ハロー!この世界の新しい主人公

《■■■■――見知らぬ場所》


 きっとこれが世間一般的にいう、絶体絶命的な状況というやつ……なのだと思う。それもおそらく、普通の人間が体験したこともないような、まずい状況のやつ。


「……マジか」


 意識が浮上するとともに、ズレた黒い縁の眼鏡を押し上げて、青年は開口かいこう一番にそう呟いた。

 辺りに広がるのは彼にとってまったく覚えのない建物、空、匂い――風。

 チラリと付近を見回してみれば、まさに大都会とでもいうべきガラス張りのビルや巨大な液晶モニターが。そして本来は車が行きかうであろう道路に、並ぶイチョウの街路樹。

 どこかなじみのあるその街並みは、彼のよく知る日本の街並みのようでもあった。

 しかしここがいつもの日本ではないという確信にいたらせる点があるのだとすれば――それはこの目の前に立ちふさがる怪物ファンタジーのせいだろう。

 自分の他に誰一人通行人がいない中、とつじょ、青年の頭上から鼓膜を破らんとするほどの咆哮ほうこうが響きわたる。


「ひぃっ」


 青年の視線の先にあったものは、まずは足先。彼の腕ほどの長さの爪が目に入る。

 次に身体。爬虫類のような質感ではあるが、それにしてはかなりの硬さであろう鱗が目に入る。

 そして最後に顔。――黄金色の瞳と目が合った。


「や、やぁ……。俺の名前は桜庭優雅さくらばゆうが。君は……えっと、まず会話は通じるのかな」


『グルルルルル……』


「あっ、これ通じないやつだ」


 コミュニケーションの基本は笑顔と挨拶から、なんてセオリーに沿った対応には意味などなく。思わず引きつる顔に目の前の怪物ファンタジーはなにも答えない。

 それもそのはずであろう。桜庭の前に立つ彼の背丈の何倍もの巨躯きょくの生物――ぞくにドラゴンと呼ばれるそれは、彼の言葉をそもそも理解してなどいないのだから。

 瞬間、ドラゴンの耳をつんざくほどの咆哮ほうこうがもう一度、桜庭へと浴びせられる。

 黄金色の瞳はすでに彼を獲物と認識していた。


「嘘だろ……!」


 よく、山で熊と遭遇したら背中を向けず、目を合わせてゆっくり後ずされ。とはいうが、今はそんな悠長ゆうちょうなことをしている場合ではない。

 そもそも相手が熊なんてレベルの生物ではないのだ。桜庭の中の生存本能が、彼の全身にこの場から逃げだせと訴えかける。


 ――とりあえず、状況を整理しないと。まずは安全な場所へ……!


 その心の声に従うようにして、彼は怪物に背を向けて一目散に駆けだした。――が、しかし。その行動がさらに相手を煽ることを助長する。

 ドラゴンは自分よりも弱い生物だと認めた桜庭に向けて大きく口を開くと、逃げる彼を追うために大きな身体に見合った両翼を広げた。

 三度目の咆哮ほうこうが桜庭の耳に届くとともに、彼は嫌でも自分が追われる立場になったことを理解する。


「まてまて。そもそも本当にここどこだ? たしか俺はさっきまで部屋にいて、締切に追いこまれすぎて疲労と寝不足で眠くなってきたところまでは覚えていて。ちょーっとだけ昼寝しようかなぁだなんて思ったところで――あ」


 今現在の状況を理解するため、桜庭は自分の覚えている範囲で直前の行動を口にだす。

 そこで彼は一つの考えへとたどりついた。


「なるほど、夢か。明晰夢めいせきむってやつだなぁ。これ」


 明晰夢めいせきむ。夢を夢だと自覚することで、自由自在に夢を操ることや、動き回ることができるという現象。

 まさに彼が今置かれている状況がそれであった。

 そう納得して逃げつつも改めて辺りを見渡してみる。

 冷静になればビルから飛びでた広告看板の文字は普段通りに読むことができるし、電柱に貼られたチラシも簡単に内容を理解することができる。

 さらにガラス張りのビルの前を通過する際に自分の服装を見てみれば、着ていたはずの部屋着はいつも出かける際に着るような、白いタートルネックにベージュのコートへと変化していた。


