第46話 甘い食事

 いつもの生成りのワンピースに着替えて身支度を整えたソフィアは、シンと連れ立って階下の酒場兼食堂へ向かった。日が昇ったばかりとあって、店内にはまばらに客がいるのみであった。

 ソフィアを目にした店員は、すぐに守れなかったことを詫びにやってきた。とはいえ、ソフィアとしては店員が悪いとは全く思っていなかった為、謝罪など不要であることを何とか言葉にして伝えた。

 その様子を柔らかな笑みを湛えて見守っていたシンは、彼女と店員の会話が途切れたタイミングを見計らって、ソフィアを席に座らせ、自身もその隣の椅子に座った。


「あー、お腹減った! 何を食べようかなぁ」


 ね、と人懐こい笑顔を向けてくるシンに、ソフィアは軽く顔をしかめてチラリと視線をやる。


「……近い」

「そう? 僕としては、膝の上に座ってもらっても良いんだけど」

「……ふざけてるの?」

「ううん、本気」


 相変わらずシンは笑顔を浮かべているが、揶揄からかっている様子は微塵もない。――本気ならもっと駄目だろう、と呆れ顔で文句を言おうと口を開いた時、酒場のドアが開いた。


「はよーっす!」


 相変わらず全身黒づくめの服装。だが、それに相反するような陽気な声で挨拶をしながら、濃紺色の頭髪の長身の男がひょっこりと顔を出した。そちらへ顔を向けたシンがにっこりと微笑んで手招きすると、彼はすぐに気付いて真っ直ぐにこちらへやってきた。


「うっす! シンさん」

「やあ、シアン」

「ホントにここに泊まったんすねぇ」

「うん? そうだけど」

「ハハ」

「?」


 乾いた笑いを浮かべるシアンに、シンは不思議そうに小首を傾げる。


「どうかした?」

「いや……なんでも。それより、ソフィア、お前、調子どうなんだ?」


 あからさまに話題を変えて、シアンはソフィアに目を向けた。一瞬、どういう意図で問われたのか判断できず、ソフィアは眉を寄せて黙った。その様子に、シアンは思わず説明を求めるようにシンを見た。シアンとソフィア、交互に見てから、シンはソフィアへ視線を留める。傍から見ても特別な想いが隠しようもないほど溢れた表情で、シンは彼女の俯いた横顔を見つめた。

 少し時間を置いても、ソフィアは返答に窮したまま答える気配が無い。そっとシンが助け舟を出した。


「ソフィアは、倉庫で気を失ってからの事を覚えてないんだって」

「なっ……」


 シアンが顔色を変えて息をのむ。だが、シンは何かを否定するようにゆっくりとシアンに顔を向け、首を横に振って微笑んだ。


「でも幸い、“大きな怪我はない”よ。疲れが出たのか、今日は少し熱があるんだけどね」

「! そ、うか…………はぁー」


 シンの言わんとすることを察したのか、シアンが大きな息の塊を吐き出し、テーブルに両手をついて項垂れた。


「ちょっと、どうしたの?」


 ずっと返答に悩んでいた間に、既にシアンの問いは解決しており、1人置いてけぼりを食ったソフィアは不貞腐れた様にシンとシアンを交互に見た。脱力したままシアンが、投げやりに返す。


「いーんだよ、おこちゃまは知らなくて」

「なっ あたし子どもじゃないわよ!?」

「いーんだよ、おこちゃまで…………はぁあああああ」


 ますます盛大にため息を吐きながら、シアンはそのままシン、ソフィアの向かい側の椅子にどさりと腰掛けた。


「何なのよ……意味が分からない」


 膨れっ面で愚痴を零すと、隣に座っていたシンがくすくすと笑って彼女の膨らんだ頬をそっとつっついて来た。思わずぎょっとして飛び退すさると、更にシンは柔らかく笑いながら悪びれもせず詫びの言葉を口にした。


「ごめん、びっくりした?」

「びっ……くり、とか、そういう話しじゃ……ない、でしょっ!? レ、女性レディの、か、顔にっ さわ、触るとかっ」

「だって、柔らかそうだったんだもの」


 真っ赤な顔でまなじりを釣り上げるソフィアに、嬉しそうに――そして何故か甘さを含んだ笑みを浮かべ、シンは彼女の頬をふにふにと優しくつまんでくる。ますますソフィアは反応に困り、真っ赤な顔で苛立ったように抗議した。


