ぷちぷち、本懐。

 気にするよりも忘れなければいいだけなのに。


 俺の長所と短所は同じである。

 思いついたら即、行動に移すこと。

 これにはいつも助けられたり逆に大変な目にあったりする。

 今日はどっちに転んだのだろう。


「私の実家が飛行機の必要な距離だったらどうしてたんですか?」


「どうしてたんだろう…」


 本日も晴天なり。

 昨日の朝に決めて、その次の日には急行に乗っていた。

 最近は昼は暑くても朝晩は冷えるので服選びが難しい。制服なら着るだけでいいから楽なのにな。

 でも制服で学校以外に出歩くとなると逆に目立ちかねないし。

 横に座る、いつものような制服ではなく私服に身を包んだ彼女は不思議そうに俺に聞いてくる。


「あのまま、あそこで別れてたら集合場所も時間もわかりませんよね。どうしてたんですか?」


「どうにかなるかなって…」


 目をそらす俺に彼女はこちらに身を傾けて真っ直ぐに問いかけた。

 それには悪意とか害意とか、そのようなものはない。

 小さな子供が親に問いかけるような、純然たる疑問から来るものである。


 電車に乗り込む俺に、一拍をおいて彼女も追いかけて乗り込んできた。

 彼女の背後でドアは閉まり、ゆっくりと景色は動きだしていく。


「ってあれ!? 逆方向だよね!?」


 乗ってきちゃった。学校行くんじゃないの君。乗るのは逆だよ。

 驚いたが、驚いたのはこっちだと言われた。腕をつかまれてのぞきこまれる。


「それって、どういう意味ですか!?」


「それ?」


 それってどれ。

 そこからは矢継ぎ早にどういうことだと聞かれてそのまま思ったことを答えた。

 俺からすればただ普通に考えて口から出たものだったが、彼女からしてみたら青天の霹靂なことだったらしい。

 何度も「本気ですか」とか「頭は大丈夫ですか」と聞かれた。

 失礼な。男なら言ったことには責任くらいもつよ。

 というか責任はもつんじゃなくてとるものだと思うんだけど、そこのとこは世間的にどうなんだろう。


「ちょっと…頭のなかを整理させてください…」


 ひとつひとつ質問に答えていくごとに、彼女はすすきのように柳のごとく力なくうなだれていき。

 最終的に彼女はぶつぶつと目を閉じて頭を抱えて唸っていた。あれ、俺が悪いの。なんか周囲の目が痛い。なぜか俺を非難しているような気がする。

 まあ気にしないでおこう。


 時間にして三十分ほど。

 窓からの景色は青い空やどこかの名前のわからない木々の緑よりも蛍光色の強い看板や灰色のビルに囲まれていく。

 この辺りになると頻繁に停まるようになってきた。そのぶん人も増えてくる。学生は少なく、ほとんどがスーツを着た大人だ。

 家の近くではこうはならない。休日からご苦労なことである。

 電車を降りてすぐにある一部の部しか使えないドーム型の体育館が窓から途切れざまにも見えてくる。

「そろそろ降りるよ」と肩を揺らすと彼女はゆっくりと顔を上げ、据えた目でこう聞いてきた。


「…わかりました、一緒に腹をくくってくださいね…」


「え、そんなに覚悟いることだった?」


 そして電車の中、短時間で予定がどんどん組まれていったのである。


 現在、翌日の新幹線の中である。

 真っ直ぐな視線に目を合わせることができない。

 やましいことはないが、理知的に説明しろと言われたらなにも返せそうにない。

 面目ございません。


「一応、隣の県ではありますが向こうにも予定というものがありまして」


「うん…」


「こっちがいきなり行っても対処ができない場合が考えられます」


「はい…」


 彼女は見た目に反して、すごく率直な物言いをする。しかも正しい。

 吹っ切れてからというか、こっちが素なのだと言われたが切れ味が鋭い。容赦がない。

 まわりくどく言われるよりはよほどいいけど。わかりやすくて。


「結果的にはこうなりましたけど、いつもこうなんですか?」


「大体…」


 彼女とは電話番号を交換して別れた。最初はメールアドレスを聞かれたのだがケイタイ類は持っていないし。

 やはり個別に持っているのが最近の主流なのだろうか。

