第二章

第1話 自由の代償



 中央大陸のほぼ中央に位置する水の都ヘッケンシュタット。テイルラット最大の面積と貯水量を誇るエトラ湖を持つその国は、緑溢れる美しい国だ。



 既に日が昇り、辺りの木々は朝露に濡れた若葉が輝いている。そんな光景を自室の窓を開けて見下ろしながら、マリアベル・ニナ・ティタンブルグは小さく息を吸って吐いた。


 ティタンブルグ家の一人娘である彼女は、今日で15歳を迎える。真っ直ぐな鈍い金色の長い髪と、弧を描く整った眉筋、深緑色だが日の光の下では虹彩の中に金色がきらめくという不思議な、そして強い意志を宿した双眸を持つ、小柄だが生命の光りが輝くような少女だ。



「いよいよ、か」



 ポツリと呟かれたソプラノは、緊張は一切含まれておらず、かといって物憂げでも、逆に歓喜もこもってはいない、まるで今日の天気の話しをする様な、極めて平常通りの呟きだった。


 しばらくすると、不意にドアがノックされた。あらかじめ分かっていたのか、動じる事無くマリアベルが応じると、扉を開けて1人の少女が大荷物を抱えて入って来た。その姿を見たマリアベルは相好を崩し、すぐに彼女の傍まで歩み寄った。


「フリーダ、いくらなんでも持ち過ぎだぞ。他の者は何をしているんだ」

「あっ いいえ、マリアベルお嬢様! 私、あっ わたくし、が、今日はどうしても私が全部持って行くと……あっ! わたくし・・・・が!」

「普段通りでいいよ。それに、私の事はいつも通りに呼んで欲しいんだが?」


 肩を竦めつつ、マリアベルは彼女の手から有無を言わさずに荷物を受け取って目を丸くした。


「これは……いささかやり過ぎではないか?」

「いーえ! お嬢様は」

マリー・・・

「マ、マリーは」

マリー・・・

「……マ、マリーは、もっと着飾って良いと思うの。だって普段は、動きやすい恰好ばかりでしょう?」

「普段からコルセットやクリノリンなんぞ付けていられるか」

「もう……でも、今日は駄目だからね」


 フリーダと呼ばれた少女は少しむくれた後、呆れた様に笑った。金茶色の長い髪と暗緑色ダークグリーンの瞳の、マリアベルとよく似た背格好。年齢は彼女の方が少しだけ上になる。8年前からメイド見習いとしてマリアベルの屋敷で奉公している。年頃が近いせいか、はたまた背格好が似ている事で親近感が湧くからか、使用人の中でマリアベルとは一番の仲良しだ。幼い頃は服を交換して入れ替わり、他の使用人達を驚かせて叱られたりもしていた。

 そもそも、マリアベルはこの屋敷の一人娘ではあるが、父とも母とも、あまり接する事が無い環境だった。父は元々留守がちで、母は自身の服飾品や宝石と、趣味の観劇以外には興味が無く、屋敷内でも顔を合わせる事は殆ど無かった。

 それに加えて、マリアベルはなんと物心ついてから一度もこの屋敷の外へ出た事がない。それは“両親の過保護”というものとは異なる、マリアベルにとっては違和感のある、そして息苦しい程に窮屈な世界だった。

 そんな中、マリアベルにとってこのフリーダという少女を含めた使用人たちは、彼女に対して親身に接し、時には叱り、共に泣き笑う事の出来る、家族同様――否、家族以上の存在だった。


