死ぬ。そんなことはせずとも常識的に分かる。

 だがそれ以前に、突然現れたこの物体はなんだ。これもこのオトコのマホウなのか。ミーシャの中に渦まく疑問は膨れていく。


「なんかもう今日は嫌なことだらけだよ。みんなには怒られぱなしだし、気持ち悪いマジュウは僕を邪魔してくるし、君は先生を傷つけた。こう見えて結構ストレス溜まっているんだよね、僕」


「まさかアンタ……ストレス解消ついでにアタシのことを殺していたのかにゃ? そんなしょうもないことがあったくらいで?」


「ちがうちがう。本当に僕はお勉強したいだけなんだ。だって死のボーダーラインが分かれば僕の不安もいくらかは解消される。だからきっと、今こんな行動をしているんだろうね、僕は……うん。そうだ。取り乱すようなところはもう見られたくない。こうして先生になにかあった時に心配で焦る必要をなくさないといけないんだ」


 自分自身で答えを確認するようにオズワルドはうなづく。

 パチリ、と二度目の指を弾く音がした。


「あぁ、でも」


「ッ、――ァ」


 予兆などなかった。

 前ぶれもなく吊り下げていた糸が切れたかのように刃は落下し、ブツンという聞きたくない音が聞こえると同時にミーシャの身体は二つに分かれた。

 叫ぶ間もなく焼き切れた彼女の思考回路は、痛みを感じさせる前にどうにか生命活動を意識ごとシャットダウンさせる。そうでもしなければ、とてもではないが耐えられるものではなかった。


 刃はすぐに消え、その切り口からは大量の血液が溢れでる。

 その姿を見れば彼女が死んでしまったということは一目で分かるだろう。

 そうなることぐらいは、さすがの彼でも分かっていた。


「ごめんね。やっぱりちょっとしたストレス発散……というか、不安をぶつけたくて君にあたっていたのかもしれない」


 マホウが発動し、またミーシャの身体は傷口を繋ぎ合わせるように再生をはじめる。

 その光景を見下ろすオズワルドの表情は笑っているのか、あわれんでいるのか。それともなにも感情を表してはいないのか。意識のない彼女にとっては分かるはずもなかった。

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