第39話 泡沫

 翌朝、日が昇ってしばらく経った頃、春告鳥フォルタナの翼亭に1人の女性が訪れた。



「朝早くから失礼します。よろしいでしょうか?」


 扉から顔を出した修道服の女性――アトリの挨拶に、珍しく扉前の店員が“挨拶以外”で返す。


「アトリ様……お一人でいらしたのですか?」

「あ、おはようございます! はい、こちらへの道はちゃんと覚えていますので、寝ぼけて迷子になったりはしませんでした!」


 ペコっと店員にお辞儀した後、顔を上げてにこにこと笑うアトリに、恐らくその返答を耳にした全員が「違う、そうじゃない」と心の中で突っ込んだ事だろう。


「そういう事ではありません」


 ――もとい、店員の彼は心の中ではなく言葉に出して冷静に突っ込んだ。


 状況が状況なだけに、あまり店の客に干渉しない店員もナーバスになっているのかもしれないが、少し意外に思いつつ、ソフィアは床に座ったまま、目を丸くして成り行きを見守った。



「まぁまぁ、俺が頼んで来てもらったんだ。な!」


 アトリの背後からアフロ店長が顔を出した。ピクリと店員の固い表情が動く。アトリは背後に立つアフロ店長を見上げ、次いで店員に向き直るとはにかみつつも頷いた。

 その彼女の肩をねぎらう様に数回、ぽんぽん、と軽く叩くと、アフロ店長は1階酒場に数か所に分かれて座る疲労しきった様子の女性たちに、出来るだけ優しく声を掛けた。


「エルテナ神殿の巡礼者向けの部屋と、施療院の個室を、アトリに動いてもらって何とか空けてもらった。昨夜、ここの酒場で休むことを余儀なくされた皆さん、お待たせして申し訳ない。俺と店員が数人で護衛につくから、支度をしたら移動しましょう」


 その言葉に、喜びの声や安堵のため息がそこかしこから漏れ聞こえる。それを確認してから、アフロ店長はアトリに視線を向けた。


「アトリ、すまんが2階の個室に体調を崩している子どもを連れた女性がいる。施療院に優先して連れて行ってやってくれないか」

「まぁ、それは大変! お部屋に行ってまいります!」


 言うが早いか、アトリは慌てた様にペコリと店長と店員にお辞儀をすると、「お邪魔しますっ 失礼しますっ」と他の女性たちにも一々挨拶をしながら階段の方へと足早に移動した。途中、様子を見守るソフィアと目が合った際、彼女の紫灰色のつぶらな瞳がまんまるに見開かれたが、すぐに「また後で」と口パクで言うと、そのまま階段を上がって行ってしまった。


「おい、お前は残ってアトリ達の護衛についてやれ」

「畏まりました」


 突っ込みをした店員がアフロ店長から指示を受ける声が聞こえる。ソフィアが訪れた際はほぼ毎回、ここの酒場で見かける黒髪と青い瞳の店員は、愛想は無いがどうやら店長からの信頼は厚いらしい。その彼が護衛につくというなら、アトリの身に危険が及ぶことは考えにくいと思えた。


「ソフィア、昨日は悪かったな」

「?」


 アフロ店長が突然こちらへ向かって謝罪の言葉を述べたため、身に覚えのないソフィアは不思議そうに彼の方へ目を向ける。


「部屋だよ。――あそこで譲ってもらって助かった」

「ああ……気にしないで。あたしは別に問題ないから」

「いや、そういう訳には行かん。今日から元の部屋に戻って休んでもらえるんだが、宿泊代はもらえねぇ。まぁ、いつまでも無料ロハって訳には行かねぇから、シンが迎えに来るまでは、って事で。な!」

「はぁ?! って、なんでシンが迎えに来る前提なのよ?!」


 思わず反射的に腰を浮かせてソフィアは店長に抗議する。だが、彼は気にも留めずに応えた。


「アイツがそう言ってたぞ。“僕が迎えに来るまでソフィアをお願い”ってな」


 ご丁寧にシンの台詞の部分をシンの声真似(※似ていない)までつけながら言い、ニヤリと笑う。


「だから、まぁ、気にせんで今日から部屋で休んでくれ! ――あぁ、部屋の換気と寝具の交換はこっちで済ませてからになるから、入るのはもう少し待ってもらうがな」


 ソフィアなどは「1回使っただけで寝具の交換なんて勿体ない」と思ってしまうのだが、熱を出していた子どもが流行り病を患っていた可能性も否定できない為、換気や寝具の交換は当然だった。その考えも分かる為、ソフィアは微妙な表情を浮かべながらも「分かったわ」と小さく頷いた。

