第4話 フォンテーネ



 ――商業大国オークルの中央広場。そこに立ち並ぶ多くの露店の中、マリアベルは恩人フォンテーネを伴ってパンケーキを買うために行列に並んでいた。初夏の日差しはじりじりと肌を焼く。マリアベルはかたわらに立つフォンテーネの様子をうかがい見た。

 彼女は相変わらず頭からフードをすっぽり被っている。背丈は、あまり高くないマリアベルの身長と並んでも、頭一つ近く小さい。フードにはふちに簡素な刺繍が施されており、マリアベルの目から見ても上質なものと分かる。――だが、やはり暑そうだ。気になる。

 うずうずと質問したい気持ちを堪えつつ、チラチラとフォンテーネに視線を送っていると、列が動いた事に気付いた彼女がそれを知らせるためにマリアベルの顔を見上げた。


「? どうかした?」

「い、いや! あー……」


 澄んだ水色の瞳と目が合い、マリアベルは慌てて言葉を濁そうとするも、元来単純な彼女は上手い言い訳が出てこない。訝し気にこちらを見つつ列を詰めるフォンテーネの後を追いつつ、マリアベルは思い切って気になっていた事を口にした。


「暑くないのか?!」

「え」


 余程想定外の質問だったのか、フォンテーネは小さな声を上げて僅かに首を傾げた。一方、マリアベルはどうせ口に出してしまったのだから、と開き直って改めて質問をした。


「フード。もう6月に入っているのに、その外套は暑くないのだろうか。私などは暑くて鎧を脱いでしまった」


 己の臙脂色のワンピースの裾を手で軽く持ち上げて、マリアベルは肩を竦めた。その一挙一動を見ていたフォンテーネは、自身の口元へ手を充てて、口元を隠す布をいじった。――何か迷っているのか、彼女はしばらくそうして沈黙した。……――困らせてしまったかもしれない。


「あ、いや、暑くないなら良いんだ。ほら、この天候だろう? 列に並んでいて、暑気中しょきあたりをしては大変だと思っただけなんだ」

「……それなら、問題ない」


 答えたフォンテーネの声音は、マリアベルの気のせいかもしれないが、安堵の色を帯びていた。



 フォンテーネの予想通り、列の先頭に来るまでには一時間程時間を要した。だが、その間他愛のない雑談――主にマリアベルが一方的に話しをし、フォンテーネが相槌あいづちを打つ、というものだったが――をしたり、露店の看板脇に設置されたメニューを見たり、どれを食べるか想像したり話したりしていたら、あっという間だった。

 オークルで大人気というだけあって、メニューも豊富だった。まず、生地が4択。プレーン生地、チーズ味、砕いた木の実入り、ミルク味がある。更にトッピングが多様にあり、客が好みで組み合わせする事で様々な味を楽しめるというものだった。トッピングは木苺、山査子さんざし、橙、猿梨サルナシなど、色々な果実のコンフィチュールや干した物、ミルクを煮詰めたペースト、カスタードクリーム、様々な木の実(そのまま乾燥させたものと、蜂蜜漬けのもの)、魚のオイル漬け、削ったチーズ、クリーム状のチーズなどなど。どれとどれを組み合わせよう、と想像するも、どれも美味しそうで決められない。これは何度も足を運びたくなるのも頷ける。

 口から涎を垂らさんばかりに顔を輝かせてメニューを見ているマリアベルの横で、フォンテーネはずっと沈黙したままだった。


「いらっしゃい! 何にするか決めたかい?!」


 列の先頭まで来ると、愛想よく露店の店主が声を掛けてきた。この露店は注文を受けたその場で、客が選んだ生地に、客が選んだトッピングを混ぜて、焼き上げる、というスタイルだった。迷いに迷っていたマリアベルは、まだ決めかねていた。深刻な表情で「実は」と切り出す。


