第32話 世界

 春告鳥フォルタナの翼亭には風呂バスタブは無い。だが、鍵付きの個室でお湯を張った水桶で行水する事は可能だ。――宿泊代とは別に銅貨1枚が必要だが。

 季節は冬。汗ばむ事は少ないが、それでもエルテナ神殿の依頼から戻ったままの状態で寝巻きに着替えてベッドに入るのははばかられる。今日は報酬も入った事だし、と自らに言い聞かせ、ソフィアは行水させてもらう事にした。


 髪の毛からつま先まで洗ってスッキリとした後は、寝間着に着替えて借りた部屋へと戻る。それから、洗った髪を拭くのもそこそこに、肩にタオルをかけたままベッドに腰掛けてぼんやりと物思いに耽った。



(……――どうしてこうなったんだっけ……)


 普段なら借りる事のない、広い部屋を眺める。板張りの――だが、過去にソフィアが寝起きしていた小屋とは比べ物にならない程、機密性が高く頑丈そうな壁と、明るい色調の天井。床も板張りで、綺麗に磨かれている。家具は全体的に落ち着いた色の木目のものばかりで、ベッドカバーは様々な柄の布を意図的に縫い合わせた温かみのあるものだった。ドアを閉めていると、階下の酒場の喧騒も全く聞こえてこない。窓は全部で2ヶ所。今は夜の為、鎧戸が閉まっているが、開ければ夕方でも灯かりが要らないくらい光を取り込める大きさだ。

 今は、部屋の中心の天井付近に柔らかな光を湛えた“球状の物体”がふわふわと漂っており、それにより部屋全体が薄明るく照らされている。これは、この部屋をソフィアと折半で借りた人物が席を外す際に“置いて”行ったものだ。


 部屋の様子を、何とはなしに分析していると、不意に扉がノックされた。思わず、ベッドの上で飛び上がってしまい、慌てて平静を装おうとうろたえる。それから、部屋には“今は”自分しかいない事に気付いて苦い表情を浮かべる。



「ソフィア?」


 ドアの外から、控え目の……だが、心配そうな声がかかった。


「……起きてるわ。どうぞ」


 そっけなく応えると、そっとドアを開いてシンが入ってきた。彼も湯を借りており、じっくりと温まってきたのか、頬がいつもより上気している上、身体からも薄っすらと湯気が立っている。丈の長いゆったりとしたシャツを着ているが、全身鎧フルプレートを着用して大暴れ出来るだけあって、腕や肩だけでも筋肉が盛り上がっているのが分かった。腕の太さなど、ソフィアの3倍以上はありそうだ。思わずジト目で身を引いてしまうと、きょとんとしてシンが小首を傾げた。


「随分早かったね。ちゃんと温まった?」

「汚れを流せれば十分よ」


 むっとして言い返すと、シンは苦笑した。


「ちゃんと温まらないと。水桶は小さいけど、半身浴は出来るんだし。……あっ」

「?」

「髪の毛! もうっ どうしてちゃんと拭かないの。水がってるじゃない」

「…………いや、ちゃんと」

「拭いてない」


 思い切り顔をしかめると、シンはドアを閉めて鍵をかけ、その足でソフィアの元へ歩み寄る。そのまま彼女の肩からタオルを取ると、勝手に髪を拭き始めた。


「ちょ、ちょっと……」

「このまま寝たら、風邪引くよ。ほら、むこう向いてて!」

「じ、自分で」

「しなかったじゃない。もー、いいから、ホラ!」


 半ば無理矢理、シンは振り返って抗議しようとするソフィアを遮り、両手で背中を向けるように促す。しばし逡巡したソフィアだったが、抵抗しても無駄だと悟ったのか、しばらくすると大人しくなった。


 高名な細工職人でも再現不可能と思われる、光を弾くような銀糸を手に、丁寧に水気を拭き取りながら、シンは出来るだけ柔らかい声でソフィアに声を掛けた。


「さて……何から話そうか?」


 その言葉に、彼女の細い肩がぴくりと反応する。それから、僅かに頭が前方に傾く――何と言ったら良いのか、何を聞けば良いのか、彼女自身がまだ分かっていない様子だ。それはそうだ。恐らく、彼女はまだ、元の世界ヴルズィア今の世界テイルラットがどう違うのかすら、よく分かっていないのだ。――何せ、“望んで自ら来た訳ではない”のだろうから。

 しばし考え込んだ後、シンは口を開いた。


「んー……とりあえず、今日は世界の説明をしようか」


 こくり、と小さくソフィアが頷いた為、シンは出来るだけ分かりやすい様に噛み砕いて、2つの世界の事を説明し始めた。



* * * * * * * * * * * * * * *



「まず、元の世界ヴルズィア今の世界テイルラットは、異世界といえば異世界だけど、完全に分かたれているものではないんだ。こう……大きな段差みたいに、――うーん、階層フロアって言った方が良いかな? とにかく、重なってはいないけど、高さが違って存在している世界なんだよ。」