 いいかげんに持ったほうがいいかなあ。電車の事故で遅刻しそうな時も公衆電話を探さなくてよくなるし。

 思考を過去に飛ばしていると、彼女は合わない視線に腕を引いてこっちに向かせた。

 大変申し訳ありません。


「兄には一通り説明しまして、向こうの…その子の住所も電話番号もわかりました。私が転校したあとに連絡があったらしくて。…私には知らされていなかったんですけど」


 それはもとより、最初から知らせる気などなかったのか。

 傷ついた娘にこれ以上深入りさせまいと。


「でもたぶん、私から聞いていればその時でも教えてくれたと思います。今回がそうだったので…最初から向き合ってればよかったんです」


 最初から最後まで、私が終わらせていればよかったと彼女は言う。

 でもそれは、とても勇気がいることだ。

 いままでひとりでなんでもできていたことが、突然できなくなって。

 信じるものを、信じてほしいものを証明することができないままに。

 逃げることしかできなかったことを誰が責めようか。


「いまできるならそれでいいんじゃないの。成長したと思えばいいんだよ」


 遅すぎることよりできなかったことを悔いるほうがよくないんじゃないの。

 それは夏休みの宿題のような軽いものではないのだろうけど。

 しないよりはしてしまえ。

 それが間違いだとは俺は思わない。


「…あのう」


 彼女は正面に向き直ると、何度も口を開けては閉じてを金魚のように繰り返しては視線をあっちへこっちへと動かし。

 大きなため息を吐いてから顔を上げた。


「あの、なんでここまでしてくれるんですか。私とは電車でたまにすれ違ってて、話したのもこの数日だけ。ここまでしてもらうだけの理由がないと思うのですが」


 理由。

 理由か。


 数秒、考えてみたけど。


「特にないなあ」


「えっ」


「え、と言われてもなあ。説明できるだけの理由が浮かばないんだよね。強いて言うなら納得のいく結果が見たいなあ、というぐらいで」


 納得がいかないのなら納得がいくまでぶつかってみよう。

 ひとりでは駄目ならふたりで。背中を押すくらいならできるから。

 そもそも俺は他人なので断られたらそれで終わりのはずだった。

 どうしてか受け入れられたものだからこうしてここにいるわけだけど。

 この確率はかなり低かったはずで。

 そう考えると不思議なものだなあ。


「雨降りに二本傘をもってたら、傘がなかった人に余った傘を貸すじゃんか。それと一緒かな」


「はじめて会った他人に貸せますか?」


「困ってたら貸すだろうなあ」


 返ってくるのかはまた別問題だ。いちいち気にしてられないし。貸したのは自分からなのだから。

 しかしそんな俺の言葉に彼女の眉はきれいに八の字である。真ん中を押したいくらいに。


「その、博愛精神はどこから来るんですか」


「博愛精神? そんな高尚なものは持ち合わせがないんだけど…」


 隣人を愛せよ、とかいうやつなら持ってない。

 嫌なことがあったら嫌だと言うし抵抗するし。

 あの姉二人の弟にはなにしてもいいというよくわからない法則もどうにかしたい。

 小さい頃ならいざ知らず、いまは腕力で反撃したら目も当てられないし。向こうもそれがわかっていてやっている感がする。卑怯ものめ。

 否定はしたものの、彼女は納得がいっていないようだった。

 冗談めかしたように聞いてくる。


「それじゃあ、私じゃなくても…犬とか猫とかが困っていても助けそうですよね」


 犬とか猫とか。

 犬とか猫とかはまだないけど。


「あー、小学生の時に鶏を助けようとして崖から落ちて足を骨折したことならあるけど」


 住吉のおっちゃんちにはそれはパワフルな鶏がいたのである。名前はマキコ。息子のお嫁さんと一緒だとかで一悶着あったのもまた過去の話である。


「がっにわっ骨折!?」


「あ、大丈夫。マキコは無事だし、長生きしたよ」


「マキコって誰ですか!?」


「雌鶏。卵はよく生むんだけど脱走力がすごくってさ。いつもみたいに探してたら捕まるまいと崖のほうに走っていって。で、アイキャンフライと勢いよく飛んだけど落ちちゃってそこを俺がキャッチしてまっ逆さまーみたいな」


