手渡し不要のプレゼント 上
君の声が聞けたなら。
「高千穂、放課後!」
降りかかる頭上の重みと声にまぶたを薄く開けてみるが、どうも周囲が暗い。
今日は昼までのはずなんだけど、とうとう雪が降ったのか。
まあ、そんなことはどうでもいいや。眠いし。年末進行でここ最近あまり寝れていない。
終業式には出た気がするから、あとはもう寝とこう。
「これ以上は寝るなって! いい加減に起きて帰れー!」
両肩を前から掴まれて上下左右にと激しく揺すられ、すぐ近くをドサドサとなにかが落ちる音がする。
時間としては数秒ももたなかったのだが、相手が早々に息切れしてきたようなので眠い目をこじ開けた。
ぜえぜえと床に座り込む
寝ている間に渡されたらしいが、簡素なわら半紙をホチキスで止めた冊子は床で変な方向へ曲がってしまっている。
視界が暗かったのはこのせいか。
「ひとの上に乗せるべきではない」
「何時間もずっと気づかずに寝といてそれ、かっ…げほっごほっ」
打てば響くように反応を見せた花時丸がまた床にうずくまる。
気管に入ったのか激しく咳き込んだ。そのまま過呼吸しかねないほどに。
重病人のようであるが、基本的にいつもこの調子だ。放っておくと咳で複雑骨折しかねない。
花時丸は相変わらず脆弱である。
さらにいうならば骨と皮である。
身長だけなら平均を越えているのに体重というか、筋肉がなさすぎなのだ。
よく中庭でホースではなく
あと自宅に帰るために登る石段の途中でよく貧血で倒れている。朝からは小学生の挨拶に驚いてよく道路の溝にはまっている。
よくぞいままで大した怪我もなく生きているものだ。
「偏食するからじゃないの」
父いわく、健康はほどほどの運動と規則正しい食生活で大部分は改善されるそうだ。
動かないで無理やり食べずに痩せるより、動いてほどほどに食べるほうがどう考えても後者のほうがいいに決まっている。
いや、花時丸は痩せるのではなく逆に太ったほうがいいと思うけど。痩せるより太るのが難しい人間が世の中に一定数はいるのである。
ようやく咳の治まってきた花時丸に以前から疑問に思っていたことを聞いてみた。
「花時丸はヴィーガンなの」
「は? ビー玉?」
「ヴィーガン」
ヴィーガン。ビー玉ではない。
一様に菜食主義といっても健康のため以外に宗教や道徳からの観点から動物性食品を排する場合がある。むしろ世界的に見ると後者のほうが顕著かもしれない。
肉を排した菜食のみのタイプ、肉は食べないが卵や乳製品はとるタイプ、というように実は細かく分類されているのだ。
乳製品と卵は食べるラクト・オボ・ベジタリアン。
乳製品は食べるラクト・ベジタリアン。
鳥や魚介類などの違いは問わずに卵は食べるオボ・ベジタリアン。
「ヴィーガンは純粋な菜食主義者。完全な菜食主義者のことで乳製品や卵どころか蜂蜜などの動物由来の食品は一切口にしない。衣服や家具なども動物を殺傷して得られるから、革やシルクや真珠なども身につけないくらい徹底した人のこと」
ここまでいったらむしろ天晴れだと思う。なにがそこまで彼らを駆り立てるのか。
他にもにんにくやたまねぎといった球根を食べないオリエンタル・ベジタリアン、ピュア・ベジタリアン、ダイエタリー・ヴィーガンなどがある。
「ベジタリアンとは似たようなものでフルータリアンという果食主義者もいる。熟して地面に落ちた実しか食べないとか。収穫するのも植物自体を殺さずに木に実る果樹に限るものだけを。植物自体の生命に関わらない部分だけを食べる人のこと」
「いや別にそこまではないし、半分くらいする意味がわからないし、そもそもそこまで聞いてないし」
ぶつくさとそう言いつつ、花時丸は床に散らばった紙の埃を叩いて机に置いた。僕も手が届く範囲のものを拾い上げる。
