甘くないケーキを君たちへ
あぁ、羨ましいなぁ。
「
いまどき珍しく、校則に合わせた制服と髪型の少女をインターホンで確認して玄関のロックを開けた。
「おじゃまします」
「どうぞって、わ。外もう雪降ってた?」
今年の冬は何の影響か寒波がひどい。
普段、雪の積もらない地域のはずなのにこの有り様。
「一応、落としてきたんですけど。気になりますか?」
「そのままじゃ風邪引いちゃうよ」
風呂場からバスタオルを持ってきて、少女を頭から包みこむ。
この時期に風邪なんか引いたら大変だ。ただでさえ受験生なのだから、身体を壊すなど許されない。
「ありがとうございます」
深々とお礼。
あぁ、いい子だなぁ。どういう育て方すればこんないい子になるんだろう。
そういえば。
「あれ、ひとり?」
「高千穂くんは教頭先生に呼ばれてしまって。時間かかりそうだから先に行っててほしいって」
なにやったんだろう、あいつ。
俺の弟は変人である。
長年、兄をしてきた俺が言うんだから間違いない。
自分は割となんでも出来ると自負しているが、弟はそれの遥か先をいく。
身体は恵まれていて長身の部類だし、運動神経もいい。
勉学は一度目を通したら忘れない、万能スキルで成績上位者。
顔もまぁ、整っている。
俺のように女と間違えられない、男寄りの中性的な顔立ち。服装に気を使えば、モデルくらいできるかもしれない。
これだけあると敵愾心を抱くかなにかしそうだが、俺はそうはならなかった。
弟は興味があるもの以外に目も向けなかったから。
おそらくそれは、家の環境と育て方に問題があったせいだ。
俺たちの親は両方とも漫画家だ。
片や人気少年誌の看板漫画家の母。
片や創刊しているのかわからない閑古鳥の鳴く父。
かなり特殊な環境だったと思う。思うのだが、俺はそれでも普通に育った。普通に幼稚園に通ったし、小学校で遊んだし、中学校で恋したし、高校は現在進行中で学んだりストーカーされたり。
…ストーカーはおいておこう。そっとしておいてくれ。
親の手伝いで小さい頃から色々したが、それでも子供の手伝い。
ゴミ捨てしたり、ご飯作ったり。洗濯機回したり。
家事は好きだ。巡りめぐって特技になった。
しかし、弟は違った。
弟は人を真似るのが上手かった。言語を理解するのが早かったともいえる。
ある日、幼稚園から帰った俺が見たのは小さなイスに座り、親の原稿用紙に消しゴムをかける姿だった。
三才児になにさせてるんだ。
そう思ったが、どうやら自主的にはじめたようだった。
親や周りを真似て覚えたらしい。
それからは周囲が驚くスピードで上達した。
小学校を卒業したあたりでは、他のアシスタントと並んで作業をこなしていた。もう、今ではプロアシといって差し支えない。
母の担当でさえ太鼓判を押す。というより次世代漫画家を密かに狙っているな、あれ。
弟は絵にしか興味を向かせなかった。その溢れ出る才能をすべて絵に注いだ。そして周囲も誰も止めない、いや止められなかった。
人間関係は無難にこなしていると思う。いわゆるコミュニケーション障害とかではない。面倒だから省く。それだけ。
天才といえばそうなのだが、兄の自分から言わせればこれだ。
(絵描き馬鹿)
それが俺の弟の純然たる評価である。
この間までは。
ちょうどいい頃合いだ。
この日は毎年色々と考えさせられるが、今年はガトーショコラ。
あったかいのに生クリームを添えていただくのがちょうどいい。
「天鞠ちゃん、ハッピーバレンタイン!」
「わぁ…!」
いい驚き顔。反応が素直で可愛いなぁ。
親とか弟は慣れてておざなりなんだよな、こういうの。
「ありがとうございます。あ、今日バレンタイン! わ、忘れてました…」
「受験生だもん、それが正解。がんばる頭にブドウ糖あげないとね」
何も準備していないと焦る少女にコーヒーを渡す。
計算されてないドジッ娘っていいよね。癒されるわ。
「でも私ひとりいただく訳には」
「俺と親のはとってあるんだ、夕飯後に食べるから」
「あれ、高千穂くんは」
「あいつ甘いのダメなんだよね」
嫌いなわけではないんだけどね。チョコはむねやけするとかなんとか。
〆切修羅場に食べる暇もなくなると角砂糖摂取するやつなんだよ、あいつ。
「え、ダメなんですか」
見るからにうろたえる少女に俺は首を傾げる。
「もしかしてあいつになにか準備してた? 天鞠ちゃんからのだったら食べるよ、たぶん」
「いえ、何にも考えてなかったんですけど、その…。毎日こうして勉強見てもらってるのに、私お礼してなくって…」
せめてお菓子とか渡せたらな、と思ったんですけど。
ああ、そういうことか。
本当に真面目な子だなぁ。
あの人間関係がわずらわしくて適当にいなしている弟が、ここまで構っている娘。
はじめて家に来た時は白昼夢でも見たのかと思った。
弟の言葉が信じられなくなって直に見に行ったからね、あの日。
俺の挙動不審に気づいた親も、一緒についてきて大変なことになったんだよなぁ、あの後。
この子もひどく狼狽してしまって悪いことをした。
でもその隙に勉強見る約束取りつけてるあたり、弟抜け目ない。
勉強の見返りかぁ。
あいつなら。
「笑ってあげて。あいつのために、笑ってあげて」
それだけで、弟は喜ぶだろう。
「なにしてんの」
キャッキャッウフフをしていたら殊の外、時間が過ぎていたらしい。
頭や肩に雪を乗っけたまま弟が居間に入ってきた。
「ちょ、払ってから入ってきなさい!」
「わわわ風邪引いちゃうよ高千穂くん」
存分に暖められた部屋で、雪が即座に溶けて水になる。
少女は自分の横に置いていたバスタオルを弟の頭に被せると、勢いよく拭く。
この時、身長差で爪先立ちになっている。萌え。
「いいんちょ、痛い」
「ごごごめんなさい」
それくらい我慢しろよ。
出かかったがお口にチャック。
あれは空気読めないから仕方がない。
今度女の子にはどう接するべきか、ちゃんと指導しないと。
「着替えてくる」
「そうしなさい」
むしろ着替えてからここに来い。
脱力してソファに座ると、なにか言いたげな視線をこちらに向けている。
なんだ。
「いいんちょの名前、てまりって言うの?」
いま言うか。
いま言うか。
大事なことなのでもう一回言うが。
いま言うか。
弟、同じクラスになってどれだけ経つ?
