第2話 商業大国オークル



 ――彼女は今、ひたすら走っていた。



* * * * * * * * * * * * * * *



 彼女の現在の状況を語るには、やや歳月をさかのぼる必要がある。



 故郷ヘッケンシュタットを出てから1年の間、マリアベルは日銭を稼ぎながら逃亡生活を送っていた。


 成人するまで屋敷を出た事が無かったマリアベルだったが、元々が大胆で物おじしない性格だ。その上、気性は真っ直ぐで己の無知に素直だった。分からない事は「分からない」と言える彼女だからこそ、行く先々で人に恵まれ、時には住み込みで働いて、慣れない市井でも歳月を過ごす事が出来た。


 姉妹の様に育ったフリーダを、ただの消耗品の様に扱う父に絶望し、己の血を呪わんばかりの想いで家を出たマリアベルだったが、具体的に何をしたらいいか――そして己が一体何をしたいのかが分からず、ただ闇雲に故郷から離れようと突き進んでいた。焦燥は募るばかりで、それに加えて自己嫌悪の念も増していく。――何故彼女の身の上に気付けなかったのか、どんな思いで彼女は己に仕えていたのか、――彼女の事に考えも及ばず“服を取り換えて遊ぼう”と口にするなど、自分は何と浅慮な人間なのだろうか――。

 それでもマリアベルの為に己の身を挺して賊の目を欺いてくれた――そんな彼女に、何とかむくいたい。せめて、天の国にいる彼女が誇らしく思える人間でありたい。彼女が救ってくれたこの命を、誰かを救うために使いたい。――そんな思いが、旅を続ける間、日に日に強まって行った。



 逃亡生活を続けて、更に半年ほど経ったある日、マリアベルに転機が訪れた。



 とある町。住み込みで働いていた店の屋根裏部屋。


 窓から差し込む月光の中、就寝前だった彼女は唐突に天啓・・を得た。



 ――“マリアベルよ、幼き無垢なる迷い子よ”


 ――“近く、世界は危殆きたいに瀕する”


 ――“たけの心を我に捧げ、一人でも多くの者を救え”


 ――“真なる者・・・・を見付け出し、己の剣を捧げつかえよ”



 マリアベルは、頭の中に響いたおごそかな声にうたれ、しばらく動けずにいた。


 どれほど時間が経ったか分からない。風が窓を鳴らす音でようやく正気に戻ると、目の前のベッドの上にグロリオサの花が一輪落ちていた。――戦神ケルノスのシンボルの花だ。



 “一人でも多くの者を救う”


 その言葉に、マリアベルは急に目の前が明るくひらけた気がした。



 己の身を守るために死んでいったフリーダ。その彼女の為に、己に何が出来るのか、ずっとマリアベルは悩んでいた。己一人では無力で、ただ故郷から逃げる事しか出来ず、その事に苦しんでいた。



 ――フリーダが救ってくれた己の身は、他の誰かの――少しでも大勢の人々に役立やくだてる。



 マリアベルは藁にも縋る想いで翌日早朝にケルノス神殿へ駆け込んだ。前の日の夜の出来事を伝えると、すぐに司祭へ目通りする事が出来た。話しを聞いた司祭が言うには、声の主は恐らく間違いなくケルノス神であろう、との事だった。

 「貴女さえよろしければ、神殿は歓迎します」という司祭の言葉に、マリアベルは二つ返事で答え、そのままケルノス神の洗礼を受けた。



 その日から、約半年。マリアベルはケルノス神殿に住み込み、日々己の身体と精神を鍛え、剣の腕を磨き、神官仲間から様々な知識を得て過ごした。



 そんなある日。


「聞いたか? ワーゼンが妖魔モンスターの群れに襲われたそうだぞ」

「あの国は芸術大国で武力は殆ど持たないからな……碌な抵抗は出来なかったらしいな」

「近くの港町もやられたそうだな。一体どうなってるんだ」


 同僚が話している会話を、神殿の通路で耳にしたマリアベルは、すぐにピンときた――これが声……ケルノス神のお告げにあった“世界の危機”かもしれない、と。

 思ったらすぐに動く彼女は、その足で司祭の元へ行き、旅立つ許しを請うた。齢60を迎えた長い白髪を一つに束ね、立派な髭を蓄えた司祭は、彼女の言葉に眉間に深い皺を刻んだ。