「ちょっと! やめなさいよ!」

「ふふふ」

「シン!!」


 いくら詰っても、シンはにこにことして全く効果が無い。いよいよソフィアが本格的に抗議をしようとシンに向き直って息を吸い込んだと同時に、「うぐっ」と奇妙な声を上げてシアンが机の上に倒れた。ゴン、と大きな音が上がる。


「?! な、なに?! シアン?! ど、どうしたの?!」


 慌てふためいてソフィアが椅子から腰を浮かせるが、シアンは机に突っ伏したままだ。そして押し殺した様に低く「さ、とう……」と震える声が絞り出される。何のことか分からず、ソフィアは目を白黒とさせる。


「? なに? 砂糖??」

「ぐぁあぁ……クソっ、あめぇ…………っ」


 一見して苦しそうな様子に見えるシアンに、ソフィアは動揺を隠せない。しかし、突然「甘い」と苦しみだした彼に、何をしたらいいかソフィアには分からない。


「え、み、水? 水……を、」


 本気で顔を引き攣らせ始めたソフィアに、思わずシンは苦笑を浮かべて、立ち上がり彼女の頭をそっと撫でた。


「ソフィア、大丈夫だよ。――シアン、ソフィアが本気で心配してる。いい加減にしないと怒るよ?」

「ひぇっ そいつは勘弁!」


 ガバッと勢いよく体を起こし、おどけた様に笑ってシアンは肩を竦めた。


「でも、シンさんも悪いっすよ! 思わず自己生産した砂糖の海で溺れ死ぬかと思ったじゃないすか!」

「ん?」

「え、無自覚?」


 今度はシアンの顔が引き攣った。


 どう見ても、ソフィアへのシンの眼差しは普通の相手に向けるものではない。愛おしくて愛おしくてたまらない、という想いが“滲み出る”どころか“駄々洩れ”だ。今、目の前でも、シンは淡く笑んだ視線をソフィアに向け、手は彼女の頭を、そして2つに結った髪を、壊れ物にでも触れるように優しく、だが己の手の存在を彼女に分かるような力加減で、ずっと撫でている。――ずっとだ。

 それは、とんでもなく甘い空気を醸し出している。それが無自覚だとは。――じゃあ自覚したらどうなるんだ。そう思い至り、シアンは思わず半目になる。口の中が恐ろしく甘い。


「よく分からないけど……水はいらないのね?」


 真顔でソフィアがシアンに確認する。


「――こっちも通じてないのか。ひぇ……」


 思わず声に出てしまってから、シアンは両手で己の口をふさいだ。頼む、誰か来てくれ。俺一人ではこの天然極甘2人に太刀打ちできねぇ、とシアンは戦慄した。



「賑やかですわね。ごきげんよう」


 そんな時、軽やかな春告鳥フォルタナの翼亭のドアベルと共に救いの主が登場した。パッとシアンは顔を輝かせて入口をの方へ目をやる。次いで、シンとソフィアも顔を向けた。真っ直ぐな紅桃色の頭髪をサラリと靡かせ、3人の姿を認めると嫣然と微笑みを浮かべながら彼女――ネアは「皆さんお揃いですのね」と言いながら、こちらへやって来た。

 各々おのおの挨拶を済ませると、ネアはそのまま皆と同じテーブルに着いた。


「朝食中でしたの?」

「ううん、今頼もうとしていた所。――あ、すみませーん! 注文お願いします」

「では、わたくしも」

「んじゃ、俺もせっかくだから食おうかな」


 シンの呼んだ店員に、それぞれが注文する。ソフィアも自分だけ不要とする訳には行かず、悩んだ挙句にパンを1つ頼んだ。――そこに勝手にシンが野菜スープも追加したが。



「それにしても、朝からシアンとネアちゃんがここに来るなんて、珍しいね」


 羊肉と野菜の煮込みとパン2つ、果物に紅茶、と朝から食べる気満々な注文を済ませたシンが、小首を傾げて2人を見る。そういえば、とシアンとネアは顔を見合わせた。


「わたくしはソフィアさんの様子が気になりまして。念の為」


 男性であるシンに、万が一にも“言い出しにくい事”があった場合に備えて、と言外に匂わせながら、ネアは微笑んだ。――当のソフィアへはその気遣いは通じておらず、言葉通り「心配だったから」と取ったようだが、さすがにシンはすぐに分かり、僅かに苦笑した。