そしてようやくまわりを見渡して、この教室には僕と花時丸以外には誰もいないということに気づいた。
換気のためか、僕を起こすためなのか開けられた窓の向こう側はなんだか白い。寒い。
天気予報では夜から雪が降るらしい。テレビでは
正確には
まあ、明日からは学校休みだし。ずっと家に籠もるから僕には関係ないことなのだけど。
黒板上に掛けられた時計の大針と細針は、いつの間にやらどちらも真ん中から右へと完全に傾いていた。
「一から説明しようか」
「いい。いらない。高千穂の話は長いから。それより、おれは、早く家に帰りたいの。わかる? あと、おれが肉を食べれないのはそういう崇高なのじゃなくって幼児の頃にうっかり鹿の捕殺現場を見たからで――」
「で」
途中で言い止めた花時丸は口を押さえてまた床に座り込んだ。眼鏡がずり落ちて固い音をたてる。
「…思い…出したら、気持ち悪くなった…なんか吐きそう」
弱。
仕方がないので他にも散らばっていた紙を鞄に詰めこむと、動けない花時丸を肩に担いで教室を施錠した。
鍵を職員室に返してから同じ棟にある保健室まで歩く。
このまま見なかったことにして帰ってもいいのだが、怨嗟の声が背後から聞こえてきそうだったのでやめておいた。
連休前だし、もしかしたら発見が遅れるかもしれないし。そうすると花時丸は翌朝に物言わぬ彫像になりかねない。
しかし保健室か。あれ、なんか忘れているような。
ドアを横へとスライドさせれば教室と違い暖房のよくきいた空気が吹き込んでくる。
据え置きのストーブの前に座っているのは定年間近の養護教諭ではなく小柄な生徒。
開閉音に気づいて手元のペンの動きを止めると、そのまま体ごとこちらへと向ける。
大きな白いマスクをつけたその顔には見覚えがあった。このまま回れ右で帰りたい。
「
「委員会の居残りですよ、とーるくん」
普段はつけたままにしているマスクを外してすんなりと蜂谷が答える。
それだけでこの部屋には他に誰もいないということがわかった。
いつもにこにこ似非くさい笑顔を浮かべている蜂谷は、有象無象の大多数の人間からは人当たりがいいと思われがちだが。
一定のラインでオンとオフを見せる相手を決めているらしく。マスクを外した今は完全にオフ状態である。
そのままパイプ椅子からすくりと立ち上がり、ゆっくりとこちらへ近づいてくるとボールペンのノックする部分で花時丸の頬をつついた。
「りーつーくん」
そしてすごくいい笑顔でこうのたまった。
「生きてますかーまたですかー。今度貧血で来たら生レバーを適温に戻して口に突っ込むって言いましたよね、ぼく」
「ひっ」
「うわあ」
やる。蜂谷はやると言ったら本当にやる。平然とやってのける。想像できる。
さらに血の気の引いた花時丸に歌うように聞いてきた。
「とりがいいですかー。うしがいいですかー。それともこ・ぶ・た?」
「最後死ぬんじゃないの!?」
豚レバーの生食は危険である。川魚を釣り上げてその場で刺身にして食べる以上に危険である。
厚生労働省が直々に注意しているくらいには本当に危険なのだ。
あと確実に花時丸だからE型肝炎ウイルスに感染する。そして劇症化する。
「レバーなんてどこにあるんだよ!」
「理科準備室に行けばすぐにでもー」
「それ、もしかしなくても実験用だ」
実験後は誰も理科室に寄りたがらない実験用の。熱を通したら最後の。
「そんなやつ食わされたらもれなく死ぬよね!?」
「さあーぼくには先のことはわかりかねますねー」
「さあ。多分それだと鳥だから大丈夫じゃないの」
よく噛んで食べれば。豚レバーよりはまだマシな気がする。
実験用なら冷凍して細胞が破壊されてるだろうから、寄生虫がいても食べれなくはないと思う。腹は壊すだろうけど。
