第33話 アーレンビー家への訪問
悔しいほど熟睡し、スッキリと目覚めたその日の朝。
ベッドで半身を起こし、眉間に皺を寄せて周囲を見回すと、部屋の備品のテーブルの上に朝食を並べるシンと目が合った。
「おはよう、ソフィア」
湯気の立つスープをテーブルに置きながら、にこにこと毒気の無い笑顔で挨拶する彼に、むすっとした表情を浮かべながらも、ソフィアも挨拶を返した。それから、昨夜の事を思い出して更に苦々しい顔になった。
(……いけない。これじゃあ、完全にシンのペースだわ)
小さくため息をつく。ソフィアからしたら、彼は自主的に“ソフィアの保護者”という猛烈な(?)義務感のようなものにかられてソフィアの傍にいるという、よく分からない人物だ。――勿論、善人という事は分かる。だが、なぜその意識が向けられるのが自分なのか。孤児院の子ども達、または憎からず思っている
(まぁ……この人には、体調が悪い所を何度か見せてしまってるし。――他にも、見せたくない所を何度か見られてるから……)
まさか自分が泣くなんて、と項垂れる。そもそも、喜怒哀楽などという感情はとっくの昔に擦り切れて無くなったと思っていたのに。そりゃあ、シンの様な世話焼きタイプなら、自分のような存在を放って置く事は難しいだろう。ともすればため息ばかりが出そうになる唇を噛む。
「どうかした?」
心配そうな声にハッとして顔を上げると、シンがこちらへ歩み寄ろうとしている。
「な、なんでもないから、来なくていい。顔洗ってくるわ」
ぷいっと顔を背けてベッドから出て、一目散に部屋の壁寄りに布で仕切られた水場へ向かう。さすがに追っては来ない様子で、シンは鼻歌を歌いながら朝食のセットを再開した。
(ほんと……どうしたものかしら)
途方にくれた顔をしながら、水瓶から盥に水を注ぎ、冷たい水で顔を洗う。
(人との距離の取り方って、難しいわ。……ううん、そもそも、あたしは距離の測り方すら分からないのよね)
ぽたぽたと前髪から水の張った盥に落ちる水滴を眺めながら、眉間の皺を深める。
今のシンとの距離に慣れてはいけない。あんな近い距離で慣れてしまったら、いざ離れる時が大変になる事くらい、人付合いの少ないソフィアでも分かる。
――永久の別れではなくとも、シンが誰かと結婚した時など良い例だ。今後起こりうる出来事として、一番可能性がある。シンがその時、今の距離のままにソフィアを置こうとすれば、相手の女性は決してよくは思わないだろう。否、もしかしたらソフィアごと受け入れてくれるような、懐が深く愛情深い女性かもしれないが。だとしても、それはそれでソフィアは心苦しい。
逆に、そのタイミングでシンが適切な距離を取り直そうとする、と考えると――何だか胸を圧迫された様に苦しくなる。まるで置いていかれた子どもの様に。
(冗談じゃないわ! あたし大人なのよ)
自らの考えを慌てて否定し、ソフィアは乱暴に手元の布を取ってガシガシと顔を拭いた。
* * * * * * * * * * * * * * *
シンの準備した朝食を済ませ、ソフィアはアーレンビー家を訪ねる為の準備を始めた。その間、ソフィアはシンに帰宅を勧めたが、彼は鉄壁の笑顔で拒絶し、部屋の中のソファに陣取った。
これ以上アレコレ言っても駄目だ、と諦めモードに突入したソフィアは、憮然となりながらも手を動かした。聖夜祭の報酬で購入した、少し高級そうな綺麗な模様のついた羊皮紙の束を油紙に包んで背負い袋に入れる。それから、聖夜祭の翌日に着用した濃紺色のワンピース。出来る限り丁寧に洗って、洗い皺を伸ばして陰干ししたおかげか、借りた時と全く変わった様子がない。安堵と共に満足そうに一つ小さく頷いて、丁寧に畳む。
「あ、それ」
シンが声を上げた為、振り返って小首を傾げる。