「ありがとう、ネアちゃん。――昨日も」

「いいえ、わたくしだって大切に思っていますのよ? 一緒に冒険した仲間ですもの」


 先にテーブルに運ばれてきた果実水のグラスを手に、ネアは肩を竦めた。


「シアンさんもそうでしょう?」

「そりゃ、まぁ……気にするなって言われても気になるだろ」


 頷いてからシアンは、チラリとネアへも視線を向ける。


「それに、ネアさんがなーんか隠してるみたいだったからー?」


 わざとらしく気になっていたもう一つの話題を切り出す。昨日、自分だけでは「大人の事情がありますのよ」などと誤魔化されたが、今日はネアより更に大人のシンがいる。ここで“大人云々”という理由で誤魔化す事は出来ないと踏んでの事だ。

 しかし、ネアはきょとんと赤みを帯びた茶色の瞳を丸くした。


「何の事ですの?」

「はぁ?」


 今度は完全にしらばっくれるつもりなのか、と思わず眉を寄せてシアンはネアへ抗議の意を込めて睨む――が、彼女は心外だとばかりに顔を顰めていた。


「このフィリネア・セントグレア、皆さんに隠す様な後ろ暗い事など、一つもございませんわ。――ちょっとシアンさん、言いがかりはよしていただけます?」

「……え? …………は、……え?」


 眉を寄せたまま、シアンは顔の筋肉が強張るのを感じた。


「だって……昨日、ネアさん」

「何ですの?」


 胡散臭そうにこちらを見るネアに、背筋が冷やりとして「ウソだろ」とシアンは口の中で呆然と呟く。その様子に、シンは軽く眉を顰めた。その時、流れている微妙な空気をものともせず、店員がテーブルへ料理を供しにやってきた。


「お待たせしました、サラダとキッシュです」

「あ、わたくしですわ」


 手を挙げたネアの前に暖かな料理が置かれる。


「他の皆様の分も、すぐにお持ちしますのでお待ちください」


 会釈すると、彼はスタスタと厨房の方へと去って行く。完全に話の腰が折れた。


「温かい内に食べなよ、ネアちゃん」

「あら、ではありがたく。お先に失礼しますわね」


 シンに促され、ネアはにっこりと微笑むと軽く食前の祈りを捧げた。――彼女はどの神殿にも属してはいない為、食前の祈りは豊穣神エルテナに向けた一般的なものになる。


「いただきます。……あら、美味しい。ドライトマトが入っていますのね」

「へぇ、いいね。今度は僕達もあれ頼んでみようか、ね? ソフィア」

「……何で“僕達”なのよ……」


 思わず突っ込むソフィアに、シンはにこにこと気にせず返す。


「だって、ソフィア全部食べ切れないでしょ? 一緒に一皿頼んで、僕は他にも頼めば丁度良いじゃない」

「丁度良くない」

「あ、全部食べ切れたらもちろん良いんだけど」

「そうじゃないっ 何で一緒に食べる前提なのよ!」

「何でって……何でそんな事聞くの?」

「はぁー?!」


 さも不思議そうに目を丸くするシンに、ソフィアの声が裏返る。そのやり取りを目にしたネアは、うっかり手にしたフォークを落としそうになるのをかろうじて堪えた。


「――どうなってますの、これ」


 引き攣った表情でチラリとシアンに視線を向けると、既に死んだ魚の目をしたシアンがゆっくりと首を横に振った。


「無自覚だ」

「え、まさか」

「両方」

「……信じられませんわ」

「分かってくれますか」

「分からないはずがありませんわ」


 先ほどとは打って変わり、ネアとシアンは心の中で固く握手を交わした。心と心が通じ合う瞬間だ。


「俺一人じゃツッコミが追い付きませんでした」

「ご苦労様です……」


 ぼそぼそと言葉を交わし合っている間に、テーブルの上には料理がすべてそろった。各々おのおの祈りを捧げるなり何なりとし、食事を始める。


 天気や見聞きした事など、適当な雑談を耳にしながら、ソフィアは黙々とパンを咀嚼しつつタイミングを図った。会話が途切れたタイミングで、ようやく口を開く。


「あの……」

「お?」

「何ですか?」

「――2人にも、その……あたし、世話を、かけた、みたいで」


 口にするまで脳内でアレコレ考えていたはずなのに、いざとなるとどう言葉にしていいか迷いながらも、ソフィアはぽつぽつと口にした。


「……ごめんな、さい」


 むす、と小さな口を尖らせて、ばつが悪そうにソフィアは頭を下げる。


「まぁ、ソフィアさん! 貴女のせいではないのに、頭を下げるものではありませんわよ!」

「ああ。――どっちかっていうと、ソフィアは、冒険者と悪の組織? の小競り合いでとばっちり受けただけじゃんか」

「小競り合いとは頂けませんわね」

「いやだってさー、結局アレだろ? エイクバの人身売買組織がクナートこっちに進出しようとしたのを俺たち冒険者が殲滅したのを逆恨みして、今回の事があったんじゃねーの?」