あといい加減に重いから降りてほしい。それだけ話せたら一人で歩いて帰れるだろう。
「なんか食べる前提の会話をしてる!?」
「あれ、食べないんですか?」
「食べないの」
どうせだから鉄分とってから帰ればいいんだ。
実際、ここに来たのも鉄剤サプリかなにかもらいにきたんだし。
それが錠剤から加工前に変わっただけだと思って、僕は見なかった振りをしておこう。そうしよう。
「この二人食わす気マンマンだ!?」
「元気なら降りてよ重い」
言い終わる前に手が勝手に滑った。重力に従って落ちた。
頭から落ちて悶絶している花時丸をよそに、軽い足取りで蜂谷はドアへと向かう。
「では早速とってくるのでとーるくん、逃げないように律くんを縛っといてくださいねー」
「わかった」
頷いておこう。蜂谷に歯向かうと後々面倒なことになるし。
「協力しはじめた!?」
「と、言いたいところですがもうそろそろ施錠するので鉄剤と胃薬差し上げますからさっさと飲んでお帰りください正直邪魔です」
「優しいのかひどいのかわからなくなってきた…」
そう言うと思った。
明らかに蜂谷の言動、端から見てひどいと思うんだけど。いままでのは花時丸の反応を見て楽しんでいただけだ。
蜂谷の性格は外見では判断しようもないほどに見当違いの方向へとねじくれている。
厄介なのは本人もそれを自覚していることだ。それを治す気もなく、むしろ好んで使い分ける豪胆仕様。
性格としては真逆なのだが、あの誰にでも喧嘩を売る寿々宮と言語だけなら涼しい顔をして渡り合うのである。
どちらも口と外面の見せ方が上手いという共通点はあるけれど。
花時丸はいつまでも素直に反応を返すから。三年も一緒にいればわかるだろうに。一般人より体力ないのによくやる。
玖珂や僕も最低限従っていたほうがまだ被害は少なくて済むとわかっているから、よほどのことでない限りは条件を呑むし。
蜂谷と寿々宮の違いは感情の昂ぶりによって言動の行き先が左右されないというか、どこまでも計算して発言しているかどうかの違いだけだ。
要するにどちらもどっちの問題児である。できれば最低限、近づきたくはない。
「いま失礼なこと考えてましたね、とーるくん」
「………」
花時丸で遊んでいたと思ったら急にこちらを振り向いた。
声に出してはいないのに聞こえたような素振りである。
「世間的に見たらとーるくんのほうがよほど問題児ですよ?」
失敬な。
独特なにおいがする鉄剤を飲もうにもなかなか飲めずにいた花時丸を多少強引に飲ませたあと。
蜂谷にあれやこれやと言いくるめられて窓の施錠や荷物運びの手伝いをさせられた。
「なんかはめられた気分」
「友情って素晴らしいですねー」
外靴に履き替えて外に出れば、まだ昼の時間帯なのに吐く息が白くなる。
早く家に帰りたい。眠い寝たい。でもなにか忘れている気がする。
「人の為と書いて偽りと読む」
「やらぬ善よりやる偽善というじゃないですかー。この場合、結局は騙されたほうが負けなんです」
「後半!」
フラフラしているが一応ひとりで歩けている花時丸がツッコミを入れてくる。
体調悪いんだからスルーすればいいのに。
だけど不思議と風邪とか流行病にはかからないから、不思議と皆勤賞とっていたような。
そういえば、教室で見かけなくなってもう何日経ったんだっけ。
保健室から出る際にマスクをはめ直し、数歩後ろのほうで花時丸相手に遊んでいる蜂谷に聞いてみた。
こういうことには人一倍詳しそうだし。
「蜂谷。今年の風邪はひどいの」
「そうですねー最近は喉の痛みからはじまる熱風邪が流行ってます。喉の痛みより厄介なのは、熱がなかなかひかないことですね」
熱。風邪か。
そういえばここ数年風邪で寝込んだことあったっけ。