 そのフリーダは、手慣れたものでマリアベルに美しいドレスをテキパキと着付けて行く。手を止めずに、感慨深げに彼女は呟いた。


「今日は、いよいよマリーの婚約披露と社交界デビューの日だね」

「そうだな」


 大人しく着付けられつつ、マリアベルはあまり期待のこもっていない声で応じた。


 ――15歳になる今日、マリアベルは社交界デビューを飾る。そのパーティで、幼少期から婚約中のルーエンハイム伯爵家三男坊のウィリバルトと正式に婚約披露を行うのだ。

 とはいえ、マリアベルは特に何の感慨もいだいてない。お相手とは5歳頃に一度顔合わせをしているのだが、当然ながら全く記憶に無い。噂では漆黒の髪に瑠璃色の瞳の、整った容貌を持つ偉丈夫と聞く。――かといって噂話の王子様に夢を見る気にはなれなかった。どちらにせよ、彼女が幼少のみぎりに双方の家の主で結ばれた契約により、彼と夫婦になるのは本人同士の意思とは関わりなく、義務付けられているのだ。

 しかし、フリーダは至極嬉しそうに笑いながら、わくわくと声を弾ませた。


「素敵な方なんですって。先日、奥様とお茶をされていたリンデン男爵夫人がすごく羨んでた」

「リンデン……ああ、あの家も私と同じ年頃の令嬢がいたか」

「うん。社交界でも大人気みたい」


 仕上げのリボンを丁寧に結びつつ、フリーダはにこにこと嬉しそうに頷いた。マリアベルより8つ年上のウィリバルトは既に社交界デビューを果たしている。フリーダが聞いた噂話しでは、ウィリバルトに婚約者がいるという事は周知の事実ながら、彼が顔を出す夜会は普段よりも年頃の女性が多いのだとか。――それでいて、彼には浮いた噂は何一つ無いという。


「本当に悪い噂は一つも聞かないもの。きっとマリーの素敵な旦那様になってくれるはずだわ」

「うーん、あまりピンと来ないんだが……」


 23歳の男子がそれで健全なのか? とは口に出さず、マリアベルは肩を竦めた。――そこで、普段の様に身体が動かずに苦い顔をして己の身体を見下ろす。年齢の割に豊満な双丘と丁寧に絞めたコルセットでくびれた腰。クリノリンで腰回りから下はボリュームがあり、若く瑞々しいマリアベルの肢体を魅力的に見せている。フリーダは感嘆のため息を漏らすが、マリアベルの感想はそっけないものだった。


「やはり動きにくいな」

「我慢するの」

「フリーダ、服を交換しようか」

「マリーったら! 真顔で何を言ってるの」


 2人は顔を見合わせて、一瞬の間をおいて笑い出した。――ひとしきり笑った頃、部屋の扉がノックされた。筆頭執事のエーベルハルトだ。


「お嬢様、そろそろお時間です」

「ああ、分かった。すぐ行く」


 応じると、彼は一礼してすぐに部屋から辞した。扉の外でマリアベルを待つのだろう。彼を目で送った後、マリアベルは使用人であり親友の少女と向かい合った。


「ウィリバルト様は我がティタンブルグ家の婿に入る事になっている。つまり、私は今後もこの屋敷で暮らすのに変わりはない。――これからもよろしく頼むぞ、フリーダ」

「はい、勿論です。マリアベル様」


 クスリと笑ったフリーダは大きく頷いた。笑顔を返し、マリアベルは自室を後にした。



* * * * * * * * * * * * * * *



 部屋の外には、果たして筆頭執事エーベルハルトが待っていた。マリアベルの気配に気付くと、彼はすぐにこうべを垂れる。生まれた頃から乳母と共にマリアベルの世話を任されていた彼の頭は殆ど白髪だが、キリリとした立ち姿で年齢より10は若く見られそうだ。しかし、実際は今年で50を超える年齢だ。

 彼は、幼少期より見守っていた娘に近い年齢のマリアベルの晴れ姿に、彼女に気取られない様に顔を伏せたまま誇らしげに目を細めた。鈍感な彼女は小首を傾げた。


「なんだ、そう畏まるな。普段通りでいい」

「そういう訳にはまいりません、お嬢様。――今日で貴女様は15歳。さすがにもう、庭で木登りをしたり、使用人の子と喧嘩してボロボロになったり、どこからか迷い込んだ子犬を勝手に飼ったり、泥だらけになって屋敷から抜け出そうとしたり、使用人部屋に潜り込んで眠ったりなど、されますまい」