「まぁ、そう考えると色々な辻褄が合いますけど……だからといって、そうと決まったわけではありませんわよ」

「そうだね……ただ、もしそうなら、エイクバにある組織の母体は、今回の事で更に面子を潰された事になるから、何をしてくるか分からないね」


 2人のやり取りを微苦笑して見やりながら、シンは小さく肩を竦めた。


「それでも、それはクナートこっちの自警団や騎士団も同じだろうからね。――多分、近々にはエイクバの母体を叩くために、また冒険者の宿にも募集がかかるんじゃないかな」

「それは確かに。――そうなったら、わたくしは絶対に乗りますわ!」

「俺も! 今回は良いところをほぼほぼ全部お偉いさんに持ってかれたからな! シンさんも行きますよね?!」

「僕は行かないよ」


 あっさりとシンは首を横に振った。ソフィアを狙って、且つ監禁して危険な目に合わせたと思われる組織の殲滅、という目的なのだから、彼女の安全を守るためにも真っ先に乗ってきそうだと思っていたシアンとネアは、驚いて思わず顔を見合わせた。――2人の言いたい事が伝わったのか、シンは微笑んで説明の言葉を続けた。


「僕はソフィアの傍から離れるつもりないもの」


 ああ、なるほど――納得だ。今回、ソフィアを守る場所として春告鳥フォルタナの翼亭を、守る人員としてここの店長や店員を見込んでいたが、それらは当然ながら“ソフィアだけの為にある訳ではない”のだ。他の女性達や宿泊客も同じように守らなくてはならない。それを失念していたのを、シンは悔いているのだ。そして、今後はシン自身が直接彼女を守るつもりなのだろう。


「もう二度と、僕のいないところでソフィアを危険な目に合わせたくない」

「いや、あたし冒険者……の端くれだし。あなたもそうでしょ」

「本当はソフィアに冒険者とかして欲しくない」

「いやいや、生活できないから!」

「そんな事ない。僕と一緒に暮らせば良いよ」

「はぁ?! 寝言は寝て言いなさいよ!」

「本気だよ。――とにかく。僕はもう、ソフィアの傍から離れるつもりないからね」

「いや、仕事しなさいよ」

「するよ。――ねぇ、その為にも、孤児院においでよソフィア。駄目?」

「……あのね」


 頭痛を堪えるようにソフィアは頭を両手で抱える。――同じように、向かい側の席に座るシアンとネアも苦しそうに悶えていた。――彼らとソフィアの要因は、別物だが。


「あなたとあたしは出来る事も生活する環境も違うわ。――あたしもそろそろ、ちゃんと次の仕事を探すつもりだけど、それを誰かに手伝ってもらおうとは思ってない」

「……またエルテナ神殿に行くの?」

「それは分からない。あれば仕事をさせて欲しいってお願いすると思うけど」


 はしばみ色のくせ毛をした素朴な笑顔の神官を思い出しながら、ソフィアは小首を傾げた。


「確か前に、春先になら仕事があるって言ってたから……まだ少し先かもしれないわね」

「あら、ソフィアさんはエルテナ神殿に伝手がおありですの?」

「伝手……というか、知り合いがいるというか……何度か仕事をした事があるってだけ」

「春は芽吹きの時期――つまり、豊穣神たるエルテナの生誕祭がありますわね。恐らく、その準備や当日の仕事でしょうね。生物の誕生、息吹いぶき寿ことほぐ事を趣旨として、様々な大きさの卵や種子に絵付けや飾りをつけ、それを神殿の其処かしこに隠すんですのよ」