「どれも美味そうで、列に並んでいる間中考えていたのだが、決めかねているんだ。お勧めはあるだろうか?」

「ははは、嬉しい事を言ってくれるね、お嬢さん! そうだなぁ、最近は暑いからな。塩気のあるチーズ生地にサッパリとしたクリームチーズ、後は甘いものが好みなら果物のコンフィチュール、苦手なら魚のオイル漬けって人が多いと思うよ」

「そうか! ありがとう!」


 パッを顔を輝かせて素直に礼を述べるマリアベルに、店主も気を良くした様子だ。チーズ生地にクリームチーズと果物のコンフィチュールのトッピングを選んだ彼女のパンケーキには、おまけで生のフルーツもいくつかのっていた。

 フォンテーネはどうする、と尋ねるマリアベルに、当初は「自分はいらない」と言っていた彼女だったが、さすがに店主の前で“いらない”とは言えなかったのか、それとも後ろに並ぶ人々の圧を感じたからか、躊躇ためらいがちにプレーンの生地にカスタードクリームとナッツの蜂蜜漬けのトッピングのものを注文していた。



 無事パンケーキを買い終えた2人は、マリアベルの提案で広場の喧騒から少し離れた路地の木箱に腰を下ろした。


「すごい行列だったな」

「だから言ったのよ」

「いい経験が出来た! それに、僅かだがフォンテーネに恩返しもできたしな」


 マリアベルが破顔一笑すると、ほんの一瞬、フォンテーネの小さな肩が動いた。そのまま彼女は俯き、手にしたパンケーキに視線を落とした。


「……冷めないうちに食べましょう」

「そうだった! よし、では、いただきます!」


 喜び勇んでぱくりと一口。


「!!! これは美味い!!」


 ぱぁぁ、と顔を輝かせて感嘆の声を上げたマリアベルは、そのまま勢いよくパンケーキを平らげた。――つい一時間ほど前に、腹いっぱい昼食をとったはずだが、これが所謂いわゆる“別腹”というものかもしれない。

 あっという間にパンケーキを平らげるマリアベルを、表情は見えないが恐らく唖然とした顔で見ていたフォンテーネは、次いで己の手のパンケーキへ視線を移した。パンケーキを包む油紙がカサリと音を立てる。

 音に気付いたマリアベルは、食べ終えた包み紙を畳みながら、俯くフォンテーネの様子をうかがった。彼女の小さな――幼い子どもの様な手は、口を付けていないパンケーキを、まるで大切な宝物のように両手で包む様に持っていた。そんなにパンケーキが好きなのだろうか、といささか気になったが、冷めてしまっては勿体ない。


「私のものと、生地とトッピングは違うが、フォンテーネのも美味いと思うぞ。遠慮しないで食べてくれ」

「……ええ」

「? どうかしたか?」

「……いえ、」


 ゆるゆると首を横に振ったフォンテーネだったが、次の瞬間、ハッとしたように顔を上げて路地の奥を見た。つられるように彼女の見た先へ視線を向けたマリアベルだったが、そこには石畳の路といくつかの木樽、建物と建物の間に干された洗濯物しか確認できなかった。


「フォンテーネ?」


 怪訝に思い彼女の名を呼ぶと、路地の奥を見ていたフォンテーネは僅かな沈黙の後、手元のパンケーキを油紙で包み直してベルトポーチに仕舞った。


「あたしはまだ空腹では無いから、後でいただくわ」

「え? あ、ああ……それは構わないが」


 呆気に取られて頷いた後、マリアベルは路地の奥を今一度見やった。――やはり、同じ光景しかない。


「何かあったのか?」


 眉を軽くひそめて問うと、フォンテーネは少し考えてから小さく首を横に振った。


「いいえ、気のせいだったみたい」

「??? そうか?」

「……そろそろ行きましょう」


 路地の奥を気にするマリアベルの思考を遮るように、フォンテーネは立ち上がって彼女に告げた。明らかに話題を逸らされた気がするが、それを指摘して聞き出すのもどうかと思い、マリアベルは頭を一つ掻いてから「分かった」と頷いてきびすを返した。