「……いや、うん。もうしない、と思うぞ」

「ご立派になられて、エーベルハルトは嬉しゅうございます」


 引き攣った顔で頷くマリアベルに、彼は顔を上げて嬉しさというよりは念押し・・・する様に言うと、そのままきびすを返して先導する様に歩き始めた。マリアベルもほんの少し笑むと、黙ってその後ろをついて歩き始めた。



 行きついた先は東の客間だった。てっきり中庭を望む大広間に向かうと思っていたマリアベルは、目を丸くした。エーベルハルトは部屋の中央にあるテーブルの椅子を引き、彼女を座らせた。


「まだルーエンハイム様がおいでになるまでにはお時間がございます。お着きになられた後はスケジュールが詰まっており、お嬢様がごゆっくりされる事は出来ないでしょう。短い時間ですが、今はここでお待ちください。軽食をお持ちしましょうか?」

「そうだな。じゃあ、頼む」

「では、給仕に伝えてまいります。お嬢様はここでごゆっくりとお待ち下さい」


 慇懃に答えると、エーベルハルトは一礼をして去って行った。部屋の中で一人になると、マリアベルは慣れない服装で凝った肩をほぐそうと伸びをしようとしたが、どういう造りになっているのか未だにわからないひらひらとしたドレスを破いてしまいかねないと思い直し、小さく息を吐いた。このままぼんやりとして暇をつぶすのもいいが、せっかく時間があるのだ。今一度、己の婚約者殿について想像を巡らせる。



 ――ウィリバルト・ハインリッヒ・ウル・ルーエンハイム。


 ルーエンハイム伯爵家の三男坊で、マリアベルが5歳の頃に暫定の婚約が結ばれた。そもそも、ルーエンハイム家とティタンブルグ家は遠縁にあたり、ティタンブルグ家が男子に恵まれなかったため、三男坊のウィリバルトに婿入りの話が上がったのだ。

 ルーエンハイム伯爵はヘッケンシュタット近くの地方都市リヴィエで、文武両道に名高い貴族である。主のベルンハルトは子だくさんで、妻スザンナとの間にはウィリバルトを含め男女5人の子がある。長男のウォルフガングは公明正大で領地では信望が厚い。遠方の東国オリントから妻を娶り、跡取りとして立派に務めている。

 長女のマグダレーナは城塞都市テオラドへ嫁いでおり、次男のハンスは商才がある為領地の財務を担い、次女のヒルデガルドは――確か、マリアベルと同じ年頃だったと思う。


「ピンと来ないな」


 口に出してから、思っていたよりもずっとつまらなそうな音だった事に気付き、マリアベルは思わず周りを見回した。誰もいない事を再確認し、ほっと息を吐く。それから、今更ながら違和感にやや柳眉を顰めた。仮にもマリアベルはこの屋敷の令嬢で、就寝前でもなく、人払いをしていないにも関わらず、ここまで長時間1人になる事は珍しい。――幼少期、執事のエーベルハルトにお転婆を諫められ、反省文を書かされた時でさえ、傍らには親友フリーダがいたのだ。一度感じた違和感はすぐには拭えず、部屋の外を確認すべく、マリアベルは腰を浮かせた――その時、部屋の外から細い悲鳴が上がった。直感でフリーダの声と判断し、マリアベルは部屋のドアを乱暴に開け放ち、ドレスをたくし上げて走った。すると、間もなく屋敷中央へ繋がる廊下の向こうに、エーベルハルトがこちらに背を向け立っているのが見えた。反射的にマリアベルは声を上げた。