「性急過ぎではないか? 我ら司祭にも、勿論他の神殿の司祭にも、未だ世界の危機という啓示は降りて来ぬ。今しばらく様子を見てはどうか」


 しかし、彼女の決意は揺るがなかった。


「司祭様、ケルノス様は天啓の際に私に仰られたのです。“世界に危機が近づいている”“一人でも多くの者を救う様に”と」

「うむ……」

「“真なる者を捜し剣を捧げ仕えよ”と。――私は、私の仕えるべき人を、剣を捧げる人を捜しに行きたい。この身を世のために使いたいのです!」

「しかし、マリアベル……お前はまだ若い。未だ神殿で鍛錬を積んでからでも遅くはあるまい」

「いいえ、司祭様。ワーゼンや、その近くの町が妖魔モンスターの群れに襲われたそうではありませんか。時は“今”なのだと、私の心が叫んでいるのです」


 真っ直ぐに向けられた金色が煌めく深緑色の瞳に、司祭は困った様に眉を下げ、何か言おうと口を開きかけるが、根負けした様に小さく首を横に振った。


「分かった。十分気を付けて行くのだぞ」

「! はい! ありがとうございます!!」


 パッと顔を輝かせた彼女は、勢いよく一礼すると踵を返して駆け出した。そしてそのまま自室へ戻ると、さっさと少ない荷物をまとめて神殿を後にしたのだった。



* * * * * * * * * * * * * * *



 そして時は、現在に戻る。



 ――彼女は今、ひたすら走っていた。



 芸術大国ワーゼンへ向かって、ではない。


 否、正しく言えば、元々はワーゼンには向かっていた……つもりだった。だが、ケルノス神殿を出て半年かけて辿り着いたのは、何故かワーゼンではなく、商業大国オークルだった。方角的には大体合ってはいるのだが、2国間は距離がある。

 季節は初夏。全身鎧フルプレートで旅をする訳には行かず、マリアベルが身に着けているのは半身鎧ハーフプレートだ。しかし、鎧は鎧。――蒸れる。弱音を吐きたくは無かったが、暑いものは暑い。まずは早急に宿を取って鎧を脱ぎ捨てて頭から水を被って汗と汚れを流したい――町に入った時から、否、町が見えた時から、マリアベルの心はその思いでいっぱいだった。


 しかし、慣れない町ゆえに――そう、決して方向音痴などではなく、慣れないからだ、と彼女はかたくなに思っている――細い路地に迷い込んだ。

 抜け出そうとあちこち歩いてみたが、どんどん賑やかな方角から遠ざかっている様に感じ、マリアベルは苦虫を噛み潰した。


 その時だ。


 周囲から鋭い殺気を感じ、彼女は腰にいた片手剣を抜刀し低く叫んだ。


「何者だ!」


 その声に応じる者はいない。代わりに物陰から投擲とうてきされた短剣が彼女の左腕を掠った。


「おのれ、こそこそと……!!」


 カッとなった彼女は短剣が投じられた方角へ足を踏み出す。直後、目の前に数人の黒い覆面姿の男が現れた。いるとしても2~3人と思っていた彼女は、己の浅はかさを悔やみつつもすぐに気持ちを立て直し、きびすを返して大通り目指して駆け出した。

 背後で剣を抜く音と、追ってくる気配を感じる。マリアベルは走りながら懸命に来た道を探す。しかし、細い路地は入り組んでおり、どこを見ても“見たことがある様な無いような”光景ばかりだった。


 ――とにかく、彼女はひたすら走った。


 しかし、そんな迷路のような路地にもかかわらず、追跡者は振り切られる事無く、それどころか徐々に距離を縮めて、マリアベルを追ってくる。

 来た道を辿ろうとするのを諦め、とにかく撒こうと我武者羅に路地を曲がりまくったが、逆に自分が今どこを走っているのかすら分からなくなり、マリアベルは混乱した。チラリと後ろを振り返ると、追ってくる者の影が見えた。