「そのワンピース。似合ってたよねぇ、ソフィア」
嬉しそうに、だがそれ以外にも含みがあるような深い微笑を浮かべて、シンはしみじみと言った。何となく素直に受け取りがたく、ソフィアは眉間に深い皺を刻んだ。
「どうもありがとう。でも、お世辞は結構よ」
「お世辞じゃないよ。すごく可愛かった。あのまま離れたくなかったもの」
「~~っそういう! 誤解を! 与えるような事を! 言わない!」
強調する様に言葉を区切りながら、ものすごい形相でソフィアが抗議しても、彼はどこ吹く風で「だって、ソフィアは誤解しないでしょ」と笑った。
「軽い! 軽過ぎる! シンは、言葉をもう少し大事にした方がいい! 本当に大事な時に、上辺だけの言葉だと勘違いされても、あたし知らないからね!」
膨れた顔でぶつくさ言いながら、畳んだワンピースを背負い袋に詰める。
「そうだねぇ……まぁ、その時は別の方法で」
「? 別の」
「うん、別の」
「……」
それはそれで何だか怖い。ジト目でシンを見やると、彼は相変わらず笑顔を浮かべていた。
「それはそうと、確かお菓子も買っていくんだったっけ?」
「え? あ、そうね。……色々お世話になったから、何か日持ちするものでも、と思っているわ」
「色々お世話になった内容は気になるけど、それは後で聞かせてもらうことにして」
「聞かせる事決定なの?!」
「もちろん。――で、日持ちするお菓子かぁ……となると、焼き菓子かな」
「焼き菓子……」
「ビスケットとか、スコーンとか……あ、パイもいいかもしれない」
「……び、すけっと」
難解な単語でも口にしたかのように、たどたどしく鸚鵡返ししたソフィアを見て、シンは優しく目を細めた。
「じゃ、ビスケットにして、僕達が今日の夜食べる分も買おうか」
「……きょうのよる?」
「まだ世界の事しか話しをしていないもの」
「え」
(まだするつもりだったのお泊り会!?)
ソフィアは顔を引き攣らせた。
「あたし、あれでもう十分なんだけど」
「僕の話しもしたい」
「いやあの……じゃあ、また今度」
「やだ」
「え」
「やだ」
「……」
子供か! と、突っ込みそうになるのをぐっと飲み込み、ソフィアは苦虫を噛み潰した。
「……とにかく、早めに出発したいから」
「あ、そうだね」
ぱっと顔を輝かせて頷くと、シンはさり気なくソフィアの荷物を手に取り、自分の背に負った。
「あ、ちょっ……あたし、持てる」
「うん、でもまぁ、お菓子も増えるしね」
「え、それ理由になる……?」
「細かい事は気にしない!」
笑いながらさっさと部屋の扉へ向かって歩き出すシン。慌ててソフィアは
* * * * * * * * * * * * * * *
クナートは港町だけあって、朝から大通り沿いは賑わっていた。早朝の客は主に船乗りが多いが、朝に到着した船の乗客や迎えの家族なども多い。そして、彼らの為にそこかしこに食べ物の露店が軒を連ね、様々な香りを漂わせている。香ばしい香り、色々な香草の香り、甘い香り……そしてたまに、ソフィアが今まで生きてきて嗅いだ事のないような謎の匂いもするが、不思議そうに目を向けるとシンがあれこれと教えてくれた。年の功もあるだろうが、旅をしていた期間が長いこともあり、知らない料理は少ない様子だ。
結局、アレクとキャロルには少し大きな缶に入ったビスケットを、そしてシンとソフィアの分として数枚のビスケットを購入し、持っていた布袋に入れた。缶入りビスケットは自分が持つ、とソフィアが言い張り、これはどうにかソフィアが持つ事を許された。
その足で、クナートの南門を抜け、森へ向かう。今日の天気は良いのだが、いつぞやの事を考えると油断出来ない。やや緊張した面持ちで歩いていると、少し前を歩いていたシンが笑顔で振り返った。
「今日の天気は安定しているから、安心して大丈夫だよ」