寝てれば多少だるくても次の日にはなんともなかったりするから、風邪をひいた時の感覚がよく思い出せない。
「インフルエンザもノロウイルスもかかると大変ですけど、風邪も個人の判断で下手こじらせるとなかなか治りませんし。それに受験生にもなると他人に移したら大変ですしね。一生恨まれたりして」
ああ、うん。なんか思いつめてそうだ。
ほどよく治っててもそのせいで来なさそう。
忘れてたのはこれだな。どうしているだろうか。
「とーるくんとーるくん」
どこか楽しげな目をした蜂谷がこちらをのぞきこんできた。なんか寿々宮とやることが似ている。
「お見舞いに行くんですか?」
「誰の」
「え」
蜂谷が急に立ち止まる。僕も立ち止まる。
楽しげだったその目は今はどこか不満げというか、変なものを見ているような目だった。
「予想外の返答に驚愕を隠せませんけど本気で言ってます?」
「ちょっおわ!」
蜂谷が急に止まったのでその後ろをよろよろと歩いていた花時丸が気づくのに遅れて止まりきれずにつんのめり、見事に側溝に落ちた。
側溝はカラカラに乾いてたから服が汚れたりはしなかったけど。
「あいたたた…」
「いてて…あああっ三太ー!!」
ボクらのすぐ近くを散歩中だった秋田犬が花時丸に驚いて走り出し。
その飼い主の老人はそのまま尻餅をついてうめき声をあげ。
「「「ぎゃああああ!!!」」」
さらに犬の逃げただろう方角からは複数の子供の叫び声が聞こえてきた。
なにこれ。ピタゴラ〇イッチかなにかか。見なかったことにして帰っていいだろうか。
「うわあ」
「とーるくんのせいですー。ばかー。ぬけさくー」
とんだ濡れ衣である。
犬探しと犬の捕獲に付き合わされて三十分。
怪我という怪我は捕獲の際に人懐っこい犬に花時丸が飛びつかれて電柱に頭をぶつけていたぐらいで、他には特に出ていない。
子供もどうやらはしゃいでいただけだし。だけど、いつもならその三十分もあれば家に帰りつけていた。
「こいつらと一緒にいると何故か死にそう…」
「だそうです。律くんが途中でのたれ死にかねないので、ぼくは家までついていきます」
「あとはここの階段登るだけなのに」
花時丸だから、ありえないのにありえないと言いきれない。
見上げた急勾配の石段の先、木の枝に隠れた鳥居の向こうにようやく花時丸の家がある。
年始に特に忙しくなるだろう職の息子だろうに、この調子で大丈夫なのだろうか。
「なのでとーるくんにはぼくのかわりにやってほしいことがあります」
こちらに背を向けて吐き気を押さえ込んでるらしい花時丸の背をさすりながら、蜂谷が空いた方で小手招いてきた。笑顔で。
「なに」
いやな予感がする。
ここから右に曲がって小道を抜ければ僕の家なんだけど。
「今日中に。できるならいまからおねがいします」
蜂谷は鞄からなにやら厳重に包装されたものを取り出すとこちらに渡してきた。
片手に収まる正方形の包みは見た目より固くて重い。生ものではないだろうな。
「ぼくのかわりに雅虎くんにこれ、渡しといてください」
「いやだ」
押し返そうとしたが、その前に相手はうずくまる花時丸のうしろにまわりこんだ。わあ、卑怯者。
玖珂の家は僕の家からだと真逆の大通りに出ないと行けないし、いまさら面倒だ。
というか、蜂谷。これを狙ってたのだろうか。ここからだと遠回りになるから。わあ、最悪だ。
しかし悪びれた様子もなく、蜂谷はさらに言い放った。
「ひどい人ですねー健気で謙虚で心優しい友人の頼みもきいてくれないなんて」
「そんな健気で謙虚で心優しい人間は僕の周りにはいない」
少なくとも、いま目の前にいるのは強かな羊の皮を被ったなにかである。
そしてその羊もどきがこれくらいのことで引くような性格でないことは言う前からわかっていた。
