勝ち猫は負け犬と。 上

 だからおまえはなんなんだ。


『お兄ちゃん、お願いがあるんだけど』


 年の離れた妹から電話があったのは土曜日の昼をいくばくか過ぎてからだった。

 こちらからかけることはあっても、妹からかけてくることは稀である。


「どうした? なんか欲しいものでもあるのか?」


 おねだりするなら存分に兄にするがいい。


『なんでもいいの?』


「なんでもいいぞ!」


 可愛い妹が欲しいというなら、新しく出たゲームでも開店五時間前だろうが並んでも手に入れよう。

 来年で二十代から卒業するが、結婚の目処はたっていないので自由な金は十分にある。

 親はこの点にうるさいが、したくもないままごとに時間を割かれるよりは天職の仕事をしているほうがずっといい。


『そう。じゃあ、あのね…』


 続けた妹の言葉に開いた口が塞がらなかった。


 二年前、妹はあまりに理不尽な出来事で一方的に心身ともに傷つけられた。

 妹は、優しすぎた。

 悪いのは全面的にあっちなのに、妹は学校という閉鎖的な環境で孤立させられ。

 気がついた時には妹は家でも笑わなくなっていた。

 どう聞いても、どう考えても妹は悪くないのに不特定多数の人間は妹という的に面白半分、興味半分の悪意をぶつけ。

 妹はそれを家族に誰にも言わずに耐えていた。


 見ているこっちが無理だった。

 叔父夫婦に打診して本人には有無をいわせずに転校をさせたあと。


 その電話はきた。

 学校から教えられたという諸悪の根元のガキの親から。


 謝罪したいと。

 申し訳ないと。

 この子はとても反省していますと。

 学校に行けないくらいに落ち込んでいますと。

 どうか許してはもらえないだろうかと。


 なにをいまさら。

 なにを、いまさら。

 本人がかけてくるならまだわかる。罵倒もしよう。

 親が子供のしたことに責任をとるのはいつの世でも同じことだ。

 しかし、それは謝罪に見せかけた要求でしかなかった。

 ふざけるな、そう思うなら本人に言わせろと返したのはいつだったか。

 もちろんそれは妹に知らせることはなかった。

 蒸し返されて、こんなものにまた妹がなくてもいい傷痕を疼かせる姿なんて見たくない。

 今度こそ、妹には傷つかなくてもいい場所で静かに暮らしていてもらえれば――


『お兄ちゃん、私…あの子と連絡をとりたいの。電話番号とか知らべられない?』


 その言葉に。

 固まった数秒後、頭をフルに動かした。

 あの子って、あれか。あれなのか。いままでさんざんよけてきた人物か。

 妹とは絶対に触れさせまいと転校して関わりを断たせた。

 なにをいまさら。

 なにを、いまさら。


「いやいや、え?」


『なんでもって言った』


「え、いやいやいや」


『お願いきいてくれるよね?』


 お兄ちゃん。

 私には嘘つかないもんね。


 その単語に、頷かざるを得なかった。



「おまえはなんなんだ」


「あ、堺夏輝です。はじめまして!」


 そこじゃない。


 次の日、日曜日。

 連絡をくれた妹を万全に出迎えるべく、仕事は先方に断って休みを入れた。

 もともと前倒しでいれていた仕事だったのでそこはあとで調整しよう。

 コンビニで買ったコーヒーを飲みながら久しぶりに会う妹の姿を探していたら、コーヒーを噴き出しかける羽目になった。


「あ、お兄ちゃん」


 久しぶりに会う、こちらに手を振る私服の妹の隣に。妹と同年代らしい私服の少年が、ひとり。

 自慢ではないが、妹は人見知りをするほうで友達という友達は昔からいなかった。

 それは転校した先の中学でもそうだったようで。

 本人はそれに関しては特に気にしている風でもなかったので放っておいたのだが。

 もちろん向こうで出来たのであれば喜ばしいことであるし歓迎することである。女の子ならば。

 妹が現在通っているのは女子校のはずである。

 目の前の、元気のよさそうな人間はどう見たって男だった。


「ク、クラスメイトかな…?」


「なに言ってるのお兄ちゃん」


 ですよね。

 いやいやいや。

 そこではない。

 妹よ、談じるべきはそこではない。

 顔を片手で隠しながら聞いてみる。


「えーと、どなたかな」


「堺です、土の世界と書いて堺で」


「そこじゃない」


 おまえはなんなんだ。

 妹にとって、なんなんだ。

 考えたくないがあれか、「か」のつくなにかなのか。

 しかしこの妹が友達を飛び越えてかれ、じゃなく「か」のつくなにかを作れるものか。離れている間になにがあった。

 叔父たちからは定期的に妹のことで連絡があるが、こんなやつの話は聞いたことがない。

 そしてやっぱり妹が短期間にできるとも思えない。

 百万歩譲って仮にそうだとして、なんで今回ついてきた。


「勢いで言った責任をとりに」


 だからおまえはなんなんだ。


「あら、蓮見ヶ浦に通ってるの! 頭いいのねー」


 もてなすな母。


「堺くんか、ええと。ああうん、よろしく」


 丸め込まれるな父。