「そんなの分からないじゃない」
「ううん、分かるよ」
「え」
「天候。ホラ、僕旅が長いから、空の雲の様子とか、風向きとか、空気の湿った感じとかで。それから、精霊の動きとかね」
昨夜、部屋で
「便利ね」
「ふふ。そうだねぇ……でも、僕より多分、ソフィアの方が精霊使いには向いている気がするよ」
「よく分からないわ」
「
血、と言われても、ソフィアはピンと来ない。
そこまで考えて、ふとシンの口にした“
「……」
「ん? どうかした?」
「! あ、いえ……」
「なんでもなくないでしょ。なに? 僕が答えられる事なら何でも聞いて」
ソフィアの言葉を先読みして、彼は一笑した。そう言われてしまうと、もう誤魔化す事は難しい。躊躇いがちに、慎重に言葉を選びながら、ソフィアは疑問を口にした。
「……以前もあなた、言ってたと思うけど……“
「あ、そっか。確かに、あんまり聞かない単語だよね。
「――えっ」
「人間の両親から生まれた子どもが
「と、とりかえ……?!」
「ああ、もちろん、実際に取替えられたんじゃないよ」
ぎょっとするソフィアに、シンはあはは、と笑いながら肩を竦めた。
「実際は、両親どちらかの血脈でどこかに
気にした風もなく、シンは笑みを浮かべたままソフィアの隣に並んだ。
「逆に、僕は人間に近いから、他の
肩を並べて歩きながら、シンはそっとソフィアを見下ろした。揺れる青みがかった銀の髪。シンから見えるのは彼女の表情ではなく、頭頂部にある可愛らしい
「ソフィアは間違いなく濃い
「でも、見えないんだから、どうしようもないでしょ」
肝心のソフィアは、シンの言葉にそっけなく言うと、ビスケットの缶を抱え直してスタスタと彼を追い越していく。だが、シンの目にはその彼女を追う様に、色とりどりの精霊が尾を引くように漂う姿が見えた。
あれ、こんな感じだったっけ、とシンは少し首を傾げた。確かにソフィアは
思わず笑みを収めて真顔で思案する。見たところ、精霊に悪意は無い。どちらかというと好意的だが、それも精霊使いに対するような積極的なものではない。これはなんだろう。見た事が無い。
「シン?」
むっとした様にソフィアが振り返って名を呼ぶ。これは怒っているからではなく、恐らく付いて来ないシンに不安を感じているから。その程度は、もう分かる。ふわりと自然に顔に笑みが浮かび、シンは「ごめん、今行く!」と答えた。
* * * * * * * * * * * * * * *
森の中にある、木造の簡素な一軒家――アーレンビー家だ。突然訪ねて迷惑ならないか、と不安はあるが、それでもソフィアはその扉をノックした。
「はーい!」
明るい声が内側から聞こた。
「ソ、ソフィア……です」
「おっ 何だよ、めっずらしいな! 待って、今あける!」
続いて、扉が内側から外に開いた。それから、ひょこっと空色の瞳の女性が顔を出す。その動きで栗毛色の柔らかなウェーブを描いた長い髪がふわふわと揺れる。
彼女はソフィアの顔を見るなり、破顔一笑した。
「なんだよー 元気そうじゃん! ホラ、入って入って!」
「アレクさんですか?」
「ん?」
ソフィアの後ろから聞こえたテノールに、アレクは顔を上げた。彼女の後ろに
「おっ? ごめん、気付かなかった! うん、アレクだよ。貴方はソフィアの知り合い?」
「僕はシェルナン・ヴォルフォードと言います。ソフィアのほごし」
「違う! ただの知り合い!」
保護者、と言おうとするシンを慌ててソフィアは遮った。遮られた彼は不満そうに「なんで?」と目で訴えるが、気付かない振りをする。
「ははははは! なんか分かった! なるほどね、シェルナンか……シン、でいい?」
「はい」
「私はアレクで。あと、敬語、苦手だから使わなくていいかな、今更だけど」
「もちろん」
