「私」は何も知らない

 さぁ、どうしようか。


 目の前に広がる無数の選択肢。

 どれを選ぼうが阻まれ、先に進めない気がしてためらってしまう。

 ここでひっくり返されたら、後はない。


(決めなければ)


 私はひとつの可能性に手を伸ばした。


 しかし、現実は無情だ。

 向かいに座る彼の口の端が小さく上がった。


「残念でした」


 あんなに手を尽くしたのに。白に、いや黒にするつもりか。


「あああああ」


 一面が黒に変わる。

 私の白の石はほとんど残らない。


「角じゃなくて真ん中狙えばよかったのに」


 そんな冒険、できますか。

 もはや覆せない戦況に頭を抱えたとき、居間のドアが大きく開いた。


「…なにやってるの受験生」


 見知った顔に私と彼、高千穂くんは声を合わせて答えた。


「「オセロ」です」


 見ればわかるだろう、私たちの前に広がるものが。

 淡緑色の盤面に白い罫線、ほとんど黒(高千穂くん)に侵食された白(私)のオセロが。

 最初は私のほうが多かったのに、いつもこうなってしまう。もう何度目だろうか。

 私は、彼に勝てたことがない。


「二人共…本命は明日でしょ?」


 そりゃ見ればわかるけどさ、やってることはねーと言いながら、高千穂くんのお兄さんは空いているソファの背もたれにひじをついた。


 そうなのだ。

 私たちは高校受験を控えている。明日。

 それも大本命。

 高千穂くんに至っては一本狙い。これを落としたら高校浪人か、私立の再三募集を探すしかない。

 いや、彼が落ちることはまず九割九分五厘ないのだろうが。


「あまり根をつめて、いつものペース崩すとダメらしくって」


「うん。つめるだけつめれたし。後は体調管理気をつけるしかないよね」


 この場合、詰め込んだのは私の頭に、である。


 どういう巡り合わせか、高千穂くん宅で毎日放課後に勉強を見てもらって数ヶ月。

 頭がよくなったというより、すっきり考えられるようになった気がする。

 高千穂くん曰く私は「努力の方向音痴」らしい。

 何気にひどくないだろうか、それ。

 彼と頻繁に話すようになってわかってきたのたが、彼は着眼点が鋭い。

 そして歯に布着せない。

 言い訳もしないから、あまりに聞いていて清々しい。

 見かけはもっと、眠り王子の名を冠するままにおっとりしてそうなのだが。


「それにしてもおまえ、容赦ないね。ほとんど黒じゃないか」


「してるよ。いいんちょ、いつも後発でしょ」


 聞き捨てならないことを聞いた。


「え、先にはじめたほうが有利じゃないの?」


 いつも先発は高千穂くん、後発が私。

 私、もしかしておもいっきり手加減されてたのかな。


「オセロは二人零和有限確定完全情報ゲームに分類されててね、理論上はどっちも最善手を打てば後手が必ず勝つって証明されてる」


「ふたりぜろわゆうげんかくていかんぜんじょうほうげーむ…」


 なんか、魔法が使えそうな呪文が出てきた。

 高千穂くんって、たまに、こういうところがあるんだよね。

 比喩だったり難しい語句だったり。

 凡人がわかるような説明をしてください。


「ゲーム理論って知ってる?『相互作用を及ぼしあう複数、又は単独の主体の振る舞い』に関して研究する応用数学の一分野なんだけど」


 ますますわからん。

 私、悪くないよね。

 わからなくっても、仕方がないよね。

 助けを求めてソファに座り直した高千穂くんのお兄さんを見ると、苦笑して頷いた。

 言葉を紡がずに、くちびるだけ動く。


『スルーして』


『そうします』


 なんでだろう、高千穂くんのお兄さんとは意思の疎通は上手くいくのに。

 高千穂くんは知れば知るほどわからなくなっていくというか、泥沼にはまっていくというか。

 なんだろう、マトリョーシカのような。中身ドコーみたいな。


天鞠てまりちゃんは滑り止め受かってたよね」


 話題転換、ありがたい。

 私はその話に乗ることにした。


「はい、まぁ、一応」


 受けてはいる。

 受かってもいる。

 しかし、どう言おうか。

 私は明日の本命を受ける前に私立の特待生枠の試験を受けて、無事内定をもらっている。

 万が一、落ちても大丈夫なように。命綱って大事だよね。

 しかし。


「リスニングが、すごいゆっくりで逆に聞き取りにくかったです…」


「あぁ、あの噂は本当だったんだ…」


 そうなのだ。

 私の受けた私立の女子高は、なんというか、イロイロ(偏差値が)面白いことになっていて。