「何事だ!」

「部屋の中へ!」


 気付いたエーベルハルトがハッとした様にこちらへ目線を向け、素早くマリアベルに片手を振って制した。それ・・に、更にマリアベルは強烈な違和感を受けた。――主語が抜けている。彼は慇懃で、会話上で言葉を省略する事は少ない。略するとしたらわざと・・・だ。嫌な予感がして、マリアベルは彼の制止の声を無視して足を踏み出した。


「何があった」

「部屋へお戻りください!」

「何があったと聞いている!」

「来てはなりません!」


 マリアベルが近づくのに対し、かたくなに己の後方を見せまいとするエーベルハルトに、彼女は「どけ!」と鋭く言い放った。

 その気迫にたじろいだのか、彼はよろける様に道を空けた。その先に見えた光景に、マリアベルは瞠目どうもくして叫んだ。



「フリーダ!?」



 大広間への扉の前で、先ほど確かに会話したはずの彼女が、沈黙したまま床にうつぶせに伏していた。



 信じがたい光景に、マリアベルの声が震えた。


「これは……これはなんだ!? 何故……何故、フリーダが……」


 彼女の身体の下の床に敷かれた臙脂えんじ色の絨毯に赤黒い染みが広がる。その量と、ぴくりとも動かない姿から、既に事切れている事は容易に想像できた。しかし、マリアベルは信じる事が出来ず、彼女の元へ駆け寄り抱え起こそうとして気付いた。先ほどまではマリアベルと同じような長さだった彼女の金茶色の長い髪がひと房、不自然に切り取られている。そして、何より許容しがたい事実に気付いてしまった。フリーダはマリアベルが今身に着けているドレスと、寸分たがわぬものを着用しているのだ。――そこから考えられる事に、マリアベルは怒りと絶望で眩暈めまいを覚えた。「認めたくない」と悲鳴を上げるのをギリギリこらえ、押し殺した声で傍らに立つ筆頭執事に問う。


「答えろ……エーベルハルト。これはどういう事だ?」

「お嬢様……」

「答えろ!」


「騒々しいぞ、マリアベル」


 この状況にも関わらず、全く落ち着いた低い声が突然会話に割って入った。エーベルハルトが最敬礼を取り壁際に下がる。対するマリアベルは目尻を赤く染めたまま、キッと声の主を睨んだ。


「お父様」


 金の髪を後ろで束ねた壮年の男性――ティタンブルグ家当主であるテオバルト・アダルブレヒト・フォン・ティタンブルグは、娘の視線にチラリと目を向け、すぐに執事に声を掛けた。


「エーベルハルト、賊はどうした」

「現在、腕に覚えのある者が追っております」

「そうか。ならば、お前はそれ・・を早く片付けろ。もうすぐルーエンハイム家の馬車が到着するはずだ」

「?!」


 仰天してマリアベルは父から腕の中のフリーダを守る様に抱き締めた。その姿に目を向けると、彼は駄々をこねる子どもに対するように呆れた口調で言った。


「マリアベル、お前は早く着替えてきなさい」

「お、お父様」

「今日がどんな日か、分かっているだろう?」

「お父様……」

「エーベルハルト、早く掃除しろ。あと、それ・・は人目に触れぬよう処理を。……ああ、そうだ。を早めに見繕みつくろわねばな」

「お父様!!」


 両耳を塞ぎたくなる実父の言葉に、マリアベルは悲鳴に近い声を上げた。


「何を……何を仰っているのです?! フリーダですよ?! この屋敷の使用人で、私の……私の大切な友人の、」

「お前はまだまだ幼いな、マリアベル」

「な……っ」

それ・・は元々、こういった時の為に貧民街スラムで買い求めたモノだ。お前の傍に置いたのは、お前の所作を出来る限り身に着けさせる為に過ぎない。それを“友人”とは……全く、馬鹿馬鹿しい」