 左手を手の平を下にして浮かせ、その指先に上から見たら触れるか触れないかの位置、だが実際は高さが異なる様に右手を浮かせて見せて説明する。それから髪拭く手を再開しながら口を開いた。


「ヴルズィアの南東にあるアポリタという町は知ってる?」

「聞いた事はある」


 おぼろげな記憶の中、その町の名前を書物で見た事がある気がした為、ソフィアは首を捻りつつも答えた。その言葉に、彼女の髪を拭くシンの手が、彼女が気付かないくらいほんの一瞬止まる。だが、すぐに何事も無かった様に「そっか」と呟くと、そのまま説明を再開した。


「アポリタは、ヴルズィアの中でも特に冒険者が大勢集まる町なんだ。近くに古代遺跡がいくつも点在するし、多くの組合ギルドも本部を置いている。そして何より、アポリタは通称“狭間はざまの町”と言われていて、テイルラットへ移動するためのゲートがある町なんだ」

「……」


 ソフィアの背中が強張った様に見えて、シンは言葉を切ってそっと髪を撫でた。


「そして、こちらの世界、テイルラットにもゲートがある。この町クナートからずっと北西に位置する“クレンツァ”という町だ。こちらも“狭間はざまの町”と呼ばれている」


 髪を撫でながら、シンは慎重にソフィアの様子を伺った。彼女が少しでもおびえを感じる様なら、すぐにこの話題は打ち切るつもりだ。


ゲートが存在するのは至極単純な理由なんだ。――2世界間の人材共有、そして移民の打診」

「え……」


 初めてソフィアが小さく声をあげた。それは信じられないといった感情がありありと浮かぶ声色で、小さく震えて頼りないものだった。


「――平気?」


 僅かに眉を寄せ、シンは手にしたタオルをベッドの上に置き、ソフィアの肩に手を置いてこちらへ身体を向かせる。案の定、ソフィアの白いかんばせはいつもよりも色を失っていた。

 だが、彼女の瞳はしっかりとシンを捉え、「平気よ」と短く答えた。心の内で自分が無理だと判断したら、彼女がどう言おうと話題を変えようと決め、シンは小さく頷いて返した。


「その理由に至ったのは、それぞれの世界の……そうだなぁ、簡単に言ってしまえば“得意分野が違う”から、と、“価値観が違う”から、の2点だね」


 こちらを向いたソフィアの膝の上にあった両手に手を伸ばすと、驚くほど細い彼女の指先は可哀想なほど冷え切っていた。温めるようにシンは両手でその手を包み込む。


「ヴルズィアは、総じて治安が良くない。妖魔モンスターはもちろん、犯罪組織も多い。国や種族同士の戦争も小さなものも含めれば頻繁に起こっているしね。だから、冒険者が多くなる。単純に食い扶持を稼げるだけ仕事があるというのもあるけど、他に行く当てのない戦災孤児や……あと、世間からの“はみ出し者”もそれなりに居場所がある、という理由もあるね」

「……“はみ出し者”……?」

「少なくとも、僕はそれで冒険者になったから」


 穏やかに言うと、シンは微笑した。テイルラットでは殆ど見られず、ヴルズィアでは稀にある“人間と妖精エルフの異類婚”。だが、2種族間で生まれた半妖精ハーフエルフは、ヴルズィアでは“人ではないモノ”と見做され、忌避される対象……――はみ出し者という事だ。


「対して、テイルラットは概ね平和だ。目立った戦争は無いし、妖魔モンスターの出没も多くは無い。だから、どちらかというと商売人や技術者が多い。――ただ、妖魔モンスターは“多くはない”だけで、全くいないわけではないんだ。本当に稀にだけど、妖魔モンスターの群れが突然現れることもある。――そうなってしまうと、テイルラットの人々だけでは心許ない、という事になる」