 ――さすがは夢。そこはご都合主義ってわけか。


 しかしそう自分の状況を把握したところで、この絶体絶命な状況は変わらないわけで。


「ッ!?」


 逃げつづける桜庭の右腕に突然、鋭い痛みが走る。


 ――夢、なのに。なんで。


 驚きと混乱で痛む場所を見てみれば、彼の右腕には獣の爪で引っかかれたような大きな切り傷ができていた。

 まさかと思い振り返ると、ちょうど右腕を振り上げたドラゴンの姿が目に入る。この傷はおそらく怪物の爪の一撃によるものだろう。

 そして間髪入れずに振り下ろされた追撃は、桜庭の横スレスレを通りすぎて近くのアスファルトの地面をえぐりとった。

 恐怖の中で無理やり動かしていた足はまぬけにももつれ、桜庭は不本意にも硬い地面へとダイブすることとなる。


「いてて……。なんだ、この夢。夢なのに痛いだなんて、そんなことあるはずが――」


 その先は言葉にならなかった。あまりにものんきにしすぎていた。彼はすぐにでも立ちあがって、また逃げなければならなかったのだ。

 後ろを見上げた先の黄金色の瞳は先ほどよりも近く、追いつめた桜庭に食らいつこうとギラギラ輝いていた。ドラゴンの口の端からこぼれたよだれが、地面へと糸を引く。


 ――あ、俺食われるんだな。


 この状況でそれ以外になにがあるのか。彼はいたってシンプルに恐怖をしていた。

 きっと、これが蛇に睨まれた蛙。鷹の前の雀というものだろう。今ならば、テレビ越しに見ていた、肉食獣に追われる草食獣の気持ちがよく分かる。

 呆然と自分の元へと迫る巨大な口内を眺めながら、桜庭はただその場で固まることしかできなかった。

 これがたとえ夢であっても食べられることなど許容できるわけもなくて。彼は少しの間忘れていた右腕の痛みを思いだす。


 ――痛いのは嫌だなぁ。夢の中だから、現実で死ぬことはないとは思うんだけど。噛まれるってどんな感覚なんだろう。ドラゴンに噛まれた経験のある人なんていないだろうし、これがいいネタになるなら、体験してみる価値はあるのかな。


「でも、怖いものは怖い……よな……」


 恐怖は簡単には現実逃避をさせてはくれなかった。

 付近に彼を助けてくれるような人間はいない。皆すでに避難して、建物の中にでも隠れてしまっているのだろう。それか、そもそも登場人物が自分しか存在していない夢なのか。

 夢の中であると分かっていても、よりリアルに死の瞬間を感じてしまう。今の今であんな痛みを感じた後なのだ。そう思ったとしても不思議ではない。


 ――もう、無理だ。


 ああ。どうしてこんな悪夢なんて見てしまったのだろうか。日頃の行いか。ゲームの影響か。それとも――彼が非日常を求めてしまったからなのか。

 これから起こりうる最悪の展開に、桜庭の目の前が暗くなっていく。

 そして。そんな全てを諦めた彼の頬を――ふわりと柔らかい風がなでていった。


「――ああ、間に合ってよかった。本当はすぐにでも出迎えるはずが……うっかり見失ったせいで、あちこち探し回ってしまったよ」


「……え?」


 それは、知らない男の声だった。

 瞬間。突然桜庭の目の前のドラゴンの左腕が吹き飛び、ギャインと鳴き声をあげて怪物は大きくのけぞる。


「なっ……!?」


 今この瞬間ときまで、辺りに人なんていないはずだったのに。

 桜庭が思わず声のした先――へと目を向ければ、高級そうな黒スーツに身を包んだ金髪の男がこちらへ笑顔を向けていた。

 そして男は両腕を広げると、宝石のごときエメラルドグリーンの瞳を輝かせて、こう高らかに声をあげるのだった。


「ハロー! この世界の新しい主人公! 僕とこの世界は、心の底から君のことを歓迎しよう」

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