「隠すの? 何故?」


 頭の上にハテナマークを浮かべながら、思わずソフィアは疑問を口にする。


「その日、神殿にやってきた皆さんに、生命誕生の奇跡を自ら発見して頂く為ですわよ。与えられるだけではなく、己の手で探し出す事にも意味があるという事でしょうね」

「へー! おもしろそうっすね! 俺も当日遊びに行こうっと」

「ふふ、宝探しみたいで面白い行事だよね」


 ネアの話しからすると、確かに仕事はたくさんありそうだ。これは期待できそうだった。


「でも、まだ先ではありますわね。――他に仕事に心当たりはあります?」

「……森に住む学者の人の、手伝い……とか、短期で雇ってもらえないか……」

「え、駄目だよ!」


 ソフィアの言葉を、慌てた様にシンが遮る。


「それじゃあ、僕が一緒にいられないもの!」

「はぁ?! だ、だから、なんでそうなるのよ……!」

「シンさん、落ち着いて」


 思わず窘めるようにネアが苦笑してシンを制する。


「ソフィアさん、確か文字は問題なく読み書きできましたわよね?」

「え? ええ……」

「古代語はいかが?」

「いえ……スラスラとは読めないわ」

「あら、それでも少しは読めますの?」


 予想外だったのか、ネアは軽く目をみはった。


「その、森の……学者の人の手伝いをしていた時に、少し教わった程度だけど」

「森の学者の方。――ソフィアさん、意外な方とお知り合いなんですわね」

「……偶然?」

「ですが、それなら話しは早いですわ。少し前からこの町の智慧神ティラーダの神殿で、蔵書整理の仕事の募集が確かあったはずです」

「え」

「ソフィアさん、気付いてらっしゃらないんじゃないかと思いまして」

「――初耳だわ」

「でしょうね。冒険者向けの仕事という訳ではなく、どちらかというと学者や賢者学院の生徒向けの仕事ですからね。ティラーダ神殿の門前にある掲示板にしか掲示されていない仕事なんです。――ああ、蔵書整理と言っても、力仕事ではなく書物の区分けや分類付けですから、ソフィアさんに向いているんじゃないかと思いまして。それに、ティラーダ神殿があるのは西区ですから、治安も安定しています。――いかがです?」


 最後の言葉は、ソフィアではなくシンへ向けてのものだった。2人のやり取りを黙って思案しながら聞いていたシンは、ネアの言葉に顔を上げて小さく頷いた。


「悪くないね」

「でしょう? おほほ! 感謝して下さって構いませんわよ!」

「うん、ありがとうネアちゃん」


 高笑いをするネアに、素直に笑顔で礼を述べると、シンは視線をソフィアに向けた。


「ティラーダ神殿は大橋を越えた西区の、ちょうど真ん中くらいにあるんだ。春告鳥フォルタナの翼亭からは少し遠いかな。ソフィアが前に泊まっていた橙黄石シトリアやじり亭の方が近いかもしれない。西区にも宿はあるけど、元々の数が少ないし、この町以外から来た学者が長期で部屋を取ってるから、空きが無いかも。それに、間違いなく南区の宿よりも宿泊料金は高いしね」

「そう……じゃあ、橙黄石シトリアやじり亭に部屋を取るわ」

「うん、分かった。じゃあ、僕もそうするね」

「……はい?」

「孤児院の仕事は住み込みじゃなくても出来るから。僕もソフィアと一緒に部屋を取る。そしたら、ソフィアを神殿へ送り迎えする事も出来るし」

「……はい?」

「夜から朝までは一緒にいられるし」

「ばっかじゃないの?!」


 満面の笑顔で爆弾発言を連発するシンに、ソフィアは飛び上がって抗議した。――最後の発言はひどい。傍で聞いたらかなりの確率で誤解されてしまう。思わず顔から血の気を引かせて、ソフィアはシアンとネアに弁明する為に顔を向けた。――が、予想に反して2人は生暖かい眼差しでソフィアを見つめていた。


「ソフィア、諦めろ」

「ソフィアさん、ご苦労様ですわ」

「え…………え、ちょっと、何なの、2人とも……」


 何故そんな死んだ目でこちらを見ているのか。


「すまん、俺は力になってやれねぇ……」

「受け入れたら楽になれますわ。……多分?」

「ちょ、ちょっと! 何なの?!」

「ふふ、シアンもネアちゃんも、あんまりソフィアを困らせないでね?」


 いや、それアンタが言うか! ――と、シアンとネアは同時に思ったが、アルカイックスマイルを浮かべるのみにとどめた。



 シンに口で敵うはずがなく、且つ、シアンとネアの助け舟もなく……――つまり、誰も止める事が出来ないまま、シンとの橙黄石シトリアやじり亭での同居が決定してしまった。

 今まで、少し長く孤児院で住み込みで働いていたシンは、今日これから孤児院の院長に、通いで働く形式に変更を申し出るそうだ。その際、シンはソフィアを院長に紹介したいと熱心に招いたが、ソフィアは頑として受け入れなかった。そもそも、同席する意味が分からない。

 結局、シンは一人で孤児院へ。ティラーダ神殿へ向かうソフィアにはネアが同行する事で落ち着いたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る