 そう深い崖でもなかったし、下は放置されていた溜め池でごつい岩石がゴロゴロしていたわけではなかったし。

 いやまあ夏休みだったから入院もすんなりだったけど、経緯を知った親の剣幕はそれはもう鬼のようだった。


「この後先考えなし野郎! ってさー。こっちは小動物を助けただけなのにってふくれたよね」


「死ぬかもしれないのに、悠長にしすぎですよ…」


「まあ、反省したよ。曾祖母ひいばあちゃんには出会い頭に泣かれたし」


 いつもは親以上に怒るのに。

 さすがにその時は反省して謝った。謝ったあとにおもいっきりはたかれた。嘘泣きだったわけではないけど。

 思えば、曾祖母もパワフルな人だった。夫を早くに亡くして、女手ひとりで子供を五人育てあげて。

 口も達者だったけど、手も足も強靱で晩年近くになっても畑仕事をしっかりこなしていた。


「うちさ、女系っていうのかな。どうも昔っから女ばっかり生まれてさ、曾祖母ちゃんの血筋だと俺だけが男なんだよね」


 曾祖母は婿をもらった。

 祖母も婿をもらい、母も婿をもらった。

 母には娘が二人も生まれたので三人目も女だろうと思っていたら男だった。

 それはもう慌てたそうな。女だと決めてかかっていたので服もなにもかも女ものしかなかった。

 俺の名前がどことなくどちらでも通じるのはその名残である。


「曾祖母ちゃんいわく、俺は曾祖父ひいじいちゃんに似てるって。でも顔だけね、曾祖父はとても頭がよかったわよっていつも言ってた。骨折したときにもあり得ないわ、頭のなかどうなってるのかしらこの子って」


 写真でしか見たことのない曾祖父はモノクロでくすんでいてよくわからない。似ているのだろうか。

 もしくは曾祖母の願望だったのか。


「え、でも進学校に通ってますよね。普通に頭いいじゃないですか」


「あはは、意地でねー」


「意地、ですか?」


「いやあ、えーと、うーん」


 なんと、言えばいいのか。

 意地、以外に当てはまる単語がないんだけど。


「俺ね、中学の途中までは成績とかどうでもよくってさ。そう生徒数もいない学校で、下から数えたほうが早かったよ」


 それでもいいと思っていた。近くの高校には受かるだけの勉強はしていたから。


 転機が訪れたのは二年の夏休み。

 前日まで畑仕事をこなすくらい元気だった曾祖母が倒れた。


「最初は段差につまずいたとか、夏風邪をこじらせたとかなんとか。よくわからなかったけどそれから急に弱ってきちゃってさ。なにが悪いってわけじゃないんだけど家で看病するにはなにかあっても遠くて、すぐには連れていけないからって病院に入院したんだ」


 それから目に見えて、曾祖母は弱っていった。

 あれだけぴんしゃんしていたのに、半年もするとひとりでは歩けなくなるほどに。

 そしてしっかりしていた思考もゆるりと、過去にばかり向けられていった。


「見舞いにいくとさ、俺に言うの。夏彦さんはああだった、こうだった。いままで聞いたことないことをさ。で、最後に「蓮見ヶ浦を卒業したのが誉れでした。そんな立派なところを出たのにこんな田舎に婿に来てくださったのよ」て」