 当然のように妹はそいつを家まで連れてきた。どこかの置き去りにしてこようかとも考えたが無理だった。

 自分と同じく仕事の手を止めて待っていた両親は、初めて会うその少年に当初は目を丸くしていたが。


「お気遣いなく!」


 いつの間にか母はお茶と茶請けを持ってくるし、父も話しているうちに打ち解けていた。

 スムーズすぎる。遮るものが何もない。気遣えよここは。なにリラックスしてるんだ。

 なんなんだ、こいつは。何者なんだ。


「あ、時間だ。行ってきます」


 そうこうしている間に、妹はソファーから立ち上がった。

 本当に、例の問題人物と連絡をとってしまったらしい。


「どこで会うんだ?」


「すぐそこ。咲夜さくやさんの店。ファーストフード店とかよりは静かだと思うから」


 鞄に財布が入っているかを確認したあと、妹はじっとこっちを見てきた。


「だから、ついてこないでね」


「う」


 考えていたことを先に読まれて牽制された。

 だって、心配ではないか。

 もしあっちが逆上して手をあげてきたらどうする。

 妹はトラウマで動けなくなるのでは。

 一体一で本当に話すことなんてできるのだろうか。

 向こうがひとりではなかったらどうする。

 会わなくてもいい。それは逃げではないのだから。


 自分が横にいて、かわりにガツンとひとつふたつみっつ言ってやろうか。


 そう口にする前に、妹は首を横に振った。


「お兄ちゃんがいたら、言いたいことも言えなくなりそうなの」


「でも」


「きっと、これは二年前に済ませておかなきゃいけなかったの。でも」


 二年前は、そうする間もなく転校したでしょう。

 私がなにか言う前に、言おうとしても聞いてくれなかったでしょう。


 妹のその瞳は、どこか自分を責めている気がした。


「あれ以上、耐えられるとは思えなかった!」


 親は、なにも言わずに顔を下に向けた。

 忙しさにかまけて、気づくのが遅かったと責めていたのは二人も同じで。

 だからこそ、忘れてしまえと寂しくても忘れられるように家から離して。

 万が一にも鉢合わせないようにと家に帰っておいでと言わないでいままできたのだ。

 もう遅いと、妹に思われていたとしても守りたかった。これ以上、傷つかなくていいように。


「そうかもしれない。でも、私の限界は私が決めたかった」


「知世…」


 こんなに妹が自分からはっきりと言うことはそうそうない。

 小さい頃からおもちゃにしても、服にしても。

 こっちがいくつかの選択肢を持ってきて、その中から欲しいものを選ぶような子で。

 いつも静かで、自己主張のない子だったから。こちらが決めてあげなければとよく思っていた。


「たぶんね、私が後悔しているのはそこなの。私は私が考えたように行動しなかった。途中で丸投げしちゃった」


 なにも最初からなかったことにして、忘れようとした。

 でも忘れられるはずがなかった。そこが最初の間違いで。


「問題はそこで解決させておきたかったのに。だからいまでも宙ぶらりんで気持ち悪くてしかたがなくて。あと、やっぱり納得がいかないの」


 両親は、自分はポカンと口を開けて強い調子で言う妹を見ていた。

 なにが、妹を焚きつけたのだろうかと。

 堺という少年だけは顔をあげて、真っ直ぐに妹を見ていた。

 いつもよりも強い調子で言う妹を、どこか誇らしげに。


「だから邪魔しないで。信じて。待ってて。ねえお兄ちゃん」


 普段はあまり、話さないはずの妹は一気にそこまで言うと扉の前に立つ自分に抱きついてきた。


「知世…!」


 抱きかえそうとしたらスルッと抜けて玄関に走っていってしまった。決意はそれほどまでに固いのか。

 扉が閉まる寸前、くるりとこちらを振り返った妹は小さく言った。


「ついてきたらお兄ちゃんと口きかないから」


「知世…!」


 今度こそ、念をおされてしまいその場にひざから崩れ落ちた。

 せめて、せめてついていけないのなら盗聴器でもしかけていればよかった。


「まあまあ。座って待ってましょうよ、お兄さん」


 はじめて来たはずなのに、ここに住んでいる人間よりもよほどこの場においてくつろいでいる風な少年が人数分のお茶を急須から注ぎながらそう言う。

 おまえが注ぐのか。どうしてだ。一応客だろうが。


 いや、それよりも聞き捨てならない単語があった。


「誰がお兄さんだ!」


「え、じゃあなんと呼べばいいんですか」


「そもそも、おまえは何者なんだ!」


「あ、下は夏に輝くで夏輝と読むんですけど」


「そこじゃない!」


 以下、終わりの見えない会話ループに陥りそうになっていたのを止めたのは一本のメールだった。

 仕事だったら嫌だなと思って見ていれば、プライベート用。


「なんだ、咲夜か」


 文は簡潔だった。その分、破壊力もあったが。


『幸臣先輩ご無沙汰してます、小唄です。

 咲夜さんがともちゃんのお相手を拘束中ですがどうしましょう?』

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