ぷちぷち、日和。

 不器用でも、ひとつひとつを終わらせていく。


 教室のドアを開く。まだ早い時間帯なのでガラガラだ。

 冷房はまだつけられていないが十分に涼しい。そろそろ夏服から中間服へ移行するのだろう。

 もう秋なのだなあと思いながら窓際で本を読んでいるカナちゃんの後ろの席に着いた。


「カナちゃん、おはよー」


「おはー…」


 顔を上げたカナちゃんはすぐに手元の本に目を落として、そしてまた私の顔を見て立ち上がった。


「あめこ! どうしたの、その」


 顔。


 顔って、大きく出たな。

 どこを指しているんだろう。額か目か頬か。全部かな。家を出るまで冷やしたんだけどね。


「うへへ、キャットファイトしてきたよ」


「はあ?」


 不思議そうに、おかしそうに私の顔を見てくるカナちゃんに私は小さく笑った。

 あ、でも痛い。筋肉痛だ。いつもはあんなに動かないから使わない筋肉がピシピシいうよ。湿布がほしい。

 でも文字通り体は満身創痍だけど、なんだか軽いんだよね。憑き物が落ちたみたいに。

 がんばったんだよカナちゃん。

 まだ言えないけれど。

 今日から少しずつ、少しずつでいいから自分から言えるようになりたいから。

 だからまずは、これから聞いてみよう。


「あのね、今日、お昼ご飯を一緒に食べていいかな」


 ドキドキする。対するカナちゃんはなんでもないように言った。


「いいけど。部の先輩も一緒だよ? あんた人見知り激しいでしょうが」


「うん、そうなんだけど」


 そうだ。前に誘われて、断ったのは私のほう。

 いままでは遠慮してひとりで食べるところを探してたけど。

 今日からは、踏み込んでみよう。私から。


「大丈夫。よかったら混ぜてください!」


「そんな勢いよく言わなくてもいいよ。わかったわかった」


 よかった。断られなかった。

 胸を撫で下ろして、いまだに怪訝そうにちらちらと見てくるカナちゃんに今朝、電車のなかで読んだ本を渡した。

 普通のコミックスよりも大判で分厚いものである。


「ありがと、続きが気になったよ」


「あーはいはい、続きね。それはそうとあんたの自作のブックカバーなんだけど」


 引き出しから続きの本を取り出してはい、と渡される。

 帯がついたままの無防備な姿なので私にはまだ読めない状態の本だ。

 家に帰ってからチラシを探さないと。指紋がつかないようにすぐにカバンになおした。


「ブックカバーがどうしたの。破れたら修復するよ」


 新しいチラシと交換します。無料ですよ。とってもお得。


「そうじゃなくって」


 返した本につけたままの白い表紙を指で叩いてカナちゃんは言った。


「題名書いたら、ブックカバーした意味なくない?」


「え? 意味ならあるよ、汚れないよ?」


 きっちりと。寸分の狂いもなく一冊ずつ心をこめて作っております。

 ブックカバーに関してはいい仕事をしてますねえとほめてくれてもいいと思う。

 なぜなら彼もまた特別な存在だからです。

 あれ、なんか混ざっちゃった。

 元ネタがよくわからないけどもういいかな。


「普通は中身がわからないようにかけるんじゃないの。こんなにでかでかと題名書いちゃって。バレバレだよこれ」


「えー?」


 えー。それのなにが悪いというのだろう。


 白いチラシには本にかける前に題名と作者名と何巻であるかをマジックで書いている。だってパッと見だとわからなくなるもの。

 区別は大事だと思うのです。


「少女まんがならまだいいけど、これ青年漫画だよ。あんたが読んでたらなんか厳つく見えるよ、イメージ的に」


 見かけが、それなのに。

 それってなんだろう。

 たしかに身長は小学校卒業してから伸びてないけど。親からは時間が止まっているとも言われてるけど。

 読みたいものを読みたいけどなあ、私。


「私、少女まんがより好きだけどなあ。筋肉の描き方とか迫力が違うし」


「あんた変わってるよ…」


「そうかな?」


 そう言うカナちゃんは漫画の持ち主なのに。

 そう言うと「あたしはいいの」と返された。

 変なの。読んでいるのは一緒なのに。

 そういえば彼にも何度か変わってるよねと言われたけど、彼のほうが変わってると思う。

 普通、他人にあれだけの時間をさくことはできない。会ってすぐなら、なおさら。

 一緒にいたら調子が崩れてしまう、引きずりこまれてしまう。

 けれどそれは気持ち悪いものではなくって、楽しかった。

 変わったひと。

 でもとても優しいひと。


「なに、ひとりでにやけちゃって」