 その目はもう、俺を見ていなかった。

 俺を通じて、いつかの遠い昔を見ていた。


「なんか、ぷっつりきたんだよね。そのあとにさ、なぜか俺が蓮見ヶ浦を受かったら元の曾祖母ちゃんに戻るんじゃないかって、根拠もないのに思いついて」


 思いついたら即行動に移す。

 しかし、現実はそう簡単なものではなかった。

 勉学の壁というものはやはり高かったのである。

 夏彦さん、今日は天気がいいわね。

 塾に通うにも遠いしお金はかかるしで自習学習をするしか道はない。

 そしてそんな自分を周囲が笑っていた。


 間に合うはずがない。

 行けるはずかないと。


「それでもさ、本に書いてあったように小学生が習うようなのからひとつひとつやってたら少しずつ成績が上がっていって、先生達も手伝ってくれるようになって」


 なにが駄目なのか、駄目ならどうすればいいのか。

 努力する方向を正して定めてただひたすら努力した。

 夏の模擬テストでは散々でも、冬の模擬テストではギリギリだが合格圏内に入った。


「あの頃は本当に勉強しかしてなかったよ。視力も落ちてさ。曾祖母ちゃんは相変わらずだったけど」


 夏彦さん、今日は天気がいいわね。

 夏彦さん、今日は悪い夢を見たわ。

 夏彦さん、夏彦さん、夏彦さん。


 いつからか、俺は孫ではなく曾祖母の中で祖父になっていた。


「三月の頭に合格発表があって、張り出しもされるけど個別に手紙が来るんだよね。それ持ってそのまま病院に向かってさ」


 寒さが舞い戻り、雪のちらつく日だった。


 息をきらして登った階段の先、白いベッドに座り窓の外を眺めていた曾祖母にどもりながら紙を見せて言った。


「蓮見ヶ浦に合格した! 頭も曾祖父ちゃんそっくりだろ、どうだって」


 なんでそう言ったのかはわからない。

 しかし言ったものは戻ってこなくて。

 目を丸くした曾祖母は、頬に手を当てて、こう言った。


「あんた馬鹿じゃなかったのね、夏輝」


 いままでの出来事が嘘だったかのように、かつての曾祖母のように。

 夏彦ではなく夏輝と、たしかにそう言ったのだ。

 そのあとは本当にささいなことを言っていたと思う。雪で畑が心配だとか見舞いに来る従姉妹の髪型が変だとか。

 途中からは聞いていなかった。嬉しくて泣いてしまったから。


「親とか姉とか親戚も一気に来てさ、医者もよくわからないと首を横に振るし。姉にはショック療法がきいたとも言われたし」


「よかったですね、曾祖母さん」


「次の日に亡くなったけどね」


「は」


 彼女の口は、丸く開いたまま固まっている。

 ばつが悪くて視線を窓の外へと向けた。

 そうだろう。その時の俺も最初聞いた時は同じように開いたままだった。

 あの次の日、おばたちが見舞いにいった時には眠るように、それこそただ寝ているようにして亡くなった曾祖母がいた。

 老衰だった。

 最期まで苦しむことはなかったでしょう、と医者は言った。


 それでも俺は、どこか自分のせいじゃないかと思った。


「そんなわけないじゃないですか」


「うん、わかってる。みんなもそう言うし。でもやっぱり引っかかるよ。喉の奥でさ、出せずに飲み込んできたけど」


 それは、とても優しくて残酷な言葉を。


「言わなきゃよかったんじゃないか、やらなきゃよかったんじゃないかって」


「それ、は」


 その言葉に、彼女は息をのんだ。

 昨日、彼女が言っていた言葉とそう違わないものだから。

 何度も俺も思った言葉だったから。


「よかったか、悪かったかなんていまでもわからないけど、でもやっていなかったら俺は絶対に後悔してた。これだけは言える」


 だから、彼女にはやれるだけのことをしてもらいたい。

 それが俺のエゴだとしても。


「通って、卒業するのが筋だろうってこうしていまがある。受かってなかったら君と会うこともなかったし」


 意地だけでここまできたけど、それが悪いとは思えない。

 得るものは多かった。そのぶん、失ったものもあったけど。


「…あの」


 一度、大きく息をすって吐いた。


「辛いことを、思い出させてしまって。でも、ありがとうございます」


 視線のあった彼女は、いままでで一番力強い目をしていた。

 それは、きっといままでで一番。

 一番、目を引いてきれいだった。


「私も、後悔だけはしたくないのでぶつかってきますね」


 なので、できれば、骨は拾ってくださいと彼女は笑った。

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