 ――駄目だ、追いつかれる。



 そう、観念した時。



 不意に、左手の細い路地から手が伸び、マリアベルの左腕の袖を引いた。


 追いつかれたのか、とぎょっと顔を強張らせたマリアベルは、その手を振りほどいて身構え、相手を確認した。――しかし、予想に反して路地にいたのは、小柄なマリアベルよりも更に小さな――人間の子どもか、あるいは草妖精クドゥク大地妖精ドヴェルグ程の背丈の人物だった。その人物は、この暑い気温の中にもかかわらず、何故かフード付きの外套をきっちり着込んでいる。更に、フードまで目深に被っており、口元を隠す布まで付けている。

 何か顔を隠さなければならない事情があるにしても、やり過ぎだ。見るからに暑そうだ。平然として見えるのは、余程外套の下が薄着なのか、それとも極度の寒がりなのか、――否、人型の妖魔モンスターという可能性もある。そのいずれにしても、とにかく見ている方が暑くなりそうだ。突っ込んで良いのか分からず、マリアベルは目が点のまま固まった。

 対してその人物は、マリアベルに振りほどかれ宙に浮かせたままだった右手で、己の奥の路地を指し示した。


「……こっち」


 小さな、鈴が鳴るような綺麗な声音。――女の子だ、と認識したマリアベルは、つい警戒を解き彼女の指し示した方へ目を向けた。


「あなたが進もうとしている先は、行き止まり」


 そう言うと、彼女はふわりと体重を感じさせない身のこなしで踵を返し、そのまま駆け出した。ハッとしたマリアベルは慌てて彼女の後を追う。

 先導してくれているのか、彼女はマリアベルがついて来ているか定期的に確認しつつ、細く入り組んだ路地をするすると駆け抜けていく。何とかはぐれず数分ほど走ると大きな広場に出た。


 いつの間にか夕暮れ時だが、煉瓦が敷き詰められた広々としたそこには食べ物を売る露店が所狭しと並び、賑やかな客寄せの声が上がっている。その光景に、マリアベルは安堵の息を吐きだした。それから、ふと見まわすと、先導してくれていた人物がマリアベルを置いてさっさと立ち去ろうとしているのが見えた。慌ててマリアベルは彼女を引き留めた。


「ま、待て! 待ってくれ!」


 恩人は、ゆっくりと振り返った。あれだけ走ったにもかかわらず、少しも乱れずに目深にフードを被ったままで、口元も外套の布で隠されている為、表情は見えない。だが、呼び止められた意味を把握しかねているのか、僅かに小首を傾げた。マリアベルはひとつ咳払いをすると、居住まいを正し、丁寧に一礼した。


「先ほどは、非常に助かった。どうか礼をさせて欲しい」


 すると、訝し気な声が返って来た。


「……別に、大したことはしていない」


 そっけない言葉に、尚もマリアベルは食い下がった。両手を広げ熱心に気持ちを伝える。


「いや、本当に助かったのだ。押し付けるつもりは無いが、せめて食事でも奢らせてもらえまいか」

「……」


 急に黙り込んだ相手に、マリアベルは目を丸くした。


「うん? どうかしたか?」

「手……」

「え?」


 外套から白く小さな手が覗いた。その驚くほど細い人差し指が、マリアベルの左腕を指した。不思議に思ったマリアベルが己の左腕を見ると、衣服が裂けて血が滲んでいた。――先ほど、短剣が掠った部分だ。すっかり忘れていたマリアベルは頭を掻いて笑った。


「ああ、問題ない。掠り傷だ」

「……」

「肉を食って寝れば治る」

「それは無いと思う」


 小さく突っ込まれ、マリアベルは相好を崩した。目の前の人物は、どうやら口下手で、人付き合いが苦手で、だが妙にお人好しで、心根の優しい人物に思えた。

 少し考えてから、マリアベルは口を開いた。


「申し遅れた。私はマリアベル。ベル・・と呼んでくれ」

「……」

「旅の途中なのだが、今日この国に来たばかりでな。宿の場所も分からないんだ。知っていたら教えてもらえないだろうか」

「……」


 フードを被ったままの恩人は、じっと黙り込んだままだ。少し不安を覚え、マリアベルは覗き込むように小柄な彼女の顔を見た。――フードの隙間から見えた大きな双眸は長い銀の睫毛に縁どられており、その瞳は人知れぬ森の奥にある澄んだ湖の様な淡い水色で、フードの隙間から入る僅かな光を反射して見た事も無いような美しい色を放っていた。何故か見てはいけない――まるで禁忌に触れたかのような心持こころもちになり、マリアベルは目を逸らそうとするが、吸い寄せられているかのように逸らせない。反対に、見られた事に気付いたのか、彼女は気まずそうに目線を逸らした。それから、マリアベルの視線を遮る様に手でフードを深く直しつつ、不貞腐れた様にぼそりと言った。