 歩き出すマリアベルの背に視線を送ってから、フォンテーネは改めて路地の奥を一瞥した。淡い水色の瞳がじっと見つめるその先の石畳の路に、僅かな――何者かのがちらついた。しかし、それはすぐに消えてなくなる。

 柳眉をしかめて思案顔になるフォンテーネの背後、少し離れた場所で立ち止まり振り返ったマリアベルから呑気な声が飛んできた。


「おーい、フォンテーネ? どうした、先に行くぞ?」

「……あたしはあなたが先に行っても構わないのだけど」

「そうなると、私は今日宿にたどり着けないかもしれない」


 真顔で答えるマリアベルの言葉に、フォンテーネは呆れたように深々とため息を吐き、マリアベルの後を追って歩き始めた。



* * * * * * * * * * * * * * *



 驢馬車エーゼットラングの車輪亭へ戻る前に、マリアベルは道すがら保存食や身の回りの備品を購入した。欲しい物をフォンテーネに告げると、彼女は的確にマリアベルの要望を理解して店へと案内してくれた。お陰で、明日朝早くこの町を発つ前の準備はあっという間に整った。


「本当に助かる。ありがとう、フォンテーネ!」

「いえ……別に。……予定があった訳じゃないから」

「それでも、付き合ってくれて助かった。私では色々と買い忘れが出てしまったところだった」


 その言葉通り、マリアベルは当初、保存食と生活用品を買い足す程度で良いと考えていた。しかし、フォンテーネは「驢馬車を使うなら」と厚地のマントや予備の水袋、貴重品を入れる為のベルトポーチなど、マリアベルの考えが及ばない事を提案してくれた。特に厚地のマント。驢馬車の荷台は狭く揺れる。昼間は尻の下に敷き、夜は身体や荷物を覆う、など、様々な使用方法がある。初夏だからといって「厚地のマントなど使わないだろう」とオークルへ来る前に処分してしまったマリアベルは、言葉少なに説明するフォンテーネのアドバイスに、己の浅はかさに気付いて反省した。


「明朝、早い時間にここを発つのだが、まだフォンテーネに恩を返し切れていないのが心残りだ」

「あたしはあなたに恩を売ったつもりはないわ」

「私が感じているんだ。なぁ、フォンテーネ。他に何か私に出来る事はないか? そうだ、今日の夕食をご馳走しようか。食べたいものはあるか?」

「いえ、さっきのパンケーキがあるから」

「うーん、しかしだなぁ……」

「あなたも大概しつこいわね」


 突き放したような言葉とは裏腹に、フォンテーネの声音は呆れた様な柔らかいものだった。いつかの日、フリーダもよく、食い下がるマリアベルにこうして声を掛けてくれた。「マリーったら、仕方ないわね」と。

 心に温かさと、それと同じくらい、いやそれ以上の凍えるような寒さを感じて、マリアベルは己の胸に手を充てて目を伏せた。


「……どうかした?」


 ぽつり、と心配そうな声。ハッとして目を上げると、フォンテーネがフードと口元を隠す布の隙間から、じっとこちらを見ていた。森の奥の湧き水のような澄んだ水色。そこには気遣わし気な色が滲む。その美しさに飲まれ、マリアベルは頭が真っ白になり、返答に窮した。それを何か誤解したのか、フォンテーネは己の口元へ手をやって少し思案してから、再び口を開いた。


「……手紙」

「え?」

「……クナートの、知人に……手紙を書くから、届けてくれないかしら」

「!! も、勿論だ! 任せてくれ!」


 ぱぁ、と顔を輝かせて大きく頷くマリアベルを見て、フォンテーネの瞳が僅かに和らいだ。急いでマリアベルは脳内で明日の予定を確認する。クナート行の驢馬車は確か……


「明日は朝6時頃に発つ予定だが、それまでに書けるだろうか?」

「ええ」


 こくり、とフォンテーネが頷く。


「明日の朝、出立時間前には持ってくるわ」

「分かった。――そうだ、もし良ければ、やはり今日は一緒に泊まらないか?」

「防犯意識はないの?」

「フォンテーネに対しては、ない!」


 昨日と同じツッコミの言葉。しかし、冷ややかというよりは呆れを含んだフォンテーネの言葉に、キッパリとマリアベルは否定の言葉を口にした。これには、さすがのフォンテーネも驚いたのか、二の句が継げずに黙り込む。ここぞとばかりに、マリアベルは言葉を重ねた。