何ヵ月、家に呼んで勉強見てた?
おまえ、この子が好きなんじゃなかったのかよ。
「あ、みんな『いいんちょ』って呼ぶもんね」
いいんだ。
さらりと受け流しちゃうんだ、君も。
「私、山と石の岩と戸棚の戸で岩戸、天国の天に鞠つきの鞠で『岩戸天鞠』っていう名前なの」
「はじめて知ったかも」
いま言うか。
本当に脱力してソファに沈む。
しかし、追撃が待っていた。
「あの、私もちょっと聞きたいことがあって」
「なに?」
「あの…高千穂くんの…下の名前の漢字の読み方…わからなくって…」
ブルータスよ、おまえもか。
お似合いだよ、君たちふたり。
とってもいま、そう思ったよ。
「あー
「いや、名前の読み方とかいまさら聞くに聞けなくって。いま聞けてよかった」
うん、そうだね。
親しくなってからは特に聞くに聞けないよね。君の言い分はよくわかる。
問題はおまえだ弟。
好きな相手の名前くらい知っておけ。
弟が自分の部屋に行ったあと、ソファでぐったりしていた俺におろおろと少女が話しかけた。
「お兄さん、大丈夫ですか?」
「うん、精神力が削れただけ…」
面倒だけど、あいつが戻ってくる前にコーヒーを淹れてやろう。
あれ、いない。
ついでに自分の飲むコーヒーを淹れ直して居間に向かうと、弟はおろか少女もいなかった。
もしや部屋に連れ込んで…。
いやいやあいつに限ってそれはない。
いやでもあれでも健全な中学生男子。
好きな娘いたら、こうはっちゃけた日なら羽目外して―。
止めよう。
兄として止めよう。
別に彼女がいないから嫉妬してるわけじゃない。ないったらない。
どうして彼女ができないの。
そんなの俺が聞きたいわ。
弟に先越されるとか。しかもあんな弟に。
部屋のドアは少しだけ、開いていた。
こっそりのぞいてみる。
「わ、私なんも準備してなくって! お兄さんにもチョコもらったんだけど忘れてて!」
よかった、服着てた。
そうじゃないだろ、俺。
なにに、安心してるんだ。
部屋着のスウェット姿になった弟は、少女に何か渡していた。
小さめの、スケッチブック。
「いいの。ベトナムでは男性が女性に尽くす日なんだよ」
「ベトナム…」
ベトナムっておまえ。
なんなのその知識。どこから仕入れてきたの。
俺が脱力して壁に寄りかかると、弟は少女の手にスケッチブックを握らせた。
「僕の絵、好きでしょ。あげる」
「い、いいの?」
「ラクガキだけど、それでいいなら」
嘘つけ。
そのスケッチブック見覚えあるぞ。
最近、珍しく隠れて何か描いてると思ってたが、それだな。
素直じゃないやつ。
言ってしまえばいいのに。
はがゆいなぁ、見てるだけってのは。
「あ、あの」
小さなスケッチブックを大事そうに両手で胸に抱くと、意を決したように少女は言った。
「ありがとう…!」
見惚れた。
嘘じゃない。
まるでそれは、なんと形容しようか。できようか。
大事に育てた花が、ぱっと咲いたよう。
心が暖かくなる、そんな笑顔。
少女の正面、ベッドに腰かける弟は固まっていた。
そして。
「どういたしまして」
俺がいままで見たことのない、満面の笑みで反していた。
ぱたり。と静かにドアを閉じる。
見てはいけないものを見てしまったような。
いや、見てよかった。
彼らには、彼らなりの距離がある。
端から見ただけではわからない、なにか。
それは、他人では触れることすらできないほどの。
冷えてしまったコーヒーを淹れ直して、今度こそふたりを呼びに行くとしよう。
あぁ、羨ましいなぁ。
垣間見た、偽りのない世界。
いつか、自分にも訪れるだろうか。
弟の恋が成就した、その暁には。
普段出さない紅茶などを淹れて。
甘くないケーキでも焼いて、ふたりで食べてもらおう。
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