「は……な、なにを、そんな……勝手に」

「娘を守るのは親の義務だろう? それに、それ・・も理解した上だ」

「え?」

「お前の身代わり、影となるよう、当初からそれ・・には話してある。今回その役目を果たしただけだ」


 わずらわし気に言い放たれた己の父親の言葉に、マリアベルは目の前でチカチカと火花が散った気がした。そして、気が付くと喚き声をあげて父親に掴みかかっていた。火事場の馬鹿力とも呼べる拳は、しかし、彼女の父親の身にも、そして心にも届く事は無かった。


「お嬢様……!」


 慌ててエーベルハルトが父娘の間に割って入ろうと足を踏み出した。それをテオバルトが制する。


「構わん。早くそれ・・を片付けろ」

「し、しかし……」

「男子として嗜み程度には武術の心得はある。駄々をこねる娘一人はあしらえる」


 いうや否や、暴れるマリアベルの片手を背中に捻り上げた。普段の動きやすい服装であれば、それでももう少しは抵抗が出来たと思われるが、布地がたっぷりと使われたドレスではどうにもならなかった。目の端で、エーベルハルトが他の使用人を呼びに行く姿が見えた。使用人の何人かは騒動に気付きこちらへ向かってきていた様で、すぐに男手が集まる。


「絨毯はもう使い物にならん。それ・・ごと処分しろ。――マリアベル、来なさい。お前は着替えるんだ」

「やめろ!!」


 父親の言葉は全く頭に入っていないのか、彼女は小さなむくろを取り囲み絨毯で包もうとする使用人たちに向かって吼えた。


「フリーダに触るな!!」


 怒りのあまり、双眸に涙が滲む。普段は深緑色の地味な色彩の瞳が、涙の水分によって光が強く反射し、散りばめられた黄金が星屑のようにきらめき、使用人たちは彼女の鮮烈な表情に目を奪われ手を止めた。


「全く……致し方あるまい」


 彼女の背後で、低い声が呆れた様に言った。その直後、マリアベルは後ろから首元に衝撃を受け、一つ呻くとその場に崩れ落ちた。倒れる前に、恐らく背後の父が身体を支えたのだろう。固い床の感触は味わわず、狭まって行く視界の中で臙脂えんじ色の絨毯が小さく形を変えていくのが見えた。



* * * * * * * * * * * * * * *



 ――結局その日の予定であった婚約披露と社交界デビューは、主役であるマリアベルが体調を崩した事を理由に延期となった。彼女の父、テオバルトは何とか早く予定通り進めたいようだったが、メイド長を筆頭にハウスメイド達が「まだ人と会える状態ではない」と口をそろえて庇った。実際、フリーダが賊に襲われて彼女の身代わりとして命を落とした際のマリアベルの取り乱しようはひどいものであり、賊もまだ捕えられていないという状況で、テオバルトは彼女たちの言葉に渋々ながら引かざるを得なかった。



 そして、3日ほど経ったある月明かりの夜。


 筆頭執事エーベルハルトが青い顔をして、主であるテオバルトの自室を訪れた。――彼の手にはリボンで結ばれた鈍い金色の長い髪がひと房、もう片手には羊皮紙が握られていた。


「だ、旦那様……お嬢様が、お嬢様がどこにもいらっしゃいません」

「何だと?!」


 テオバルトは目を剥いて、深く座っていたソファから慌てて立ち上がった。


「置手紙が――こちらに」


 そういう彼の手から羊皮紙を奪い取り、テオバルトは文字に目を走らせた。――間違いなく娘の筆跡だ。そこには流れる様な字体でこう書かれていた。



 “家を出ます。捜さないで下さい。


  ティタンブルグ家の娘、マリアベルは死んだものとお考え下さい”



「あの痴れ者が……!!」


 ぐしゃり、と羊皮紙を握りつぶし、テオバルトは忌々し気に押し殺した声を発した。そしてすぐに執事に鋭い目を向ける。


「お前と、メイド達。――誰も気付かなかったのか」

「夕方にはお姿を拝見しております。ご夕食は召し上がられました。ですが、大変憔悴されていらしたご様子で早めに休まれると仰せになり……心配したメイド長が、つい先ほど様子を見にマリアベル様のお部屋へお伺いしたところ、こ、これが……」


