ユウキ 第1話

 私鉄の駅を降りて、僕はソウイチロウが住むマンションに続く道を進む。


 そうだ。駅の近くにあるコンビニへ寄って、飲み物を買っておかなくちゃ。ソウイチロウの家の周りはお店がないので、ここで買っておかないとなかなか厄介だ。僕はレモンティーのペットボトルと明日の朝食用のヨーグルトをカゴに入れて、レジで支払いを済ませた。


 店を出ると、マンションに近づいていくにつれて人影は少なくなっていく。電灯が並ぶ比較的大きな通りを歩いているが、すれ違う車もまばらだ。緩やかな坂道を登ると、真新しいマンションが目に入る。ソウイチロウの話だと去年建てられたばかりらしい。


 一階のエントランスで部屋番号を押す。しばらくすると、ドアが自動で開いた。僕はエレベーターに乗って、最上階のボタンを選ぶ。


 エレベーターを降りたら、ソウイチロウの部屋はもうすぐだ。この階に四つある部屋のうち、一番手前にある。ドアのインターフォンを押す。


 しばらくして、ガチャリと音を立てて扉が開いた。


「おかえり」


 ソウイチロウが顔を出す。お風呂上がりなのだろうか。ほのかにバニラのような香りがした。髪も心なしかふんわりしている。


「ただいま」


 僕はドアの内側に入り、ソウイチロウを抱き締める。そしてキスをした。


「ユウキさん、お酒くさい」


「ゴメン」


「今日は楽しかったの?」


「うん。今度はソウイチロウも誘って欲しいって言われた」


「そっか。マコトさんとシュウジさんだったよね。じゃあ、また飲み会があったら教えてよ」


「わかった」


 ソウイチロウは僕にスリッパを渡す。


「じゃあ、どうぞ。昨日、出張から帰って来たばかりだから散らかってるけど」


「うん」


 靴を脱ぎ、長いキッチンを通り抜けて部屋に入る。部屋の中には開きっぱなしになったスーツケースが転がっていた。僕は座れそうなところに腰をおろす。そうだ。ヨーグルトはどうしよう。


「ソウちゃん、朝ごはん用のヨーグルトを買って来たんだけど冷蔵庫借りていい?」


「いいよ。じゃあ、しまっておくね」


 ソウイチロウは僕からビニール袋を受け取って、キッチンの方に戻って行った。部屋にはBGMとしてシャンソンが流れている。


 これは誰の曲だったっけな。思いだそうしていたら、彼がグラスとお茶が入ったピッチャーを持って帰ってきた。


「ユウキさん、お茶飲む?」


「うん。ありがとう」


 僕はグラスを受け取って、口をつける。よく冷えた麦茶だ。身体に染み渡っていく。アルコールのほてりを和らげるにはピッタリだ。


「これ、美味しいね」


「そう?これ有機のなんだよ。気に入ってくれて良かった」


「そうなんだ。ところで、このかかってる曲、明日歌うヤツ?」


「そうだよ。どう思う」


「いいんじゃないかな」


「もうちょっと具体的な感想ないの?」


「あんまり素人がわかったようなことをいうのもね。それにソウちゃんが歌ってるんじゃないから」


「'わからない'だよね。でも、いつも聞きに来てくれるの、感謝してる」


 そう言いながらソウイチロウがしなだれかかってきた。僕は頭に手を回して、その髪の毛を撫でる。


「ソウちゃんが好きなものだもん。わからなくても共有はしたいじゃん」


「ありがとう。これだけで食っていける訳じゃないけど、シャンソンはボクにとって大切なものなんだ。だからそう言ってくれてると嬉しい」


「そっか。よーしよしよし」


 ソウイチロウの言い方にきゅんとしてしまったので、頭をカシャカシャと撫でてやる。


「もう。ボク、犬じゃないんだけど」


 ソウイチロウは口を尖らせながらも、笑顔だ。


「でも、今日マコトがソウちゃんのこと僕になついてる子犬みたいって言ってたよ」


「そうかワン。だって、ボクはユウキさんのことが好きなんだワン」


 そう言ってソウイチロウは僕の上にのし掛かってきた。続けて、首筋にかぶりつくようにキスする。


「ふふふ。じゃあ、ソウちゃんのことかわいがってあげようかな」


 僕は振り向いてソウイチロウに口づける。そして、そのまま身体を切り返して、彼を押し倒した。




 起きる時間だということを訴えかける時計の音で目を覚ます。僕がグズグズしていたら、隣に寝ているソウイチロウがアラームを止めた。


「ユウキさん、朝だよ」


 その言葉を無視して、僕はソウイチロウに抱きつく。


「もう」


 そう言いながら、ソウイチロウは返事のように手を僕の背中へ回してきた。


「朝ごはんどうする?」


「んー。昨日買ったヨーグルトがあるから、それにする」


「わかった。じゃあ、それに合うものを用意するね」


「ありがとう」


 僕が唇でほほに触れたら、ソウイチロウは口にお返しをくれた。


 彼がベッドから立ち上がってキッチンの方に行くのを見届けると、僕は伸びをして起きる準備をする。恋人の家とはいえ、いつまでもTシャツとボクサーパンツのままという訳にはいかない。ので、昨日と同じボトムスを履く。


