追う者と追われる者、形勢逆転

 音もなく現れたミーシャの姿に、サンディの動きがピタリと止まった。

 それを見てか彼女はそれまでもたれていた柵を軽々と越えると、扉とサンディとの間に無音で着地をする。


「うん? どうしたのかにゃ? サンディ……アンタここから出たいんじゃなかったのかにゃあ。アンタがノロマだから、アタシここまで降りてきちゃったにゃ」


「お、お前いつの間にきたんだ! いいからそこをどけ! 私たちはお前の相手をしている暇なんて――ぐっ!?」


 小馬鹿にしたようにサンディの顔を下からのぞきこみ、近づいたミーシャ。

 彼女は一瞬後ろに下がったかと思うと、サンディの言葉を聞き終わる前に彼の腹に蹴りを入れた。


「サンディ!」


 とっさに桜庭が倒れかけたサンディの身体を支える。

 サンディは一瞬息の仕方を忘れたかのように口をパクパクとさせていたが、一度肺に残っていた空気を全て吐きだすと涙目になりながらもどうにか新鮮な空気を吸いこんだ。


 それを見てミーシャは愉快そうにニヤニヤと笑うと、口の端をペロリと舐めあげる。


「上でのんびりお昼寝してたら、突然広間から大きな音がしたからびっくりして飛び起きてしまったにゃ。まさか牢を抜けだすなんて……クロードの奴はご主人様が帰ってきたらお仕置きかにゃあ」


「大きな音……さっきのドアが軋む音か? まさかあれだけで……」


 桜庭の一人言に近い言葉に、ミーシャは笑みを深くすることで答えとした。


 彼女がゆっくりと前に一歩踏みだす。それに比例するかのように桜庭とサンディは後ろへと後退りをした。

 目前に見えていた出口が一歩ずつ遠のいていく。


「本当はご主人様が帰ってきてから楽しむつもりだったけど、悪い小鳥ちゃんは先にしつけてやらないとにゃあ。サンディ。アンタはアタシのお気に入りだから、特別なぶってオモチャにしてやるにゃ」