「うへへ、なんでもないよ!」


 おもわずにやけてしまったようだ。

 口を隠して、私は話題をすり替えることにした。

 話題、話題といってもカナちゃんテレビ見てないし私もニュースくらいしか見ないし。

 あ、ならばちょっと気になっていたこと。先週、体育の時に耳に入っていたことを。


「カナちゃん、中等部の頃に誰かを病院送りにしたことある?」


「はあ?」


 まあ、そうなるよね。

 私もどう聞こうかちょっと悩んだけど直接聞いたほうが誤解とかなさそうだったから。

 それにしても病院送りといっても病人を担いで連れていったのかもしれないし。

 カナちゃん、無愛想だけど暴れて誰かを怪我させるとは思えないんだよね。


「病院送り…中等部……ああ、あったわ。結局、骨折れてはなかったけど入院したんだっけ」


「本当なの!?」


 本人はなんてことなさそうに言っているが真実の意味で病院送りにしている。いや、してしまったの間違いなのか。


「今年の春に学校近くで通り魔が出たの。帰りに鉢合わせたからぶちのめした」


「どこからつっこめばいいかわからないよ…」


 通り魔。通り魔ってあれだよね、ナイフとかを振り回したりする危険な人物だよね。危険なんだよね。もう一回いうけど危険なんだよね。

 そういえば、春休みに学校周辺で変質者が出てすぐに捕まったとか聞いた。

 寮に入るつもりだった私はその事件があったから周囲に反対されて通学に切り替えさせられたのである。

 その当事者がいま目の前にいました。


「た、倒したの?」


「急所蹴りつけたから気絶はしたけど。警察からは過剰防衛で怒られた。下手に武道かじってると訴えられかねないって」


「倒しちゃったんだ…」


 予想外というか予想以上の収穫です。

 カナちゃんすごい。強い。

 私には無理だ。もしかすると小学生にも負けてしまいそう。最近の小学校は無駄に発育がいいから。胸部とか。


「…大丈夫?」


 カナちゃんが、首を傾げて聞いてくる。

 なにが大丈夫なのだろう。


「え、なにが?」


「こわくない? 病院送りにする女だよ、あたし」


「だって通り魔だよ? やられる前にやるべきだよ」


 むしろこわいのはそんな通り魔が無事に逃げてわからなくなることだと思うんだよね。

 それを考えたらカナちゃんは功労者である。その危険を取り除いたのだから。

 これくらい強かったら、私もいままでぐじぐじ悩まなかったかもしれない。


「私も病院送りにできるくらい強くなりたいかも」


「やめて」


 即座にそう切り返される。

 本気半分、冗談半分だったんだけど。

 優しくて強いって、最強じゃないか。あと美人さん。


 カナちゃんみたいになりたいな。


「…やっぱあんた変わってる」


 ぶっきらぼうな言葉。

 顔は本に落として見えないけれど。


「…うへえへへ」


 はじめてで、知らない人ばかりの教室で話しかけてくれたひと。

 カナちゃんのような人に会えて、よかったと心の底から思う。


「その笑いかたは正直キモイ」


 訂正。カナちゃんひどい。



「ねえ、掃除なんだけど」


「今日は急いでるから他のひとに頼んでください」


 部活に行くカナちゃんを見送って、いつものように話しかけられるけど。

 私はカバンを肩に引っかけて立ち上がった。

 ドキドキする。けど、負けないぞ。

 断られるとは思っていなかったのか、むこうは目を見開いているけど。

 急いでるのは本当だから、軽く挨拶をして教室から足早に立ち去った。


「言っちゃった」


 本当に、ささいなことだけど。勇気がいることだったけど。


「言っちゃった」


 ひとつひとつが、積み重ねればきっとそれは無駄にはならないから。


「言って、みよう」


 いまから、私はもうひとつ勇気を振り絞ろうと思っているのだ。


 がくん、と電車が停まる衝動で目を覚ます。

 本気で寝るつもりはなかったのに、昨日の疲れがまだ完全にはとれていなかったようで睡魔に負けてしまったようだ。危ない危ない。

 特有の聞き取りにくいアナウンスが告げる駅名で完全に覚醒した。

 本当に危ない。

 姿勢を正して、私はドアが開くのをいまかいまかと待つ。

 私が降りるのはあと三十分は後の駅なので、本来なら放っておけばいい。

 だけど、今日はここで待とう。


 ゆっくりとその電車はやってきた。

 ホームをはさんで反対側の電車。ドアの前の席に座るのは同じ年くらいの制服を着た男の子。

 ぴんぴんと跳ねた髪は自前らしい。寝癖というよりは乾くと自然にそうなってしまうらしく、わざとファッションでやっているわけではないそうだ。