「……分かった。宿の場所は地図を書く。……お腹は減っていないから、食事は不要よ」

「そうか、分かった」


 無理強いは出来ない。残念そうにマリアベルが頷くのを確認した彼女は、ベルトポーチから羊皮紙を取り出すと、近くの家の壁を使ってサラサラと羽ペンを走らせた。即席にしては綺麗に描かれた地図を手渡しながら、彼女はマリアベルに口頭で補足した。


「……目の前にある果物の露店、そこから行く形で描いてあるから」

「すまない、恩に着る」

「……気にしないで構わない。じゃあ、あたしはこれで」

「ああ! また会った時は、何か礼をさせてくれ!」


 羊皮紙を受け取り大きく頷いて笑顔で言うと、フードを被った彼女はほんの僅かに肩を竦めた。呆れた、という事かもしれないが、それでも最後は拒否の言葉は無かった為、マリアベルは満足して破顔した。


 そのまま、羊皮紙を手に意気揚々いきようようと歩き始めると、背後から再び声が掛かった。


「……ねぇ」

「うん? 何だろうか」

「逆」

「え」


 目を丸くして立ち止まるマリアベルに、彼女は目深に被ったフードの上から片手で頭を押さえて、深々とため息を吐いた。


「……ついてきて」



* * * * * * * * * * * * * * *



 商業大国オークルは、町の中心部に大きな広場があり、様々な露店が立ち並ぶ。それを取り囲むようにしてこの国自慢の商人が経営する多種多様な店が軒を連ねる。その外側に、主に観光客向けの宿場が、そしてその外側に商人向けの安宿が、更に外側にこの国の住民の家々が建っている。

 住民の居住区内に、四大神の神殿がある。北に戦神ケルノス、南に豊穣神エルテナ、東に至高神アウラス、そして西に智慧神ティラーダ。この位置は天に住まう神々が座る位置とされ、どの町でも同様の並びとなる。



 フードを被った人物に先導されて辿り着いた先は、“驢馬車エーゼットラングの車輪亭”という冒険者の宿だった。どっしりとした見るからに厚い木の扉。金属製の吊るし看板代わりに車輪が一つ吊るされている。日に焼けた煉瓦で組まれた壁を見れば、この店がどれだけ長い間この場所にあったかが一目瞭然だ。



「おぉ……すごいな! これが冒険者の店!!」


 目を輝かせて感嘆の声を上げるマリアベルに、フードを被った人物は少しの間を置いてから小さく言った。


「じゃあ、あたしはこれで」

「えっ いや、せっかくここまで来たのだから、何か食べよう!」

「いえ、結構よ。それより、あなたは早く宿に入った方が良い」


 その言葉の意味を把握し損ねて、マリアベルはきょとんとした顔で首を捻った。すると、呆れがにじんだ声で彼女は続けた。


「あなた、さっき、襲われてたでしょう。冒険者の店なら他の宿よりそこそこ安全だわ。それから、この宿は名前の通り、驢馬車の停泊所でもあるの。あなたがどこへ向かっているかは分からないけど、行きたい方向の馬車が出ているか宿で聞いてみると良いわ」


 静かな声で淡々と語られる内容に、マリアベルは驚き舌を巻いた。先ほど会ったばかりだというのに、この人物はマリアベルの状況や性格を的確に見抜いている様だ。背丈からして人間の子どもといった印象だが、案外フードの中は成人した草妖精クドゥク大地妖精ドヴェルグかもしれない。彼ら種族は人間の子どもと似た様な背丈と聞いた事がある。だが、大地妖精ドヴェルグは幅広い胴を持ち、もっとガッシリとしているはずだ。となると、草妖精クドゥクなのかもしれない。


 そんな事をつらつらと思っていると、彼女の方は話しが終わったと判断したのか、小首を傾げた後、きびすを返して立ち去ろうとしている。ぎょっとしてマリアベルは引き留めた。