「明日は朝早いしな。フォンテーネがどこに泊まっているのかは分からないが、ここまで来るのにも大変だろう?」

「……いや、そういう問題じゃ」

「手紙を書くのは、私が夕食をとっている間にでも、もちろん私が寝てからでも時間がある。自分で言うのもなんだが、私は夜は寝たら朝まで起きないくらい熟睡する性質だ。よく家の者にも呆れられた。だから、安心するといい」

「……」


 熱弁をふるうマリアベルに、フォンテーネは沈黙した。――実のところ、マリアベルはこの小さな恩人と、明日手紙を受け取ってすぐに別れてしまうのが惜しいと思い始めていた。共に過ごしたのは僅かな時間ではあるが、もっとたくさん話しをしたい、うちとけたい、と欲が出てしまった。思えば、フリーダ以外に気の置けない会話をする事が出来る相手は、マリアベルには今までにいなかったのだ。

 フォンテーネは黙ったままだ。厚かましいお願いだっただろうか、とマリアベルは眉を下げた。


「駄目だろうか?」


 その言葉が、逆に駄目押しだったのか、フォンテーネは片手を自身の頭に当てて小さく息を吐いた。


「分かったわ。でも、部屋は別にさせてもらうわよ」



* * * * * * * * * * * * * * *



 宿に戻った後は、別の部屋をとったフォンテーネと別れたマリアベルは、明日からの長旅に備えてゆっくりと湯浴みをした。


 フォンテーネの部屋は店員に頼んでマリアベルの隣の部屋にしてもらった。大分フォンテーネには渋られたが、ならば同室でどうか、と提案したらアッサリと身を引いた。……それはそれで寂しい。

 そのマリアベルとフォンテーネの二部屋は、元々家族や団体客で使用する部屋らしく、廊下以外、部屋同士の間の壁にも小窓付きのドアがついて繋がっていた。荷物を置きに部屋に入ってから気付いた。どうやら、同室にするしない、とマリアベルとフォンテーネが話すのを聞いた店員が、気を利かせてくれたらしい。「内側にドアがあるなんて聞いて無いわ」と苦い声を出すフォンテーネに、「いや、こっちの方が早朝に手紙の受け渡しをするのに便利だからちょうどいい!」「廊下で話していたら、他の宿泊客に声が聞こえて迷惑になるかもしれない」などともっともらしい理由を告げると、渋々了承してくれた。


 湯浴みから、一旦部屋に戻ったマリアベルは、何気なくフォンテーネの部屋へ繋がるドアの小窓から、彼女の様子をチラリと伺った。――室内だというのに、彼女はフードを被ったまま、文机に向かって座っていた。きっと、あれこれと手紙の文面を考えているのであろう。微笑ましく思いつつ、マリアベルは湯浴みで使用した布を窓辺に掛けて、食事をするために再び部屋を後にした。


 夕食は、冷たいポテトスープ、玉ねぎとベーコンツヴィーベルのパイクーヘン、昨日食べて気に入ったひき肉と野菜のマウル包み入り煮込みタッシェ、チーズ四種盛り合わせ、茹で芋の香草とチーズのソースクワーク添えを赤ワインで舌鼓を打ちながらゆっくりと堪能した。この町が、なのか、この宿が、なのかは分からないが、マリアベルの故郷ヘッケンシュタットの郷土料理に近いものが多く、どれも懐かしく、そして非常に美味しかった。



 数時間掛けて食事を終える頃には、大分夜が更けていた。それでも、マリアベルは赤ワインとつまみのチーズと白ソーセージ、干し果物を注文し、更に時間を稼いだ。


 フォンテーネはもう眠った頃だろうか、と残りの赤ワインを飲み下しつつ、マリアベルは上の階へ続く階段へ視線を動かした。押しが強い自覚はあるが、それでも一応、気は遣っている……つもりだ。フォンテーネが気にしないように、彼女が就寝したらそっと戻るつもりだった。