ただ、なんというか。腹が立つ。
「戯れ言なのでさらっと受け流してくださいよ。では良いお年をお迎えくださいごきげんよう。ほら息絶える前にさくさく登ってくださいよ律くん」
「さっきから黙って聞いてれば人をのたれ死ぬだの息絶えるだの…」
「下手なこと言うと不慮の事故死に見せかけますよ」
「うわあ」
押し切られた。
一度家に帰ろうかと考えたが、今日は仕事明けの親が自宅の方にいるはずなのを思い出してやめた。
確実に酒の入った親が変に絡んでくる。対処は兄に丸投げしとこう。そうしよう。
年末年始は印刷所などが総じて閉まってしまうので、どうしてもあの手の仕事はその余波を喰らう。
いわゆる年末進行。締切がいつもより一週間も早いのである。
そのぶんのしわ寄せはもちろん僕にも降りかかった。よく考えたら世間でいう受験生なんだけど、僕。
まあ、なんとか出せたみたい。わかってるのならその前に対策立てとけばいいのに。
毎年のことだから、この一週間は放課後の勉強を見られるか前々から怪しいと思っていた。
けど。その前にいいんちょが風邪で学校に来なくなった。
もうかれこれ一週間。
教卓の前の席が、いつ見ても空っぽ。黒い頭が見えないとなんか変な気分。
朝来ても、日直が気づくまで消されない黒板に残る誰かのラクガキ。
今日くらいは来るかもしれないとなんとなく考えて、この一週間分の問題用紙と休みに解く用の問題ノートは鞄に入れてきたけど。
一度も出さないまま、今に至る。
そういえば連絡網とか誰が持って行くんだろうか。いいんちょの住所なんか知らないし。
どうしたものかな、これ。なかったことにしようかな。
一月になったらさすがに来るだろうけど、この分をその時に渡してもいいんちょの処理速度考えるとちょっと重いかも。
これを一度に渡すと休んだ分を取り戻そうとして夜に徹夜しかねない。
毎日、できる分だけしかさせてないから休み明けにペース配分を組立直さないと。
まあいいんちょだから、休みだとしてもなんだかんだ予習復習はしてるだろうし。
考えながら歩いていたら、想像していたより早くついた。目立つからまず間違わないのが玖珂の家である。
店が立ち並ぶ大通りの端に突如として現れる二メートル以上ある頑丈そうな白い壁。
それが延々と視界の先まで続いているので観光客には寺と間違われることもあるようだけど、やってることはそう変わらないような。
中にはいくつかの武道場やら弓道場があるから壁が低いと問題があるのだ。
仕事場と家が敷地内にあるというのは僕のとこと一緒だけど。
「よう、絵描きんとこの次男坊じゃないか」
玉砂利を踏みながら進んでいると、笹の茂みの向こうから箒で掃く音と声が聞こえた。
こちらからは見えないが声は知っている。玖珂の父より玖珂に似ている玖珂の祖父さん。
「こんにちは。玖珂いますか」
「今日は母屋のほうにいんじゃねえかな。なんだ、組手か」
「いや。ただの厚かましい人間の使いっぱしり」
「なんだい、来たならしてけや。つまらん」
珍しい。変なの。
自室の離れ座敷のほうじゃなくて母屋にいるのか。なら、もうそこの縁側からあがってもいいだろうか。
玖珂のおばさんに見つかると晩ごはんを食べるまで引き止められかねない。強引すぎて帰られない。
「縁側からいいですか」
「いいけどなあ、確か今日はなあ」
靴を脱いで、雨戸とガラス戸が開け放たれている縁側に上がり込む。
春だったなら昼寝できるくらいの暖かな場所なんだけど。
伸ばした手が届くより前に、向こう側から勢いよく音を立てて襖が開かれた。
「すずめの嬢ちゃんも来てんぞー」
付け足すように言われても。しかもいま。
チュンチュンうるさい小さな鳥の嬢ちゃんとはおそらく目の前のこれである。