「待て待て待て! 待ってくれ!」


 手を伸ばして彼女の肩に置くと、その薄さにマリアベルは驚いた。逆に、彼女の方もマリアベルの手が肩に触れた瞬間、びくりと小さく震えた。


「あっ すまない。その……もう少し、話しをしたいんだが……駄目だろうか」

「? 話し?」

「うむ、そうだ。私は先ほどこの国に着いたばかりで、右も左も分からない。聞くアテも無くてどうしたものかと思っていたところだ。貴女は少なくとも私よりはこの国の地理に明るい様だし、簡単で良いから教えてもらえないだろうか?」


 ずずいっと笑顔で前のめりになると、フードを被った人物はやや引きつつも、断り切れないと悟ったのか、「言っておくけど、あたしもそんなに詳しくないわよ」と言いながらも渋々と頷いた。



 驢馬車エーゼットラングの車輪亭の扉を開けると、ドアに取り付けられたカウベルがカロン、と丸い音を立てた。入ってすぐにこじんまりとした酒場兼食堂。正面にはカウンター。中で店番の店員が入って来た2人に向けて柔和な笑みを浮かべて挨拶の言葉を投げかけて来た。その奥には恐らく厨房があるのだろう。夕食時に備えてなのか、野菜を煮込んだ甘い香りが漂ってくる。右手には楽器の置かれた椅子がある。恐らく夜は吟遊詩人が演奏に来るのだろう。左手には上の階へ続く階段と、古びた板張りの掲示板。日焼けした羊皮紙が数枚掲示されているが、どれも長期間手つかずの様子だ。


 ひとまず、カウンターに近いテーブル席に行くと、マリアベルは振り返ってフードの人物へ声を掛けた。


「まずは座ろう」


 少し躊躇っている様に見えた彼女だったが、僅かに俯くと黙ってマリアベルの指し示した席に座った。それを確認してから、マリアベルもはす向かいの椅子に腰を下ろす。


「すみません! 注文を」

「はい、ただいま」


 すぐにやって来た店員に、マリアベルは嬉々として注文を始めた。


「えーっと、冷たいポテトスープ、ベーコン入りオニオンパイ、子牛肉のワインビネガー煮込みを2つ……あ、いや、3つ! それと、――ん? ひき肉と野菜のマウル包み入り煮込みタッシェがあるのか! それを2つ。あと、白ソーセージ。これを5本。とりあえず一旦これで。ああ、飲み物は赤ワインを」

「畏まりました」


 店員が頷いたのを確認してから、はたとしてマリアベルはフードの人物へ目を向けた。


「そうだ。貴女も何か注文しないか?」

「え、さっきの、あなたが一人で食べるの?」

「そうだが?」

「……」


 黙りこくった相手に、マリアベルは不思議そうにこてんと首を倒した。それから、彼女が“自分の分の注文もしたと思っていたらマリアベルの分だった為、注文を言い出せずにいる”とポジティブな誤解をして爽やかな笑顔でフォローした。


「ああ、足りなかったらまた注文するつもりだったから、」

「た、足りない??」


 小さく、だが軽く裏返りそうな仰天した声を上げる彼女に気付かず、マリアベルはうんうんと頷いた。


「ひとまず私が頼んだもので取り分けようか。飲み物はどうする? 酒が良いか?」

「え、あ、いえ……」


 言い淀む彼女を置いて、マリアベルは店員を見上げてどんどん話しを進める。


「君、赤ワイン以外は何を置いている?」

「白ワイン、エール、林檎酒シードル蜂蜜酒ミード、ブランデーがございます」

「そうか、ありがとう。――どうする?」

「えっ?!」


 小さく吃驚とした声を上げた後、外套の裾を手でいじりながら、彼女は小声ながらキッパリと断りの言葉を口にした。


「あ、いえ、お酒……は、飲まないわ」

「そうか? じゃあ、果実水でも頼もうか。君、よろしく」

「畏まりました」


 気分を害する事もなく、マリアベルはあっさりと店員に注文を伝えた。それから、小さな己の恩人に向き直ると、改めて礼の言葉を口にした。


「本当に助かった。良ければ、貴女の名を教えてもらっても良いだろうか?」

「……」


 マリアベルの言葉に、彼女は俯いて沈黙した。――名を口にする事を躊躇っている様に見える。もしかしたら、この暑い中フードで顔を隠しているのも、何らかの訳アリだからなのかもしれない。