 時刻は深夜――日付が変わる少し前。そろそろ良いだろう、とマリアベルは支払いを済ませ、自室へと戻った。


 音を立てない様にそっとドアを開け、同じく閉める。それから、つい隣の部屋へ繋がるドアの小窓からフォンテーネの部屋の様子を窺う。――ベッドに彼女はいなかった。文机にも。驚いてマリアベルは小窓へ顔を寄せ、隣の部屋の様子を窺う。



 誰かが窓辺に立っていた。



 流れる様な銀糸の髪が、月明かりを弾いて僅かに青みを帯びて輝いている。こちらから見ると後ろを向いている為、表情をうかがい知ることは出来ないが、じっと夜空の星を見上げるその姿は、まるで何かに祈りを捧げているような、または、星と語らうような、幻想的で現実味の無い、まるで絵画のような美しさを持っていた。


 ――その小さな後ろ姿は、フォンテーネの背格好と重なる。


 もしや、と息を飲むのと同時に、その人物はハッとしたようにマリアベルの方を振り返った。柔らかに光る銀の髪が揺れ、驚きに見開かれた水色の瞳がマリアベルをとらえる。それと同時に、マリアベルも目をみはった。――彼女は草妖精クドゥクではなかった。銀細工のような髪の間から見える僅かに尖った耳からすると、恐らく半妖精ハーフエルフだ。

 だが、そんな事よりも、もっと驚くべき事があった。――その美しさだ。白く透き通った肌、幼さを残すふっくらとした薔薇色の頬、小さく整った鼻梁、小さな花弁のような唇……そして、澄んだ雪解けの湧き水のような淡い水色の双眸、それを縁取る長い銀色の睫毛……――どれをとっても、非の打ち所の無い美しい造形だ。こんなに美しい生き物がこの世に存在するのか、と心の底からマリアベルは驚愕した。



「……覗き見なんて、悪趣味だわ」


 固い声に、ようやくマリアベルは我に返った。


「す、すまない……! 本当に、申し訳ない……!!」


 慌ててマリアベルはドア越しにフォンテーネへ謝罪した。


「その、つい、いるかな、と……悪かった。いや、謝罪して許されるものではないのかもしれない。いっそ記憶を消し去る事が出来たら良いのだが……」

「よくない」

「え?」


 狼狽して言い募るマリアベルの言葉を、鋭くフォンテーネが遮った。きょとんとしてマリアベルが顔を上げると、窓辺に立ったまま、彼女は言った。


「……記憶を消し去る、事なんて」


 “出来るわけない”――そう言われると直感したマリアベルは慌てて言い訳した。


「え……え? あ、ああ。まぁそんな事、出来るはずも無いとは思っているんだが、でも、その、つまり、そのくらい申し訳ないというか……すまない」


 その言葉に、つい、とフォンテーネはマリアベルから視線を逸らして俯いた。先ほどのフォンテーネの言葉には、僅かに寂寥を含んでいた。しかし、マリアベルはそれを感じ取れるほど細かな感情の機微に敏感では無かった。


 しばし、沈黙が訪れる。鎧戸が開けられたままの窓からは柔らかな月光が入っており、フォンテーネの姿を淡く照らす。物語の中に出てくる精霊のような、儚く非現実的なその姿に、マリアベルは目を逸らせずに立ちすくんだ。

 その視線を感じたのか、フォンテーネは気まずそうに顔を上げてマリアベルを見た。


「何か用?」


 どうやら反省している事は伝わったのか、フォンテーネはマリアベルを責めることはせずに異なる事を口にした。ほっとしたマリアベルは、申し訳なさそうに頬を掻いてから答えた。


