人並みの交差点、渡り損ねて

藤間 保典

プロローグ

 目の前の信号は赤。横断歩道の手前には多くの人がじっと待っている。道路を走る車はまばらだ。気をつけて渡れば、事故に遭うこともないだろう。


 だが、誰一人として進もうという人はいない。ある社会学者が「ルールは守ることが大切なのではなく、その目的を考えて運用することが大切だ」と言っていたことを思い出す。


 彼に言わせれば「信号を守るのは事故に遭わないためで、大人が事故に遭う危険性がないのに赤信号を守るのはルールを守ることを目的化している」ということらしい。この状況を見れば、確かにそうかもしれないと思える。


 とはいえ、車は走ってくるのだ。幸いにして数分のために事故に遭うリスクを取る状況にはない。


 信号機に緑が点る。周りの人が一斉に歩き出した。まっすぐに進む人たちは、水のようにその流れに抵抗することを良しとしない。これに抵抗する方法はあるのだろうか。まあ、いい。どうせ目的地はこの先にある。僕は流れに身を委ねた。



 ジョッキグラスを鳴らす音。周囲を気にする素振りも感じられない笑い声。誰も聞いていないであろう有線から流れる曲。周囲には音があふれている。


 店員に通された居酒屋の個室には、まだ誰も来ていない。僕は暇つぶしも兼ねて、メニューをチェックする。ドリンクが三百円にフードが四、五百円か。コストパフォーマンスを大切にするマコトらしい店選びだ。話をするための会なのだから異論がある訳じゃない。とはいえ、四十歳のおっさんにジャンクフードは少々重い。


 もうちょっとマシなものがないだろうか。メニューを眺めていたら、個室の戸が開く。シュウジだ。スーツにメガネと土曜日なのに仕事モードの服装をしている。


「お疲れ、ユウキ。待たせたな」


 ビジネス用のカバンをおろしながら、シュウジは僕に話し掛ける。


「お疲れ、シュウジ。'待たせた'だなんて。時間ぴったりだから大丈夫だよ」


「お前は相変わらず時間前には来てるよな。普段はぽやんとしてるからつい忘れるけど、やっぱりサラリーマンしてんだなって思う。マコトは十分くらい遅刻だってさ」


「そっか。ところで、今日は珍しくスーツだね。仕事だったの?」


「ああ、お客さんのところでさ。土日じゃなきゃシステム止められないから仕方ないけど」


 シュウジは眼鏡を外して、おしぼりで顔を拭く。


「お疲れ様」


「ユウキは今日、休みだったんだろ?」


「うん。でも、ジムに行って、家事をしたらもう出掛ける時間になってたけどね」


「そっか。ユウキ、本当きちんとしてるよな。俺も運動しなくちゃ。腹の肉、ヤバくなってきたもん」


 シュウジは自分の腹の肉を掴む。昔に比べれば肉付きがよくなったけれども、僕の周りにいる同年代と比べればスマートな方だ。身長が百八十近いから、元々太りにくいんだろう。


 百七十センチに足りない僕は、油断すればすぐ体重に反映される。毎日体重計を見ながらコントロールしてる身からすれば、運動しないでもあまり変わらないシュウジはうらやましい。