 浮いたままだった片手を、金の髪を握るもう片手に添え、エーベルハルトは声を震わせた。その柔らかく光を弾く髪は、若かりし頃のテオバルトと同じ色――まごう事無きティタンブルグ家一人娘のものだった。


「捜せ。――すぐに、追え。エーベルハルト、お前も行け!」

「は、……は! 畏まりました! では、失礼致します!」


 礼もそこそこに、エーベルハルトは主君の部屋を辞した。残されたテオバルトは、ギリリ、と奥歯を噛みしめると、感情のままに執務机を拳で殴り付けた。



 ――そして、更に10日が経った。


 屋敷周辺から町の方まで、ありとあらゆる手を使って隅々までくまなく捜したが、マリアベルは姿どころか、有力な目撃情報すら無い。屋敷の使用人たちは、彼女が既にこの国を出たのではないか、いや、姉妹の様に仲の良かったフリーダを失った悲しみからどこかで身を投げたのではないか、など、不安を口にする者が増えてきた。そんな言葉を耳にする度に、エーベルハルトは使用人たちを厳しくいさめた。


 ――そのやり取りは、否応なしに当主テオバルトの耳にも入り始めた。


 使用人たちは給仕や掃除などはそれぞれプロだが、人の捜索や情報収集は素人だ。かといって、市井の冒険者を雇うなど、身内の恥をさらす様なものだ。――何より、マリアベルの事をあれこれ・・・・と詮索されたくは無い。

 止む無く彼は、屋敷の3階東の一角の数部屋に逗留する、未来の婿――娘と結婚する予定だった、ウィリバルトの元を訪ねた。テオバルトにとっては幸い、部屋の中にはウィリバルトしかいなかった。手早く掻い摘んで事情を説明し、協力をするよう告げる。その言葉に、ウィリバルトは少しも表情を崩さずに穏やかな表情で言葉を返した。


「身代わりの女性の身を憂いての事であれば、その内戻ってくるのではありませんか?」

「いや、いなくなったのは10日前だ。あれから全く情報がつかめない」

「仰ることは分かりました。とはいえ、私は片田舎の伯爵家の三男坊です。協力しようにも、こちらの屋敷の皆様と大差ない事しか出来ません」

「謙遜は不要。ルーエンハイム家は文武両道、騎士道精神を持つ立派な方々ばかり。少なくとも、我が屋敷の者ではどうにもならないとしても、貴君ならあの娘を連れ戻せるやもしれんだろう」

「髪を切り、死んだものとして欲しいと書置きをしている以上、捜してもそう易々とは見付からないと思いますが」

「多少傷物にしても構わん。遅かれ早かれ、貴君が娶る娘だ」

「……それこそ騎士道精神に反しますね」


 ひんやりとした声音に、反射的にテオバルトは口を噤んだ。だが、すぐに、苛立たし気にぶつくさと独り言を零した。


「あの娘じゃないと駄目なんだ……ティタンブルグ家の為に……まかり間違って……」

「彼女が何か?」

「! あ、いや……それで、行ってくれるな?」


 口に出していたのは無意識だったのか、テオバルトはウィリバルトの呼びかけに顔を強張らせて我に返ると、再び念を押してきた。ウィリバルトは少し考えた後、諾とした。



* * * * * * * * * * * * * * *



「お嬢様、旦那様はご公務で、奥様はご友人の茶会に参加で、ルーエンハイム様は旦那様からの要請で、使用人の皆様を含め、全員お嬢様を捜しに出ていらっしゃいます。――今の内に、どうか」