「用……うん、用、という程ではないが。もう眠っているかな、と。……ただ、それだけだったんだ」

「……」

「しかし、理由はどうあれ、フォンテーネの言う通り、覗き見だな」


 しょんぼりと俯いて自責の言葉を口にするマリアベルに、フォンテーネは小さく息を吐いた。


「……子どもじゃないんだから」

「う」

「明日、手紙を渡す約束をしたでしょう。黙っていなくなったりしないわよ」

「うぅ……返す言葉もない」


 懐いた相手がいなくなってしまわないか、無意識に確認していた事を見透かされた気持ちになり、マリアベルは赤面して肩を落とした。


「分かったら、早く休むといいわ。明日は早いんでしょ」


 気にしてる風でも無くそう言うと、フォンテーネはくるりと背を向けた。そっけない言葉だったが、却ってそれが有難かった。マリアベルは、うん、と小さく頷くと相好を崩した。


「ありがとう、フォンテーネ。おやすみ」



* * * * * * * * * * * * * * *



 翌朝、ぐっすりと熟睡していたマリアベルは、隣室へ繋がるドアのノックで目を覚ました。ベッドの上で半身を起こして寝惚け眼で目を擦り、辺りを見回しているマリアベルにドアの小窓から声が掛かった。


「もうそろそろ、起きた方が良いと思うわよ」


 あっ! と慌てて飛び起きる。勢い余ってベッドから落ちそうになりジタバタしていると、マリアベルの様子を察したのか、再び声が掛かった。


「今は4時。馬車の時間まであと2時間あるわ。……余程身支度に時間が掛かるわけではなければ、十分間に合うはずよ」


 寝起きの頭の為、言われた言葉の意味を理解するまでに少し時間を要してから、マリアベルはほっと胸を撫で下ろした。しっかり者の彼女が隣室にいてくれて助かった。礼を述べると、マリアベルはすぐに顔を洗い、身支度を整えた。クナートへは驢馬車では凡そ10日前後かかるという。忘れ物の無いように持ち物をチェックする。それから、この町に着いた時と同様に半身鎧ハーフプレートを身に着ける。最後に腰に片手剣を佩いてから、マリアベルは隣室に声を掛けた。


「待たせてすまない。開けても良いだろうか?」

「どうぞ」


 短い返答を確認してから、マリアベルは隣室へ繋がるドアを開けた。フォンテーネは既にフード付きの外套を身に着け、フードを被っていた。口元は相変わらず布で覆われている。もう自分は彼女の姿を見たのだから気にしなくても、とほんの少し不満に思いつつも、マリアベルは彼女の前まで歩み寄った。


「おはよう、フォンテーネ」

「……おはよう」

「先ほどは助かった。というか、フォンテーネには助けられてばかりだな。ありがとう」

「……気にしないで構わない」


 あまり温度の感じない返答。ただ、怒っているわけでは無く、元々こういった口調なのかもしれない。何となく、この愛想のない不器用な彼女の事が昨日より分かった気がして、マリアベルは微笑んだ。


「さて、忘れると悪い。手紙を受取ろう」

「……、……ええ。……これ」


 丁寧に封をされた羊皮紙。宛名も差出人も書かれていない。


「? これを、誰に届ければいい?」


 手紙の裏表を確認しつつ不思議そうに尋ねると、フォンテーネはやや躊躇ためらった後に答えた。


「クナート……港町クナートの、エルテナ神殿にいる、……アトリ、という人に」

「エルテナ神殿のアトリだな。分かった。必ず届けよう」


 宛名と差出人が無いのは、もしかすると何か理由があるのかもしれない。――そしてその宛先を告げてくれたという事は、少しは彼女の信頼を得たのかもしれない。何だか嬉しくなり、マリアベルは満面に笑みを浮かべた。


「フォンテーネ、いつかまた、必ず会おう!」


 力強くマリアベルは言った。フォンテーネはほんの僅かに目を丸くした後、視線を逸らした。


 だが、マリアベルは心のどこかで、またこの不思議な美しい少女と再会する気がしていた。



 それは、ただの期待や希望といった曖昧なものではなく、どこか確信的で揺るがないものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る