第14話

本庁のデスクで結子は資料をまとめる作業に追われていた。小野さんから話を聞いて、この数日他にも数人に話を聞きにいく事に時間を費やし、資料は後回しにしてしまっていた。

時間を使って会いに行ってみたが、向井と深い関係になっている恋人はおろか友人さえ見つける事は出来ずに悪戯に時間を浪費してしまった。人というのは他の誰かと関りをもって生きている。向井も普通の人生を歩んでいるのに、誰かに心を開こうとはしていない。誰かと深くかかわる事を極端に避けて生きている、そんな印象を結子は抱いた。

木下玲香の事は徹底的に調べたが、変わった所はどこにもない。むしろ、裕福な家庭で何不自由なく生活し、両親に愛されて育ったのだろうという事が分かる。調べればピアノの実力も全国のコンクールで優勝する程だそうだ。彼女が音楽の世界で生きるつもりなのかは知らないが、そうしなかったとしても学業面でも彼女は優秀だ。

「恋人同士ってなんだか同じ雰囲気になるって言うでしょう」

結子は小野さんの言葉を思い出した。結子にはこの二人が同じ雰囲気だとは思えない。

むしろ、陰と陽だ。この二人を引き合わせたものは一体何なのだろう。

デスクワークをこなす手が、頭の中を整理する作業に圧され始めた頃、黄田が慌てて帰ってきて周囲を見渡して結子を見つけると走ってこちらに向かって来た。

「主任!ちょっといいですか」

「なぁに、そんなに慌てて。なにかあった?」

「なにかあったなんてもんじゃないですよ!」

そう言って黄田は周囲を見て、結子に近付き小さな声で耳打ちした。

「殺害された岸本佐和は、岸本佐和じゃありませんでした」

黄田の言ってる意味が分からず結子はしばらく宙を見て考えた。

「ごめん、どういう意味?」

「岸本佐和を色々調べていたら、急に消息が分からなくなっていたんです。その後急に住民票の異動届や銀行口座開設等で世間に姿を現してしばらくすると岸本徹と結婚していました。」

「それって、もしかして」

結子が言いかけると黄田が大きく頷いた。

「それです。岸本佐和の本当の名前は東村冬美。莫大な借金をして追われていたようです。戸籍は水商売をしている時、贔屓にしていた客の紹介で買ったようです」

「でも、どうして分かったの?」

「それが、ずいぶん前に岸本佐和が、あ、いや、ややこしいですね。東村が近所に住む吉田さんと話している時に、不意に方言が出たそうです。その方言が名古屋の方言だったみたいで、吉田さんも名古屋の出身だから、すぐにそれだと気づいて名古屋出身なのかと聞いたらものすごく機嫌が悪くなった、と言ってたんです。そういう姿は初めて見たからよく覚えていたみたいですね。そこから吉田さんの出身地から探ってみたら、当たりでした。東村が働いていたスナックがまだあったんです。そこのママからすでに裏取りは済んでます。これはまた捜査がひっくり返りますね。」

黄田が嬉しそうに笑った。確かにその通りなのだが、一体この事件はどこに向かうのだろう、と結子は途方もない気持ちになった。何一つとして事件解決には向かっていないのに、あちこちに寄り道ばかりしている気分だ。

「そうね、捜査会議で言ったらきっとみんなひっくり返るわよ。うちの班の大手柄ね」

「主任、なにかありました?」

「そんなことないわよ。ただ、普通の人にも人に言えない様な事があるんだなって。今回の事件で本当に良く分かったのよ。」

「そうですね、人なんて分からないものですからね。明日の捜査会議に向けて全員でミーティングしておきますか?」

「ごめん。黄田が皆をまとめておいてくれる?私ちょっと調べたい事があるの」

「構わないですけど、調べたい事ですか?」

「そう、一人で調べたいの。お願い」

「分かりました。みんなにはうまい事言っておきます」

「ありがとう」

「主任。気をつけて下さい。何かあればすぐに駆け付けますから」

そう言った黄田の顔はいつになく真剣だ。わかってる、と短く返して結子は足早に本庁を後にして車に乗り込んだ。通いなれた道だがいつもとは気分がまるで違う。きっと黄田もどこに向かっているのかは分かっている。だからこその気をつけろ、なのだ。

人は誰かに言えない秘密を抱えて生きている。だが、それは人としての防衛本能なのかも知れない。知りたくない事に目を瞑ろうとするのも防衛本能。何かを知りたい、その気持ちももしかすると得体のしれない恐怖から自分を守ろうとする防衛本能なのかも知れない。

結子は車を降りて、店のドアを開けた。

「今日もお客さん全然いないわね」

「お前が来る時はたまたまいないだけだ。普段は商売繁盛してる」

野上はグラスを片付けながらこちらを見ずに答えた。

「ねぇ、野上。あなた何を知っているの?」

結子の言葉に野上がゆっくりとこちらを振り向いた。

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