 マリアベルの部屋で、エーベルハルトが静かに言った。メイド長、ハウスメイド達が外の様子を窺いながらも、力強く頷いている。――部屋の中央に、動きやすいワンピースを着たマリアベルが立っていた。長かった髪はバッサリと短くなっている。


 外に逃げたと思わせておき、その実、屋敷の自室に隠れる――それを提案したのは外でもない、ティタンブルグ家筆頭執事のエーベルハルトだった。使用人も示し合わせ、屋敷内を捜しているふり・・をして、あるじの目が完全に外へ向くタイミングを図っていたのだ。


「エーベルハルト、それにみんな、すまない。私の我儘に付き合わせてしまって」

「何をおっしゃいます。わたくし達は、マリアベル様を娘の様に思っています。――もちろん、フリーダの事もです」


 メイド長が謝ろうとするマリアベルを制した。


「それに、わたくし達はマリアベル様が我儘とは思っておりません。……こんなに思って頂けて、フリーダは幸せ者です」

「幸せなものか。命を失って……幸せであるものか」


 唇を噛んで俯くマリアベルを見て、使用人たちは目を細めた。


「お嬢様。フリーダはお役目だから身を挺してお嬢様を守ったのではありませんよ。……お嬢様の事が好きだったから――ただ、純粋に守りたかったから、そして守る手段があったから、あの子は全力を尽くしたのです」

「そんなの分からないじゃないか」

「いいえ。フリーダが身代わりのドレスを着る際、着付けを手伝ったのはわたくしです。その時、本人から聞きました。――“自分わたしはマリーを守れる事を誇りに思う”と」

「そんなの……私は嬉しくないぞ。……生きていてくれるだけで良かった。2人でなら、もっといろいろ、助け合う事だって出来たかもしれないのに、何故勝手に一人で決めてしまうんだ。どうして私に相談しなかったんだ。――いや、そうじゃない。どうして私はフリーダの立場に気付いてやれなかったんだ。あんなに長い間、近くにいたというのに……」

「お嬢様……お察しください。あの子は元々、旦那様に貧民街スラムから買われてきた子どもなのです。お役目に逆らう事など、許されるものではありません。しかし、そのお役目に、あの子は誇りを見付けたのです。他の誰でもない、マリアベルお嬢様だからこそ、あの子は勇気を振り絞る事が出来たのです」

「……」


 メイド長の言葉に、何も反論できず、マリアベルは両腕を下ろしたまま拳を握りしめた。


「お嬢様、お早く。――屋敷裏に馬車を呼んであります。御者は元当家の庭師で、信任が厚い者です。後の事は、我々にお任せを」

「いや、待て、最後に。エーベルハルト。……それに、みんな」


 マリアベルを外へ促そうとするエーベルハルトの言葉を遮ると、一旦1人1人の顔を順に見てから再び口を開いた。


「お父様に少しでも疑われたら、私が部屋に潜んでいた事、そして見付けたら逃げたという事を、すぐに言うと約束してくれ。――それで、もしも「疑われるまで何故言い出さなかったのか」と問われたら、“一瞬過ぎて断言できなかった”……いや、“私にきつく命じられた”と言ってくれて構わない。私はあの日から今まで、十分皆に守ってもらった。今後は私に構わず、まず第一に自分の身を守ってくれ」


 真摯な眼差しで語る彼女に、人々は項垂れたまま小さく頷いた。涙を手布で押さえる者もいる。そんな中、エーベルハルトは居住まいを正してマリアベルへ最敬礼をした。続いて他の使用人も深く頭を下げる。


「お嬢様、どうか……どうか、ご無事で。我ら一同、お嬢様がお心のままに過ごされることを願っております」

「うん、ありがとう。……世話になった。皆も、元気で暮らせ」


 そう言うと、彼女は颯爽と部屋を出た。数分後、残された使用人たちの耳に、無事に馬車が出発したという情報が入った。送ることは出来なかったが、彼らは己の心に決めた大切な主人の無事を祈った。


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