 クラスによっては特別進学コースもあるから、高低がすごいことになっていた。

 主にテストの内容が。


「満点とれた確信があります」


「いいんちょが言いきるってどれだけひどいの」


 聞かないで。

 思い出すだけで気力が減ってしまうから。

 ちらりと視線を向けた窓の外は、藍とオレンジが混ざりあって夕焼け特有の色合いになっている。

 暗くなる前に、帰らなきゃ。


「そろそろ帰るね」


「うん。よく寝なよ」


 そう言う高千穂くんは、もうすでに寝そうだよね、服装的にも雰囲気的にも。

 さすがに、私は復習してから寝るけど。


「俺、コンビニ行きたいから途中まで一緒に行っていい?」


 マフラーを巻いていると、お兄さんが聞いてきた。そういえば、まだコートを脱いでいなかった。


「構いませんよ」


「家に帰る前に行けばよかったのに」


 そう言えばそうだけど。

 忘れる時もあるだろう、お兄さんだって。

 高千穂くんは「あとで教育的指導するからおぼえとけ」とお兄さんにヘッドロックをかけられていた。

 二人とも仲良いなぁ。


 良い出来だ。

 見直しもばっちりした。

 高千穂くんは私に勉強を教えるにあたって最初に言ったのは、とにかくケアレスミスを減らすこと、だった。

 基本はできても応用がきかない、テストも全問解けるだけ解いていく私に、待ったをかけた。

 確実に点をとるなら、切り捨てるものを選ぶこと。

 ぱっとでいいから全体に目を通して、解けるところから崩していけばいい。

 この時、解答欄がズレないように。

 最後、時間が余ったら確かめ算なり見直しを必ずやること。

 実際、これだけで期末のテストの成績が上がった。

 あとはわからないところを徹底的に教えてもらった。

 私は塾に通ったことがないので、本当に頼りになった。


(高千穂くんにお礼しないと)


 甘いのは苦手なら、何をあげようか。

 そんなことを考えていると、最後の試験終了の鐘が鳴り響いた。回答用紙と問題用紙が個別に集められていく。

 やっと終わった。

 達成感より脱力感のほうが強い。

 結果は一週間後、この高校の中庭に貼り出される予定だ。

 ざわつく室内で、ペンケースを廊下に置いていた鞄から取り出し、筆記具を片づける。

 私の通う中学校からほど近いこの高校を受験する人間は結構多い。

 高千穂くんとは違う教室になってしまったようだが、まだ時間的に帰っていないだろう。

 聞いてみようか、なにかほしいものがないか。

 隣の教室をのぞいたが、いないようだった。

 別校舎にいるのかもしれない。

 ここでむやみに探すより、校門で待ち伏せしよう。

 私は足早に彼が通るだろう正門を目指して歩き出した。


 なんて、鮮やかな。

 それが私の素直な感情だった。

 向かった正門にもたれかかるのは、モデルのように長身で細い女性。

 細いだけでなく、女性の象徴は豊かにそのぴったりとした服に強調されている。

 しかし、不思議と下品には見えない。

 品良く携帯機器を操作する動作に、つい見惚れる。

 なにより、目を引くのは風になびく肩で切り揃えられた赤い髪。

 漫画かアニメでしか見られないようなその色が、見目良い彼女にはとてもよく似合っていた。

 私だけでなく、他の人間も遠目にチラチラと見ているのがわかる。

 誰かの保護者か。

 新入生向けのビラ配り業者には見えないけど、派手なお迎えが来たものだ。

 観察するように眺めていると、その切れ長の瞳と目があった。

 視線をすぐ地面に向ける。

 悪い癖が出てしまった。

 私は知り合いならまだしも、知らない人と堂々と顔合わせることができない。

 しかし、彼女は私を見ていたわけではなかった。


とおる!」


 私の、少しだけ後方にいた眠そうな目をした少年が顔を上げた。

 まさに今出てきたのだろう。臨時の下駄箱付近の入口にいた彼に、大きく手を振りながら近づいていく。

 私の横を、通りすぎていく。


「久しぶり!」


 女性にしてはハスキーな、でも聞き取りやすい声。

 相対した彼は、高千穂くんは少し、驚いたように呟いた。


「なんで、いるの。カグラ」


 その言葉に、彼女が笑む。


「あんたに会うために決まってるだろ?」


 ああ、なんだろうか。


 なにかが、軋んだ、音がした。

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