 鏡を見ながら身だしなみを整えていたら、ソウイチロウがスープの入ったカップとヨーグルト、小さなパックを持って帰ってきた。


「準備出来たよ」


 彼は机の上を片付けて、トレイに載ったものをひとつひとつ降ろしていく。


「これ、ヨーグルトに入れたら美味しいんじゃないかな」


 ソウイチロウは小さなパックを開ける。中身は凍らせたラズベリーだ。スプーンを受け取って、一緒に座る。


「いただきます」


 まずはスープだ。スプーンですくって、飲む。口の中に旨味が広がる。


「美味っ」


 思わず声が出てしまった。


「良かった。いろいろな野菜をじっくり煮込んだヤツなんだよ」


「そっか。僕、これ好き」


「一緒に住んだらいつでも飲めるよ」


「んー」


「何それ。ユウキさんはボクと暮らしたくないの?」


「そうじゃないよ。でも、同棲して失敗するカップルの話って良く聞くから、慎重にしたいんだよね」


「でもさ」


「僕はソウちゃんと出来れば末永く恋人でいたい。ソウちゃんは違う?」


「違くない」


「だから、あんまり焦らないで進めようよ」


「わかった」


 ソウイチロウは小さくため息をつく。時計を見たら、もう十時だ。ソウイチロウの予定は大丈夫だろうか。


「ところで、今日は何時に出る?」


「もうそろそろ。ユウキさんはどうする?ここにいてもらっても良いけど」


「コンサートは十九時半からだったよね。じゃあ、一度家に帰ろうかな」


「わかった。でも、駅までは一緒に行こうよ」


「オッケー」


 食事を終えて、僕たちは出掛ける支度を済ませる。ソウイチロウはスーツケースにショルダーバッグと大荷物だ。


「そういえば、これ」


 僕はカバンからチョコレートを取り出す。


「ありがとう。どこか行ったんだっけ」


「バレンタイン」


「そっか、ありがとう。ユウキさんからいつももらってるけど、ずっと自分には関係ない行事だったからつい忘れちゃうんだよね」


「女の子からもらったりしなかったの?」


「そりゃ、あるけどさ。女の子の恋のイベントだから関係ないじゃん」


「そうですか」


 バレンタインだけじゃなくて、クリスマスとか二人で最初に会った日もあんまり覚えてない気がするけど。


「ありがとう。練習中にちょっと食べられるから助かるよ」


 そう言いながらソウイチロウはバッグにチョコレートをしまう。


「じゃあ、行こうか」


 僕が振り返ると、ソウイチロウは出迎えるように口付けする。


「お返し」


 僕は身体を抱き締めて応えた。


「ところで、時間大丈夫?」


 僕はソウイチロウに尋ねる。


「そうだね。ちょっと急がなきゃ」


 僕たちはさっさと部屋を出て、エレベーターで下に降りた。


 マンションを出るとピューっと強い風が吹く。


「寒っ」


 僕は身体を縮こまらせる。


「ユウキさん、手袋ないから寒いでしょ。はい」


 僕はソウイチロウが差し出した手を握った。彼のエネルギーが僕の身体をじんわり暖めてくれる気がする。


「どこか温かいところに行きたいね」


「そうだね。今日のコンサートが終われば時間が出来るから、どっか旅行に行こうよ」


「うん、どこにしようか。温泉は去年行ったから、今年は沖縄がいいかね」


「沖縄かぁ。前行ったけど良かったよね。海外は?」


「台湾とかいいんじゃない」


「台湾か。行ったことないけど、どんな感じ?」


「日本人には旅行しやすいところだよ。あと、結構ゲイフレンドリーな印象」


「へぇ。例えば?」


「大手ファーストフード店のCMで、ゲイの男性がお父さんに自分のことを伝えるシリーズがあったり」


「そんなのがあるんだ」


「あとは'同性婚を認めないのは違憲'っていう裁判所の判断が出たんだ。法律も出来たみたい」


「へぇ。日本だと自治体でパートナーシップ協定が出来てるけど、結婚はどうなんだろうね」


「さて。法律がどうなっても大丈夫なように準備はしておきたいよね」


「例えば?」


「パートナーが急病で倒れた時、家族じゃないからって搬送先を教えてもらえなくて離ればなれになっちゃうこともあるみたいだよ」


「そっか。そんなことでユウキさんと会えなくなっちゃうのは嫌だな。将来を考えたら、そういうことも考えなくちゃいけないよね」


 話をしながら僕がふと先に目を向ける。女性が坂を上がって来るのが見えた。彼女は手元のスマートフォンの画面に集中している。


 僕はソウイチロウの手をそっと離した。二人の間に一瞬沈黙が生まれる。お互いの顔は見ない。口から秘密が漏れないように、息をひそめる。まるで僕たちは警察の前を逃れようとする犯罪者のように一歩、また一歩と足音がなるのを抑えて坂を下りていく。そして、ついに彼女は僕たちの横を通り過ぎた。結局、僕たちとすれ違っても彼女は顔を上げなかった。


「歩きスマホ、危ないなぁ」


 ソウイチロウが言う。


「そうだね」


「で、台湾に行くとしたらいつくらいにする?」


 さっきまでの沈黙を無理やり取り繕うようにソウイチロウは僕に聞く。


「せっかくだから二泊くらいはしたいよね。三月上旬は忙しいから、下旬以降が良いかな」


「それじゃあ、もう暖かくなってるじゃん」


 ソウイチロウは苦笑する。


「だね。でも、花粉避けられるからいいんじゃない?」


「それ大事。もうそんな時期かぁ。確かにその時期は遠くに行きたい。んじゃあ、その辺りのスケジュール確認しておくね」


「僕の方も予定のチェックしとく」


 話をしているうちに僕たちは駅に着いた。電車に乗って、ターミナル駅でソウイチロウと別れた。

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