第7話

「俺は分からなくはないなー、そいつの気持ち」

野上信也がバーボンソーダを結子のテーブルにスッと出して言った。

この『いたてん』は結子の同期であった野上が経営しているバーで、結子は事ある毎に足を運んでいた。野上は結子から見ても超がつくほど優秀な警察官で、すぐに公安に配属され、同期の中でも一番の出世頭であった。が、ある日、突然退職しこのバーを開店させた変わり者でもある。このバーは表向きの姿で、あくまでも本業は探偵だと野上は言う。

結子も何度か事件解決の糸口を野上に提供してもらった事もあったし、野上の情報網には目を瞠るものがある。ただ、その優秀さを差し引いても『いたてん』というバーの名前はあまりにも安直でダサい。結子は何度も変えたらどうかと言っているが、本人は『たんてい』のアナグラムだという事と『韋駄天』の様な迅速さを意味しているとう事に、相当な拘りを持っているらしい。

「私だって分からなくはないわよー?」

結子はバーボンソーダを口にして、反論した。

「いいや、お前には分かってないね。見たくもないものを見て、目を塞いだり逃げる事しか出来ない人間は大勢いる。人間が変わる程の光景を見てしまって、どうにかしてやるって思えるのはごく一部だ。まぁ、なんにせよ止めてくれた黄田さんに感謝するんだな。持つべきものは年上の優秀な部下だな」

「黄田には感謝してる。長野にも悪い事したなーって思ってるわよ。でも、少しでも早く一人前の刑事になって欲しいのよ」

「気長にのんびり成長を楽しんでやれよ。大器晩成ってな」

結子は少し頷いて、残りのバーボンソーダを飲み干した。

「ところで、最近どう?見た所、私しか客はいないみたいだけど」

「客がいないのは、開店時間でもないのに無理矢理開けさせる迷惑な客が来たからだ。まぁ、それなりに依頼はきてる。不倫だとか行方不明者を探すだとか、そういう類のものだけどな」

「不倫に行方不明者ねぇ。まさに私が調査して欲しい内容と一致してるわね。ねぇ、ちなみになんだけどこの人達知らないわよね?」

結子は岸本佐和と向井正人の写真を見せたが、野上はかぶりを振った。

「知ってる訳ないわよねぇ。ねぇ、同じものちょうだい」

野上は返事をしてから少し考えた風にして言った。

「その男の人、白衣着てるけど、どっかの医者か?」

「えぇ、井坂総合病院の医者だけど。何か知ってるの?」

野上は結子の前にバーボンソーダを置いてから、知らないと短く答えた。

「嘘。絶対何か知ってる。なに?なにか知ってるなら教えて」

「知らない。もし万が一俺が何かを知っていたとしても、俺は喋らない。依頼者を守る義務があるし、依頼内容も話さない。それ位、お前なら分かるだろう。」

確かに野上は今までどんな事があっても、依頼者や依頼内容は絶対に話さなかった。

結子が追っている事件の情報が、依頼者とも内容とも全く関係がない時だけ情報を話してくれる。つまり、今の野上の反応は井坂総合病院か向井正人のどちらかに関する依頼を受けている。はっきりとは言わないが、暗にそう伝えているのだ。

「とにかくこの話はここ迄だ。もう何も言わないし、何も聞くな」

野上は困った顔をして口元を触った。

「ありがとう、野上。ところで、あんた部屋キレイ?生活感ある?」

突拍子の無い質問に野上は困惑しながら答えた。

「部屋?まぁ、綺麗にしてる方だと思うけど、なんで?」

「綺麗にしてるってどのくらい?埃も無いくらいキレイ?」

「片付いてるし、掃除もしてるから、それなりにキレイだとは思うけど、埃がないかと言われると、多少はあると思うし、そこで生活してる訳だから、生活感はある」

「そうよね、生活してるんだものね。生活感のない家ってどうやったら出来るのかしら」

「そりゃ、そもそも住まない。が答えだろう」

そもそも住んでいない、向井はあの家とは別の家があるという事かも知れない。

いや、もう向井は生きていない、という発想はどうだろうか。すでに殺されており、別の誰かが敢えて掃除をしたとしたら、生活感のない部屋も納得が出来る。

結子の中でふとある考えが過った。あの焼死体は向井なのではないだろうか。

そう考えるとそうとしか思えない。すぐにDNA鑑定してもらうべきだ。

「ありがとう、野上。また来る!」

結子は急いで本庁へと向かった。

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