「太りやすく、やせにくくなってきたよね。風呂上がりに自分の身体を見ると落ち込むもん」


「えぇ?そのガタイでそんなことないだろ。見た目だって四十には見えないぞ」


「そんなこと言ったら、マコトの方がスゴいじゃん」


「あれは化け物だろ」


「誰が化け物だって?」


 声のする方を向くと、マコトが立っていた。今日は貴族みたいなヒラヒラのついた服を着ているが、全く違和感がない。イケメンの特権だ。僕はおしぼりをマコトに手渡す。


「お疲れ様。みんな同じ歳なのに、マコトはいくつになっても全然変わらなくてうらやましいなって話をしてたんだ」


「当たり前じゃん。そのための努力はしてるんだから」


 マコトは手を拭きながらこたえる。その点は完全に同意だ。みんな結果ばかり見て、その過程で支払われている努力を無視する。僕はマコトの言葉にうなずく。


「なかなか出来ることじゃないよ」


「そう?オレからしたらユウキの方がスゴいと思うけどな。一人の相手とずっと付き合えるなんてさ」


「二人とも盛り上がってるところすまないが、先に飲み物をオーダーしてもいいか」


 シュウジが話に入ってくる。


「あぁ、ごめん。僕はジンジャーハイボールで」


 僕はさっき決めておいたものを頼む。


「オレは芋焼酎の水割りをもらおうかな」


 マコトはメニューを見てから答えた。


「オッケー。俺はとりあえずビールかな」


 シュウジはタッチパネルを操作した。料理は軽いものを適当に選ぶ。あまり間を置かずに店員がお通しと飲み物を持ってきた。


「じゃあ、かんぱーい」


 グラスを鳴らして、各々口をつける。マコトは豆腐サラダを取り分けながら僕にたずねる。


「で、ユウキ。ソウイチロウくんとは付き合って何年になるんだっけ」


「四年。もうそろそろ五年かな」


「長いね」


「そうかな」


「コッチの業界だと長いよ」


「時間だけでみたら長いかもしれないけど、毎週会ってる訳じゃないから」


「ふぅん。でも、それがいいのかもしれないな。オレも長く続いてるセフレとはお互いに都合が良い時しか会わないもん」


「そっか。マコトは恋人欲しいとは思わないの?」


「オレはみんなのものだからね」


「モテる男は違うなぁ」


 以前、マコトは'自分からアプローチをしたことがない'って言っていた。選ばれる立場にあると、こうも余裕を持てるものなんだろうか。


「まあ、ユウキを見てるとそろそろ特定の相手がいてもいいかなって思うことはあるけど。なあ、シュウジ」


 マコトは一人で黙々とホッケを食べていたシュウジに話をふる。


「そうだな。最近のユウキ、安定してる感じがするよ」


 マコトは僕を見ながら、楽しそうに頷く。


「確かに。前はよく男に振り回されて不安定だったよな」


「そんなこともあったねぇ。まあ、そういう経験があったから今がある訳だけど」


 そう。散々追いかける恋愛をしてきた結果、それが自分に合わないのはよくわかった。


 一方で、ソウイチロウは一途に僕を好きでいてくれる。一緒にいる時間が長くなればなるほど、その安心感が自分には必要なものだとしみじみ思う。


「本当に良かったよなぁ」


 シュウジは微笑みながらうなずく。


「ちなみに、シュウジは最近どうなんだよ」マコトが訊ねる。


「えぇ?俺は何にもないよ」


「そうなんだ。シュウジ、いい男なのにもったいない」


 シュウジは優しくて、真面目だ。見た目だって良い方だと僕は思う。


「いいんだよ俺は」


「何言ってんだよ。お前、マイペースなんだから自分から動かないと。恋人だって大学の時にいたくらいだろ」


 マコトは大げさにため息をつく。


「そのうちな」


 シュウジはたいしたことでもないかのように流す。


「そうやってお前は目の前のチャンスを自分から見逃してきてんだよ。大体さ、一人で老後はどうするんだよ」


「確かにそれは問題だよな。ただ、どう準備したらいいのか見当もつかん」


「そうだな。オレはゲイで集まって共同生活出来たらいいなって思ってる。そんな映画が確かあっただろ。オレとシュウジ、ユウキにソウイチロウくんで住もうぜ」


「それはちょっと楽しそうかも」


 僕は合いの手を打つ。


「流石、ユウキ。わかってる」


 お酒を飲みながら雑談をしていると時間はあっという間に過ぎていく。気が付いたら二十二時を回っていたので、お開きにした。お酒でテンションが上がったマコトを先頭にして、僕たちは駅へ向かう。人をかき分けて歩いていたら、マコトが僕の方に振り向いた。


「じゃあ、また予定が合う時にでも飲みか遊びに行こうぜ。前みたいにどこか旅行にも行きたいよな。ソウイチロウくんも一緒に」


「そうだね。聞いてみるよ」


「彼、ユウキが行くところだったらどこでもついて来るんじゃない?この前この集まりに来てくれた時だって、子犬みたいになついてたじゃん」


「そっかな」


 隣にいるシュウジを見たら、彼もうなずいている。


「ああ、ユウキのことが好きで仕方ないっていうのはよくわかった」


 そういえばあの時、ソウイチロウは僕にべったりだった。ゲイの友だちだけの集まりで個室だったから良かったけれども、時々TPOをわきまえて欲しい時がある。


 マコトは人混みを器用に避けながら、感慨深そうにつぶやいた。


「でも、意外だったよな。ユウキはもっと自分自身が甘えられる恋人が欲しいんだと思ってた」


「そうだね。でも、この歳になると相手から甘えられるのもいいもんだよ。それに僕たちより歳上で、恋人がいない人って個性的な人が多くて」


「うーん、確かにそれはあるかもな」


 マコトは顎を指でつまむ。


 そうこうしているうちに、僕たちは駅に着いた。改札の前で、マコトは僕たちを見渡す。


「じゃあ、今日はお開きだな。また連絡するよ」


 マコトの言葉を合図にシュウジは手を上げて「じゃあな」と言い、改札の方へ消えていった。シュウジを見送って二人だけになると、マコトは僕の方を見る。


「あれ、ユウキもJRじゃなかったっけ」


「今日はソウイチロウのところに行くことになってて」


 マコトはにやけ顔で僕の顔をのぞき込む。


「そっか。じゃあ、今夜はお楽しみってことか」


「どうだろう。最近はいつもする訳じゃないから」


「へぇ。付き合いが長くなるとそんなもんなの?」


「うーん。しても、最後までしないことはあるかなぁ」


「そうなんだ。でも、やらなくても一緒にいれるなんて'パートナー'って感じがしていいね」


 そこまで'すること'を重視しなくなったのは年齢のせいな気もする。だが、ソウイチロウとは身体のつながりがなくても心地いい。そう考えると、僕たちは家族みたいな関係に移行しつつあるのかもしれない。


「そうだねぇ」


「やっぱり今度はソウイチロウくんも一緒に飲みに行こうよ。じゃあ、オレもそろそろいかなくちゃ」


 マコトは地下鉄の駅の方へ身体を向ける。


「わかった。って、マコト。帰りは地下鉄だったっけ」


「えっ?オレもこの後、寄るところがあってさ」


 マコトは目を反らす。ははぁ。きっと約束があるんだろう。


「へぇ。じゃあ、楽しい夜を」


「ユウキもな」

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