背中から吹き抜ける冷めた強い風が、癖のある長い髪を揺らした。
「…あーっ!? あん」
スパン。
見なかったことにして襖を閉める。あと木枠を手で押さえる。
なんかガタガタ音がするが気のせいである。風が強いせいだ、たぶん。
そうだ、本人に必ずしも渡さなければいけないとは言われてない。
玖珂の祖父さんに渡して何事もなかったことにして帰ろう。寝て忘れよう。
「勝手に閉めんじゃないわよこのうすらとんかちー!」
スパーンッと今度はこの隣の部屋の襖を開いて寿々宮が現れる。しつこいなあ、もう。
なんでそういつもけたたましいのだろうか。
野生動物でも、もう少し警戒して出てくる。
ずかずかとこちらに来る獰猛なすずめは不機嫌を隠そうともしていない。
「なんでここにいるのよ!」
「こっちの台詞なんだけど」
格好は制服のまま。しかし眼鏡は外しててもこっちを正しく見えているようだ。
ということはコンタクトをはめているはずなので、一度家には帰っているのではないだろうか。
寿々宮は学校ではコンタクトを持ち歩いていないはずである。
ふん、と腕組みした寿々宮は仁王立ちして言った。
「避難よ、ひーなーん。我が家に帰ったらこの寒さで水道管が破裂して床上浸水してたのよ! 玄関開けたらビッグウェーブが来たわ! このクリスマスイブに!」
「悲愴感がまったく感じられないけど」
胸張って言うことではない。弱々しさを花時丸からわけてもらいに行けばいいのに。
この寒さに水道工事をさせられる人間が気の毒である。あと、クリスマスイブは関係がない。
ちなみにこの手の災害に寿々宮は巻き込まれがちではあるのでいまさら驚けないし。
「憐れみなさいよ! このかわいそうなわたしを!」
「自分からそう言われると微妙」
普通、かわいそうな境遇の人間は自分から「憐れめ」宣言はしない。
ここまで堂々していると、むしろどこがと言いたくなる。
「普通、女友達の方を頼るんじゃないの」
「七緒はことがわかる前に帰省しちゃったし、しずるはここ一週間風邪で休んでる」
ああ、こっちも風邪か。
しかし寿々宮の目はどこか遠くを見て言い加えた。
「らしいけど、ね。どうも休んだ日が前から言ってた新作ゲームの販売時期とかぶるのよね…」
「不真面目だ」
「授業中ずっと寝てるあんたに言われると無性に殴りたくなるわ」
いいんちょを見習えとは言わないが、わざわざ学校を休まなくても徹夜するなりして済ませばいいのに。
まともな人間がまわりにいない。せめて普通な感性をもつ人間くらいはいないものか。
こう、出会い頭に喧嘩を売りつけないと気が済まないような人間ではなく。
「あんたはなにしに来たのよ」
「寿々宮に言う筋合いがない」
なんか、素直に言い返すのが癪である。同系統の人間にさんざん振り回されたからだろうか。
しかし、こういう場合はさっくり返すべきだった。
「なんですって!? 言わせときながらそっちは言わないってどういう理屈よ!」
マフラーの端を下へと体重をかけて引っ張られる。締まる締まる。
しかしこちらがギブアップする前に、僕が閉め直した襖が再び勢いよく開いた。
「人んちの庭先でさっきからピーチクうるせーんだよ小すずめが!」
「誰がすずめですって!?」
一瞬力がゆるんだ隙にマフラーの結び目を解いて首から抜く。
あー苦しかった。人の家で殺されるところだった。
この中ではひとりだけ普段着の玖珂が僕を見て「うわあ」という表情になるが、こちらも寿々宮のせいで同じ表情をしていると思う。
「玖珂」
「なんでおまえまでいるんだよめんどくせえ」
「離しなさいよこの怪力馬鹿!」
寿々宮の顔を正面から鷲掴みにした玖珂は、もう片方の手で器用に茶菓子の乗った盆を器用にも水平に保っていた。