「聞いてはまずかっただろうか」


 疑問を口にすると、彼女は言葉を探す様に俯いたまま曖昧に首を動かした。それを見たマリアベルは、ひとつ頷くと、「ならばこうしよう!」と力強く言った。驚いた彼女が顔をフードの中からマリアベルの方を見たのを確認してから、マリアベルはにっこりと笑った。


「フォンテーネ、というのはどうだろう」

「……え?」

「フォンテーネ。私の故郷の古い言葉で“泉”という意味を持つんだ。貴女の瞳は綺麗な水色だったから、ピッタリだと思うんだが、どうだろう?」

「え……え??」

「悪くなさそうだな! うん、よし!」

「え」


 呆然とした小さな声を華麗に無視スルーをして、マリアベルは満面の笑顔を浮かべた。丁度そこへ、店員が山ほどの料理を運んでくる。机の上には瞬く間に様々な料理が所狭しと並んだ。


「では! フォンテーネに感謝を! 乾杯!!」

「え? あ、……え?」


 ついて来れていない彼女――マリアベル命名“フォンテーネ”は、――フードで顔は見えないが、恐らく間違いなくポカンとした表情で、マリアベルの勢いに流されるままに、グラスを手に乾杯をした。かちん、とグラスを合わせた後、マリアベルはくいっと赤ワインをグラス半分ほど飲み干した。


「ああ、美味い。この赤ワインは果実味が豊かで素晴らしい。渋みと酸味のバランスも良い。何杯でもいけそうだ」


 赤ワインに舌鼓を打っていると、店員が料理の取り分け用の小皿を持ってきた。店員に礼を言ってから、マリアベルは視線をテーブルの上に向けて目を輝かせた。


「これはまたどれも旨そうだ! フォンテーネ、貴女は何を食べる? 好みはあるか? お任せでも構わないが」

「え、いえ」

「子牛肉のワインビネガー煮込み、なかなかいけそうだぞ。スパイスの良い香りがするし、大きな肉の塊がたくさん入っている」

「あの、本当に、」

ひき肉と野菜のマウル包み入り煮込みタッシェはどうだ? 私の住んでいた地方ではよく食べられている料理で、私は好きだ」


 幼い頃、使用人の部屋へもぐりこみ、フリーダと共にひき肉と野菜のマウル包み入り煮込みタッシェを一緒に食べた日の事に思いを馳せ、マリアベルはほんの僅かに遠い目をした。彼女の心の機微に気付いたのか気付いていないのか、フォンテーネは少し沈黙した後、手にした果実水入りのグラスに目を落とした。


「……お肉は、あまり食べない」

「そうか。じゃあ、ひとまずポテトスープを飲むといい。他にも何か食べたいものがあったら、遠慮せずに言ってくれ」


 こくり、と小さく頷くフォンテーネに、マリアベルは椅子から半分立ち上がり、テーブルの端に置かれたスープを彼女の前に置き、座り直した。それから、食前の祈りを戦神ケルノスへ捧げる。それを見たフォンテーネは小首を傾げた。気付いたマリアベルも小首を傾げる。


「どうかしたか?」

「今の……」

「ああ、私は戦神ケルノスに仕える者でな」

「……」

「もしかして、食事に対してなら豊穣神エルテナの方が道理に合ってそうだ、とか思ったか?」


 笑いながら問うと、フォンテーネが小さく息を飲む気配がした。図星か、と更に笑いながら、マリアベルは続けた。


「私も最初、どうかと思ったんだが。――けど、やはり私が信奉するのは戦神ケルノスだし、日々の糧を得る事で私の身体が立つ力、歩く力……そして、走る力や戦う力を得る事が出来るのだから、戦神ケルノスに祈りを捧げてもおかしくはない。だからまぁ、気にしない事にした」


 あっけらかんと言うと、マリアベルは手近にあったひき肉と野菜のマウル包み入り煮込みタッシェの皿を手元に寄せて、ぱくぱくと勢いよく食べ始めた。彼女の、見ていて爽快になるほどの食べっぷりに、カウンターに立つ店員もまんざらではなさそうだ。

 フォンテーネは少し躊躇った後、口元を覆っていた布をゆっくりと外した。マリアベルは気配でそれを察したが、自分が気付いた事が彼女に知れると、再び布を付けて料理や飲み物に手を付けなくなる気がして、気付かないふりをして美味しい料理を食べる事に集中した。



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