「う、うるさい。そ、そ、それ以上近づくな!」


「むふふ、怯える顔も可愛いにゃあ。……もちろん隣のアンタも、順番に遊んでやるにゃ。高い買い手がつくよう、首輪でもつけて丁寧にお世話でもしてやろうかにゃあ」


 ミーシャが一歩一歩確実に二人へと近づいてくる。

 桜庭はもうすぐ後ろが壁であることに気がつくと、意を決して怯えるサンディへとそっと耳打ちをした。


「サンディ、もう走れるか?」


「あ? あ、あぁ……大丈夫だが……」


「分かった。くれぐれも途中で転ぶなよ」


「転ぶなよって、サクラバお前まさか――」


「逃げるぞ!」


「お、おい待て! 私を置いていくな!」


 桜庭は叫ぶと脱兎のごとくその場を駆けだした。

 慌てたサンディがそれにつづき、二人は牢がある方とは反対側の扉へと向かっていく。


「追いかけっこかにゃ? 市場ではいつも追われる側だったから、追う側も新鮮で楽しいにゃあ」


 ミーシャの瞳の瞳孔がグッと広がる。

 彼女は逃げるネズミを追うような気分で音もなく走りだすと、必死に逃げる桜庭とサンディの後を追いはじめた。


 先に走っていた桜庭は、扉を開いた先の廊下にも反対側と同じく等間隔に部屋に通ずる扉があるということに気がつく。


「おい、サクラバ! 走るのはいいがどうするつもりなんだ! アイツの方が絶対に早いぞ!」


「と、とりあえずはどこかの部屋に入って彼女をやりすごすか撃退する方法を考えよう!」


「考えようって……ノープランじゃないか! やはり馬鹿かお前は!」


 サンディが軽い罵倒を浴びせる中、桜庭は廊下の途中にある扉を開くとその中へと滑りこんだ。

 彼はサンディが入ったことを確認すると、閉めた扉の前に目に入ったキャビネットを寄せて簡易的なバリケードを作ろうとする。


「こんなもので足止めできるのか?」


「分からない。けれどないよりはマシだよ。サンディもこれ動かすの手伝ってくれ」


 木製のキャビネットは思っていたよりも軽く、これがミーシャを足止めするのに十分な時間を稼げるのかは分からない。

 しかし、それでも今はここで考える他なかった。


「それで、これからどうするんだ。この部屋も窓は全てふさがれているし、実質ここは密室状態だぞ」


「一番は俺の仲間や如月たちがタイミングよく来てくれるのがいいんだけど……。そもそも彼らがこの場所を把握しているのかすら怪しい」


「望み薄じゃないか! なんか連絡する手段とか……ないのか?」


 悲観的にサンディがそう叫ぶが、桜庭は首を横に振った。


「ないよ。誘拐された時に全部落としてきた。サンディは?」


「私は……持ってはいたが、目の前で全部壊された」


「それは……気の毒だな」


「気の毒とか言うな! くそ、そっちが難しいとなると、やはり私たちでどうにか撃退するしかないのか……」


 そう言ってサンディはぐるりと室内を見回す。

 部屋の中央には長方形の白いクロスがかかったテーブルが陣どっており、六つの椅子が対になるように置かれている。

 奥側にはレンガで組まれた暖炉があるが火などついているはずもなく、薪の燃えカスが残っているだけであった。


 そしてサンディの言っていた通りこの空間においても窓の全てが板を釘で打ちつけられている状態で、とてもではないが武器になりそうなものはない。


「いや、無理だ無理だ! もうそんなの椅子を振り回すくらいしか考えられないぞ」


「そうなんだよなぁ。入る部屋間違えたかも」


「そうだにゃあ。やっぱりアンタ達ノロマじゃアタシから逃げ切ることなんてできないんだにゃあ」


「ん?」


「にゃ?」


 自分とサンディ以外の第三者の声がしたことで桜庭がそちらを振り向く。

 ビー玉のような青い瞳は、桜庭の姿をどこまでも鮮明に映しだしていた。


「お前、なんでここに――」


 桜庭が言葉を言い終わる前に、ミーシャはその瞳を細めたかと思うとその場で回転する勢いをつけて桜庭を蹴り飛ばした。


 バリケードと扉を破壊して廊下まで飛ばされた桜庭は、口の中に滲む血の味に唇の端を切ってしまったことに気がつく。

 そんな彼の目の前までやってきたミーシャは精巧せいこうな顔つきをニヤリと歪ませていた。


「この屋敷はアタシが出入りしやすいように、どこのドアにもちぃちゃい扉がついているんだにゃ。そんなものも見逃して逃げた気になっていたなんて、お馬鹿さんだにゃあ」


「扉だって……?」


 ミーシャの言葉に桜庭はかたわらで真っ二つになった扉に視線を向ける。

 彼女の言う通り、扉の下半分であっただろう方には小さいながらにも小窓のようなものがついていた。それは人一人通るには無理であっても、猫一匹通るくらいならば造作もない大きさであった。


「この世界にもペット用のドアなんてあるのか……痛っ!」


「分かったかにゃ? アンタたちがどこに逃げたところで、アタシは絶対に追いつくことができるんだにゃ」


 桜庭の髪を掴んで無理やり自分の方へと顔を向かせたミーシャが笑う。


「また逃げられると困るから、足の一本くらい折っといてやるかにゃあ。傷をつけるのは駄目だってご主人様に言われてるけど、それは逃げようとしたアンタたちが悪いにゃ」


 ミーシャが桜庭の右膝へと足を乗せ力を加えはじめる。

 ミシリと音を立てた骨に、さすがにマズいと思った桜庭が彼女を押し飛ばそうと顔を上げたその瞬間――彼の視線はミーシャの後ろへと向けられた。

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