 ソフィアの返答に満足そうに頷き返す店長に、酒場にいた別の店員が声を掛けた。


「店長、このフロアの皆さんは準備が整ったそうです」

「おう、早いな! 分かった!」


 もともと、別の宿から荷物をまとめてこの酒場へやってきたのだから、荷物をまとめるのも早いのは当然だった。それに加えて、酒場の床で一晩を明かした女性達は、一刻も早くプライベートな空間でゆっくりしたいと切望していたのだろう。荷物をまとめる手が自然と早くなるのは至極当然の事だった。


「じゃあソフィア、部屋は準備が整ったら店員から声がかかると思うから、しばらくここで待っててくれ!」


 そう言い残すと、アフロ店長と他の店員達は、女性達を護る様に前後左右について春告鳥フォルタナの翼亭を出て行った。



 残されたソフィアは、何となく再び座る気にもなれず、借りていた毛布の隅と隅をキッチリと合わせて時間を掛けて丁寧に畳み始めた。この場には寡黙な店員も残っているが、彼は要件がない限りはこちらに積極的に話しかけて来る気配はなかった。それはソフィアにとっては非常にありがたい事だった。



 しばらく経つと、階段の上から荷物を持ったアトリと、その後ろから子どもを抱えた女性が降りてきた。


「あ、ソフィアさん、先ほどはご挨拶もできずに失礼しました。おはようございます」


 ぱ、と花が綻ぶ様に笑顔を浮かべて、アトリがソフィアへ近寄ってくる。


「……お、はよう……」


 ぎこちなくソフィアも挨拶を返したところで、アトリの後ろに続いていた女性が「あの!」と声を上げた。その勢いに思わず声の方を見やると、その女性は目に涙を浮かべて、震え声で続けた。


「あの、本当に……本当にありがとうございました。おかげ様で、今朝は娘の熱も大分下がりました。本当に、あなたのおかげです。どうか、何かお礼をさせてください」

「いえ、……あたしは別に寝られるならどこでも構わないというだけだから、気にしないでいいわ。それより、早く施療院に行った方が良いと思う」


 淡々と返答をすると、子どもを抱えた女性はまだ何か言いたげな表情ではあったが、食い下がる事はせずに黙って深々と頭を下げた。

 そこへ、控えていた店員が近付いてきた。


「アトリ様、私が施療院まで護衛につかせて頂きます。前をアトリ様が、殿しんがりを私が務めますが、よろしいでしょうか?」

「えっ そうなんですか? わぁ、心強いです! よろしくお願いします!」


 店員の言葉に、アトリがにこにこと返す。


「では、不肖ながらわたしが先陣を務めさせて頂きますね! 不審な人物がいないか、目を光らせます!」

「いえ、普通に歩いて頂ければ結構です。……では、ソフィア様、失礼します」


 アトリの斜め上の返答への対応に早々に区切りをつけ、店員はソフィアへ一礼した。次いで子どもを抱いた女性、アトリも同様にソフィアへ一礼すると、既に日が昇り明るくなった外へ連れ立って去って行った。



 酒場にはソフィア1人が残された。思わず小さく息を吐く。



(町に戻ったのは昨日の夕方のはずなのに、多くの事がありすぎて、アレク達の家に泊まったのが随分前みたいに思えるわね……)


 綺麗に畳んだ毛布をカウンター近くのテーブルの上に置く。ふと酒場のフロアを見ると、女性たちが使用した毛布が、床に点々と置かれたままになっていた。大まかに畳まれたものや、くしゃっと置かれたもの、細長く畳んで手近な椅子の背もたれに引っ掛けてあるもの、寝ていた人間が抜け出したままの状態で形が維持されているもの、など、使用者の性格が出るのか、残された毛布の様子は様々だ。

 部屋の準備が整ったと声がかかるまでは手持無沙汰の為、ソフィアはその一つ一つを回収し、丁寧に畳むと自分が使用したものと一緒に一つのテーブルの上にまとめて積み上げておいた。



* * * * * * * * * * * * * * *



 しばらく経ってから、部屋の準備が整ったという事で、3日前に宿泊した部屋へと再び足を踏み入れた。南向きの角部屋で、窓が2ヵ所ある為、冬でも日が入り少し温かい。

 背負い袋1つ分の持ち物を床に置き、ソフィアはベッドに腰掛けた。酒場の床板とは当然異なり、とても柔らかい――が、柔らかすぎるという事もなく、絶妙な硬さのベッドマットレスだった。


 少し思案した後、ソフィアは背中からベッドの上に横になった。そのままころりと転がって横向きになる。だが、昨日は一睡もしていないにもかかわらず、ずっと色々考えていたせいか、妙に目が冴えていた。



(――大丈夫かしら……)


