マコト 第2話

 オレの職場、老人ホーム『ゼーレ・ハイム』は自然に囲まれた小高い丘の上にある。最寄りのバス停を降りれば、入口まで長い壁が続いている。周りには木以外には何もない。


 緩い登坂を上がって、守衛に入門証を提示すると従業員用の建家へ行く。ドアを開けたら、同僚の如月由紀恵が座っていた。オレは出勤の挨拶をする。


「お疲れ様」


「マコトくん、お疲れ様」


 休憩中なのだろう。こちらを見ずに煎餅を食べながら雑誌を読んでいる。


「今日は誰と交代だったっけ」


「暁くん。そろそろ帰ってくると思うけど」


「オッケー」


 軽く雑談をしながら、準備をしていると多賀谷暁が部屋に入ってきた。


「お疲れ様。あっマコトさん」


「お疲れ。暁はいつも元気そうだな」


 オレは暁の肩に手を置く。


「暁くん、その人危険だから逃げて」


 如月がオレを牽制する。この女がさわやか系で優しいイケメンの暁を狙っているのは知っている。暁に近付く人間がいるとすぐに邪魔をするからだ。だからといって、自分から行動もしない。そんなんじゃ欲しいものは手に入らないよ、君は。


「如月、何言ってるんだよ。オレたち男同士だぜ」


「オープンな人がどの口で言うんですか。大体、十五歳も年下にちょっかいかけないでください」


「いいじゃん。なぁ」


 オレは暁に話を振る。


「僕はマコトさんの恋人にはなれないけど、好きですよ」


「そっか。今はそれだけで十分。今度一緒に飲みに行こうぜ」


 オレは暁を抱き締める。如月は今にも叫び出しそうな顔だ。


「いいですね、予定が合う時にでも。じゃあ、バスの時間なんで僕そろそろ行きますね。お先に失礼します」


 暁は帰る支度をさっさと済ませてお辞儀をすると外に出ていった。


「暁くんを悪い道に誘い込まないでください」


 如月がぽつりと言う。


「それは如月が決めることじゃないだろ。それとも、お前が何か言う筋合いでもあったんだっけ?」


「うっ」


 如月は言葉を詰まらせた。が、ニヤリとして言葉を続ける。


「まあ、『女王様』がいる限りマコトさんが暁くんと飲みに行けるのは先のことでした。勤務に入ったら、美郷さんのところに顔出してくださいね」


「わかった」


 オレは如月の言葉を背にして施設の方に進んでいく。そうだな。入居者の美郷さんは介護者を選ぶ。オレと暁、それにチーフの高槻さん以外だと相当苦労する。それでついたあだ名が『女王様』だ。最初は若いイケメンだけを選んでいるのかと思っていた。だが、女性の高槻さんの言うことも聞くってことは、性別で選んでいる訳ではなさそうだ。


 よくわからないが、本人なりの基準があるらしい。いずれにしても、その対応として三人は別の勤務時間になるようシフトが組まれている。


 だから、実際問題としてオレが暁と飲みに行くのは難しい。暁もそれがわかっているから、'一緒に飲みに行こう'という言葉を了承するのだろう。


 大体、オレのアンテナは暁が『仲間』ではないと言っている。多分、先入観なく他人と仲良くなれるタイプなのだろう。だから、アイツの『好き』は恋愛感情を伴うものではないハズだ。知らんけど。


 あれこれ考えているうちに美郷さんの部屋の前まで着いた。オレはドアをノックする。


「美郷さん、こんにちは。マコトです」


 中から返事はない。その代わりにベルの音がする。ドアを開けると美郷さんは車椅子に座っていた。


「今日もよろしくお願いしますね」


 声をかけても反応はない。まあ、いつものことだ。オレは美郷さんが話をしているのを見たことがない。暁もないと言っていた。他の入居者さんも限られた人しか近寄らせない。ただ、高槻さんとは話をする事があるらしい。


 ん、髪が乱れているな。暁の奴、気が付かなかったんだろうか。アイツ、こういうところに無頓着だよな。たまに寝癖がついたままで出勤している時もある。まあ、いい。このまま放っておくのはオレの美意識が許さない。


「今日は身だしなみを整えましょうか」


 オレは美郷さんを鏡台の前に移動させて、櫛で白い髪を梳きはじめる。こうやって改めてじっくり見ていると美郷さんは若い時、美人だったんだろうなと思う。


 聞いたところによれば、夜のお店をいくつか経営していたらしい。入居した当初はよく人が面談に来ていた。とはいえ、最近はめっきり訪ねてくる人はいない。


 本人も認知症の症状が出ていて、どの程度自分の状況を認識しているのかわからない。いくら美人でも時の流れには逆らえない。だったらオレもそのうちこんな風になってしまうんだろうか。


 オレには見た目以外何もない。介護の仕事は嫌いではないが、結局のところ体力仕事だ。いつまで続けられるかわからない。ここはある程度資産がある人しか入居出来ないから、その分従業員の待遇も良い。だが、それでもきついと感じることがある。


 こんなことなら、若い頃にちゃんと勉強しておけば良かった。ユウキやシュウジはそれなりの学校を卒業していることもあって、生活に余裕がありそうだ。


 そう考えると人生の苦労の量はみんな同じなのかもしれない。若い時に遊んでいたら、その分の苦労は年を重ねてからすることになるのだろう。


 だが、歳を取ればどうしても体力は落ちる。記憶力も衰えてきた。見た目なんて劣化する一方だ。そして、次から次へと若い奴が「そこをどけ」と言わんばかりにメインステージへとなだれ込んでくる。


 そんな中で何もない人間が今さら苦労をしないといけないのだとしたら、むしろ難易度は上がっているのかもしれない。


 考えながら手を動かしているうちに、随分と髪に色艶が出てきた。服を整えて声をかける。


「出来ましたよ。綺麗になりましたね」


 もちろん、返事はない。まあいいか。オレは部屋の中の片付けをはじめた。


「ありがとう」


 突然発せられた言葉は誰の声か。最初はわからなかった。


 だが、見回してみてもオレと美郷さんしかいない。ならば、声の主は彼女なのだろう。思いがけない反応についテンションが上がってしまう。


 しかし、騒ぐのは美郷さんの前ではふさわしくない。何故なら彼女は『女王様』だからだ。業務を一通り済ませると、オレは鏡越しに「失礼します」深く礼をして部屋を出た。


 その日の勤務が終わって、バスに乗り込む。スマートフォンを確認するとユウキからご飯の誘いを了承するメッセージが来ていたので、候補日を送り返した。


 さて、一仕事済んだ。オレは景気付けに一杯飲みにでも行くか。これまでチーフの高槻さんにしか出来なかったことを自分が出来た。それは世間的に見たらたいしたことではないかもしれないけれども、純粋に嬉しい。


 店を探して繁華街を歩いていたら、シュウジが歩いているのを見つけた。誰かと一緒のようだ。なんだ?いい相手でも見つけたのか。


 よく見たら、どこかで見た記憶がある顔だ。誰だったかな。そうだ、リョウマだ。シュウジが大学時代に付き合っていた。まだ連絡を取り合っていたのは知ってたが、よりを戻したんだろうか。


 いずれにしてもオレはお邪魔虫だろう。見なかった振りをして、別の道へ行くことにした。

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