「じゃ、シンも使わなくて良いよ! よし、立ち話もなんだし、中入ってくれ!」
ヒラリとスカートを翻し、軽やかにアレクは2人を家の中へ
小さな玄関ホールからつながる廊下を歩きながら、アレクはソフィアへ肩越しに振り返った。
「そういや、私があげた外套使ってくれてんだな」
「え、あ、え……と、あ、温かい、から助かってる……」
「いいじゃん、かわいい」
真っ直ぐに晴天の青空の瞳がソフィアを映し、ふ、と表情を和らげる。何故か頬に熱が集まり、ソフィアは慌てて口を尖らせて「べ、別に、誰が着ても」と、文句にならない文句をブツブツと呟く。だがアレクは全く聞いておらず、口元に手を添えて家の中でよく通る声を張り上げた。
「キャロルー! おーい キャロルってばー! ソフィア来たー! なぁー!」
だが、数回呼びかけても彼が来る様子は無い。
「あー……駄目だな。きっと、書斎で石になってる」
「石?」
「うん、石。石化。キャロルの石像」
「???」
真顔で返すアレクに、きょとんとシンは首を傾げるが、ソフィアは何度か目にした事がある。キャロルは己の思考の中に入り込むと、どんどん深く沈んで行き、そうなると誰が呼んでも、大きな音を出しても、揺さぶっても、彼の気が済むまでは戻ってこないのだ。
「あいつめ……フライパンで殴ってこようか」
「や、やめなさいよ」
「えー」
冗談に聞こえるが、アレクはキッチンに本気で向かおうとしていたから、言葉通りの可能性の方が高い。ソフィアは、自分がいない間、キャロルは大丈夫だったんだろうか……と少し心配になった。
「ちぇ、しょうがねぇなぁ~……んじゃ、呼んでくるよ。先に部屋行ってて。あ、ソフィア! キッチンに置いてある物の位置は変わらないから、お茶出しといて!」
「分かった」
ソフィアの返答を確認すると、彼女は満足そうに笑って廊下の奥へ小走りで消えていった。それを見送ってから、ソフィアは少し家の中を見回し、記憶を確認してから奥の部屋を手で示した。
「じゃあ、シンはこっち……――? なに?」
振り返ってシンを見上げながら言い掛ける。が、彼は驚いたように目を丸くして固まっていた為、言葉を切って訝しげに問うた。すると、ああ、うん、と生返事が返って来た。
それから、彼は何故か少し不貞腐れた様な顔をして目を逸らした。
「……? おかしな人ね」
頭の周りに疑問符を散らしながら首を捻り、それでもソフィアはシンを先導してアーレンビー家の一番大きな部屋へと促した。
中央には重厚なつくりをしたテーブルセットが置かれている。シンが椅子に座ったのを確認してから、ソフィアはキッチンへと向かった。とはいえ、この部屋とキッチンは隣り合わせになっており、扉でも仕切られていない。シンの位置から、ソフィアの位置によってはその姿を見る事が可能だ。
以前、
今日は天気が良くいつもよりは温かいが、アレクの好きな
その様子を、離れた場所で椅子に座ったままシンはぼんやりと眺めていた。彼の位置からは、ソフィアの動く姿がたまに見え隠れする。その様子を見ただけでも、ソフィアが完全に気を許しているのが分かり、思わず口を尖らせる。少し前までは、少しでも彼女が色々な人と関わり合いを持ち、自分がいない場所でも怯えたりせず、困った事があったら助けを求める相手をどんどん増やして行ってくれたらいいのに、等と思っていたのにも関わらず、先ほどのアレクとのやりとりを見ると、心中穏やかではいられなかった。
――そう、これは間違いなく嫉妬だ。今まで70年以上生きてきて、存在を知ってはいても、自身が覚える事がなかった感情。もうそこまで彼女に執着し始めている事に、シンは自分でも驚いていた。
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