 横向きになったままじっと部屋の中を見つめていると、否が応にもこの部屋で共に過ごした“彼”を思い出す。


 焦げ茶色の少し癖のある髪に、優しい光を帯びた緑碧玉の色の双眸。中性的な見た目ながら、胸板や腕はがっしりと硬い筋肉で覆われている。掌はソフィアの手のふた回りは大きく、長い指は戦士というだけあって、やや節榑立ふしくれだっていた。“大丈夫だよ”“僕が守る”と幾度となく繰り返された柔らかなテノールは、今はもう本人がいなくても脳内で再生が出来るほど、ソフィアの記憶の中にしっかりと刻まれていた。今もこうしていると、彼の声が――と、そこまで思考したところで、ソフィアは慌てた様にガバッとベッドから半身を起こした。

 誰もいないと分かっていても、妙に顔が熱くなり、居たたまれなくなり、思わず内心で毒づく。



(まったく、何だっていうのよ! ばっかじゃないの、あたし!)


 枕に八つ当たりするべく拳を振り上げるも、きちんとベッドメイクされた立派な枕を目にして手を止める。こんな立派な枕を叩く事など、恐れ多い。



(1人になったからって、気を緩ませすぎだわ。というか、そもそも、最近、“あの人”があんまり近くにいるから、だからあたしも調子が狂うというか、別に心細いとか、そういうんじゃ――っああもう! だから、あたしは一体誰に言い訳してるのよ!?)


 両手で自分の頭をポカポカと叩いて雑念(?)を追い払う。


 それから、ベッドに座り込んだまま不貞腐れた様に頬を膨らませ口を尖らせると、チラリと窓の外へ目をやり、無理矢理気持ちを切り替えようと試みた。



(――……あの人シン……、たち、は、熟練ベテラン冒険者で、今は昨日の話にあった“依頼”を請けて動いているのよね。――実際、どのくらいの人数で依頼をこなしてるのかしら……)


 ソフィアは昨晩から何度か思い起こしている、シンから見せてもらった依頼文の写しの文面がどんなものであったか、記憶の中から呼び起こすべく、天井に視線を彷徨わせた。



(えー……っと、)


 昨晩とは異なり、周囲に人の気配が無いからなのか、それとも昨晩何度か思い起こした事により記憶が強化されたのか、どちらなのかは分からないが、思ったよりも早く文面が脳裏に蘇った。



 “エイクバの人身売買組織により、クナート伯の令嬢が拉致された。

  他、街でも数人の若い女性が行方不明になっており――”



 そこまで思い起こしてから、ふと違和感に柳眉をひそめる。



(……? あれ? 今……)


 奇妙な感覚に、ソフィアは思わず小首を傾げた。



(何かしら……何かちょっと――)


 そう思った直後、ソフィアの部屋のドアを誰かがノックした。


「?!」


 想定外の音に、彼女は仰天してベッドの上で数cm飛び上がる。しかし、扉の外からは先ほど耳にした落ち着き払った男性の声が響いた。


「失礼します、ソフィア様」


 ――アトリを送って行った黒髪の店員の声だ。


「昨日、ソフィア様に部屋を替わって頂いたお客様より、ソフィア様へお礼として宿泊中の食事を負担させてほしいと仰せつかっています。お召し上がりになられる場合はお代は不要ですので、いつでもお声がけください」

「えっ」


 思わず驚きの声が漏れて固まる。だが、店員は声を失っているソフィアに気にも留めずに、伝えたい事だけ伝えると、「では、失礼します」とサッサと階下へ去って行った。



 単に一番状況に即した対応を行っただけで、礼を受ける謂れは無い……とソフィア自身は思っていたのだが、アフロ店長も子連れの女性も、ソフィアの想像を超える“お礼”を彼女にもたらした。――半ば強制的に。


 もちろん、宿代や、滞在する間に食事代を負担しなくていいのはありがたい。――ありがたいのだが、そこまでしてもらうというのは、逆に申し訳ない……というより、礼を貰い慣れていないソフィアは、これだけの事を何食わぬ顔で受け取れる事の出来る度量を持ち合わせてはいなかった。



「――とりあえず、1日分の宿泊を交代しただけなんだから、宿代も食事代も、1日分でいいって言って来ようかしら」


 うつむき、困惑した面持ちで、ポツリと呟く。それから、ベッドの上から立ち上がろうとして、あれ、と顔を上げ、首を捻る。先ほどソフィアは頭の片隅に何か引っ掛かりを覚えたのだが、思いがけない来訪者により思考がどこかへ飛んで行ってしまった。


 しばらくの間、思い出そうとあれこれ考えを巡らせてみたが、泡沫うたかたの様に浮かんだその疑問は既に霧散しており、もう掴む事が出来なくなっていた。

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