 直さないんですか、と聞くと特に気にしてないらしい。寝かしつけたいなあ、あの髪。

 猫のように、くるくるとよく動くつり目がちではっきりとした瞳はいまは手元へと落ちている。

 男の子の、手元。

 それは電車乗りによくある文庫本やゲーム機ではなく。


「ぷちぷち!」


 別にそれは、彼を止めようとして放ったものではない。

 いや、まあなにかしら声をかけようとは思っていたが。これは純然たる呟きのつもりだった。

 しかし、結果としてその声は想像以上に大きかったらしい。

 私の声にゆっくりと、本当にゆっくりと彼は手元に落としていた顔を上げた。

 目を丸くした彼と、私の慌てた目が合う。


「びっくりした!」


「びっくりさせました…」


 彼もまた、ホームに降りてくる。

 彼のほうの電車は五分を待たずに走り出していく。次に来るのはいつになるのか。


「ぷちぷち、好きなんですよね」


「そうなの? ならあげる。まだあるから」


 そういう彼はカバンからまだ潰してないぷちぷちを取りだそうとしている。

 わーい嬉しい。


「では、なくてですね」


 私がしたかったのは、それではない。

 いや、ぷちぷちしたいけど。

 すごいしたいけど、それはあとでいい。


「そうそう怪我、大丈夫!?」


「あーまだ若いですよね、筋肉痛が翌日に…」


「どんだけ派手に転けたのさ…」


 そうなのだ。この怪我は喧嘩したからではなくただの不注意からのものである。

 運動神経のなさが災いした。


 昨日、勇気を出して会った例の子とは和解とまでは行かなかったけれど、きちんと話ができた。

 キャットファイトというか、言い合いはしたけれど。

 掴みかかられもしたけれど、兄が茂みに隠れて飛び出してくるハプニングも、彼がそれをどうにか言いくるめてくれたりもした。

 問題は帰りにあったのである。

 彼とここで別れたあとの話。

 なかば浮かれていた私は家の階段を登っていて盛大に転けたのである。


「ええと、うん。それは恥ずかしいので置いといてほしいのですが」


 聞いてほしいことがある。

 ずっと後回しにしてしまって、やっていないと気づいたのは昨日の夜で。

 いまさらだと、思われるかもしれないけれど。

 向き合って、言ってみよう。


「あの、あらためましてこんにちは!」


「? こんにちは」


 喧騒のなかでもよく響きそうな声。

 同じく元気そうな髪が風で揺れている。

 やっぱり向日葵のようだなあ、と思う。

 もしくはどんなに踏まれても咲くコスモスか。


「はじめまして、ではないけれど。私は雨水知世うすいともよといいます。雨の水と書いて雨水で」


 私は下の名前は結構気にいっている。

 親に意味を教えてもらって嬉しかった。

 似合っているかは別として。


「世界を自ら知っていくと書いて、知世です」


 そう、まだ私は彼に名前を教えていない。

 気づいているのかは知らないけれど。

 まだ、名乗っていなかったのかとか言われたらどうしよう。

 すっかり忘れていたのだ。本当にあっという間の出来事だったから。

 本当に、いまさらなんだけど。


 突然、言われて驚いたのか彼はぽかんと口を開けたまま固まっていた。


「………」


「………」


 これは、あれかな。しくじったかな。

 でも言わなきゃよかったとは思いたくないんだよね。

 やればよかったと思うくらいなら、言っておきたかったのだ。


「えーと、びっくりした!」


 今日、二度目にそう彼は言った。

 その姿に、気にした様子はなかった。

 逆にどこか嬉しそうでもある。


 そして、彼は私に手を伸ばしてこう言った。

 どこまでも真っ直ぐな声で。


「いい名前だね!」


「ありがとう、ございます」


 それは、あの時の再現のように。


 今日は仕切り直しをしたかったのだ。

 言いたくて、言えない自分を塗りかえたくて。

 本当は、私から言いたかったのだけれど。とられてしまった。

 でもいいや。どっちでもかまわない。


 いまは。


「私と、友達になってくれますか」


 本当は、それ以上のことを少しだけ考えてみたりしたけれど。

 まずはここからはじめなくては。


 不器用でも、ひとつひとつ終わらせていけばいいんだ。


 秋の夕暮れの、どこか悲しいようでやわらかいオレンジ色の日差しを浴びた彼は、一拍をおいて返事をしてくれた。

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