「渡せって言われたから」
鞄に仕舞わずに手に持ったままだったものを盆と交換して渡す。
「なんだこれ」
「知らない。蜂谷から」
中身まではわからない。
受け取ったはいいものの、名前を聞いて露骨に嫌な顔をして玖珂が言う。
「変なの持ってくんじゃねえ」
そんなことを僕に言われても。
あといいかげんに室内に入っていいだろうか。
「離しなさいったらー!」
「ちったあ黙って茶でも飲んでろ」
「僕ものど乾いた」
「部屋に空の急須と湯のみが棚にあるから自分で注げ」
あごで中に入るように指図されたので勝手に入ることにした。
こじんまりとした和室の客室の真ん中にはこたつ。あと、カゴにいくつかのみかん。
廊下へと続く戸の近くにはストーブが置いてあり、その上に沸騰したヤカンが。
電気ポットが見当たらないからこれを使えということだろうか。
「煎茶なら九十五度から八十度。玉露なら五十度から六十度。ほうじ」
「うるせえ! 注文多いんだよおまえ。好きに冷ませや!」
「わたしたちの分も淹れなさいよね」
淹れるのか。僕が。
振り返ればなにごともなかったかのようにこたつに入ってみかん剥きはじめているし。
玖珂はその横でそれにはなにも突っ込まずに包装紙を剥きはじめてるし。
客相手にどういうつもりなのだろうか。同じ客はこの通りなのに。
まあ、いいか。寿々宮にまかせるよりは。
人数分の湯のみと湯冷まし用の容器と急須、玉露らしい茶葉を棚から取り出すとこの手のが好きな兄の手順を思い出して淹れる。
兄は趣味が高じて個人で調べるのを途中から越えて、中学に入る前にはどこかの専門の喫茶店で手ほどきを受けに行ったりしていた。
どこか兄は家事に対しては並々ならぬなにかをもっている。将来は家政夫にでもなる気だろうか。
「まだー?」
「まだ」
玉露は低温でじっくり浸出させなくてはいけない。大体二分ちょいくらい。
二煎目はそこそこ温度が高くて時間も短くてもいいけど。
「なんだこれ」
「あらやだ。スノードームじゃない」
破ればいいのに、どうも玖珂はちまちまとセロハンテープを剥がしていたらしい。
ころりと手のひらに転がるのは水晶のように丸い球体。中は水で満たされ、細かなミニチュア揺れるたびに雪が降っているように見える代物。
高いのは高く、好んで世界中でもコレクションされる。
「世界的にはスノーグローブだと思」
「細かいわね! 日本ではそれで通じるんでしょ!」
よし、二分三十秒。もういいかな。
しかしなんで蜂谷もそんなものを渡したんだか。
「てか、オレの誕生日は今日じゃねえぞ」
「明後日よね。クリスマスでもイブでもなく。でもプレゼントは一緒くたにされるという餅つきには最適な日。なんかあんた惜しいのよね全体的に。こう、存在が」
「うるせえ! 存在が惜しいってなんだよ惜しいって!」
「なによ褒めたじゃないの餅つきには最適な日だって!」
「どっちもうるさい」
あとそれは褒めたうちに入らない。
九がつこうが四がつこうが、工場製の餅ならこの時期は休まずに餅をついているだろう。
「だー! もうおまえと話してるとストレス溜まる! おいトオル。どうせこのあと暇だろ。組み手付き合え」
「いやだ」
もう家に帰らなくていいからここで寝る。こたつと同化する。
「どうせ明日から寝放題じゃない。プレゼントのつもりだと思ってやってあげなさいよ。あんたの家にはわたしから電話かけといてやるわ。もしもしー?」
ちょっと。なんでこんな時だけ協力をするかな。勝手なことを。
こたつに潜ろうとしたら、玖珂に後ろから衿を引っ張られた。
「おら、こい」
なんだろうか、今日は。
とんだ厄日だ。
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