 静かな声音で淡々と説明するシンは、普段と違って冷静で真面目な年長者に見える。何となく落ち着かなくなり、ソフィアは小さく身じろぎをした。


「……ちょっと疲れちゃったかな」

「いえ……別に」

「横になろっか」

「どうぞ」

「ううん、一緒に。ほら、ゴロゴロしようって言ったじゃない」

「嫌よ、行儀が悪い。それに、あたしはそんな事言ってない」


 顔を顰めて身を引こうとするが、させるまいと彼女の手を握るシンの手に力が篭もる。


「じゃあ、ソフィアだけでも良いから横になりなよ」

「だ、だから……あたし、一応成人した女性レディなの! 人前で横になるとか、行儀が悪いにも程があるでしょ?!」


 行儀の問題かぁ、と口の中で呟いてから、シンは誤魔化すように肩を竦めた。


「でも、後はもう、寝るだけだから。ソフィアの知らない話しが多いから、きっと聞いてると疲れるだろうし、そのまま寝ちゃったら冷えるでしょ。ね?」


 もっともらしい事を並べられ、ソフィアは、ぐ、と反論に詰まった。その様子を察したシンは、立ち上がるとベッドカバーをめくってソフィアを押し込んだ。


「ちょ、ちょっと!!」

「はい、ちゃんとお布団かけて」


 仰天するソフィアを華麗に無視スルーをし、シンは彼女の肩口まできっちりとベッドカバーをかける。そしてそのまま隣に入り込むと、横にはならずに半身だけ起こしたまま長枕に背を寄りかからせながら、ソフィアの顔を覗き込んで「眠くなったら寝て良いからね」と言い、にっこりと微笑んだ。それから、「さて、」と言葉を続ける。


「テイルラットはヴルズィアから妖魔モンスター退治に適した人材を、逆にヴルズィアはテイルラットから商売人や技術者といった、日常生活を豊かにする為の人材を。お互い了承の元、ゲートを介して交流が行われているんだ。……そして、ヴルズィアで身の置き所の無い者達も、迫害されない地を目指して、――己の居場所と、能力を発揮できる場所を求めて、テイルラットへとゲートをくぐる」

「……そんな簡単にくぐれる……もの、なの?」

「基本的には、冒険者でもある程度の熟練ベテランさが求められるね。ゲートをくぐる為には申請しなくてはならない書類もあるし、一応審査もある。ただ、もちろん例外もあるけど」


 そう言うと、シンは一旦言葉を切った。ベッドに横たわるソフィアからは、彼の目元は髪が影を作っていてよく見えない。「シン?」と訝しげな声を上げると、彼は重い口を開いた。


「それから、世界を行き来する方法は、“ゲートをくぐる”以外にもう1つある」

「……」

「ソフィアは……もう知ってるよね。ヴルズィアの商業都市エランダの北にある――」

「“奈落の滝”、でしょ」

「……うん。そこをヴルズィアから“落ちる”方法。……もちろん、滝だから“逆方向に進む”のはありえない。――つまり、テイルラットからヴルズィアに行くためにはゲートをくぐる以外の方法はないんだ」


 シンの顔があからさまに歪む。それはまるで怒りを押し殺している様にも見える。


「……よくないことなの? もしかして」

「え?」


 躊躇いがちに発せられたソフィアの言葉に、シンはハッとして顔を上げた。


「確かに公式のルートではないけど……どうしてそう思うの?」

「だって……あなたは、あたしがそこから来たのを知ってるでしょう? それで、今……なんだか怒ったみたいだったから」

「ソフィアに怒ってなんか無いよ。ただ……あの滝を、君が落ちたって考えたら……」

「いえ、落ちるつもりは」

「無かったの?」


 被せるように、シンが問う。だが、そんな気は無かった、と即答する事は出来なかった。横になったまま、言葉を探すようにソフィアは天井に漂う光る球体を眺めた。


「……分からない」

「え? ……じゃあ、事故って事?」

「いいえ……あ、いえ、そう、かも……」

「話したくないなら無理しないで欲しいけど、出来たら教えて欲しいな」


 話したくないって訳じゃ、と口の中でもごもごと呟いてから、ごろりとシンに背中を向けるように寝返りを打つ。


「……分からないの」

「?」

「……ただ、……逃げた、のは、間違いないわ……」


 目を閉じようとすると浮かぶのは、追いかけてくる松明の灯かり。耳の裏に焼き付いて離れない人々の“ソフィアという存在を許さない”と言う声。ただ、恐怖しかなかった。何人いるかも分からない村人達の数の暴力で、恐怖は何倍にも何十倍にも膨れ上がった。無我夢中で、逃げる事しか考えていなかった。先の事など、考える余裕はなかった。


「――――、……逃げたの。……逃げても何も解決しないって分かってたはずなのに、」

「良いじゃない、逃げても」


 自分を責める、弱く震える細い声を、しっかりとした強い声が遮る。


「僕は、ソフィアが逃げてくれて良かったって思ってる。君の生まれ育った場所がどんな場所だったかはまだ分からないけど、」


 ――知ったらとてもじゃないが平静ではいられない。ソフィアを傷つけた者達はただじゃ済ませない。などと、神官らしからぬ事を存外本気で思っている自分に気付き、驚いてシンは口元を片手で覆って誤魔化すようにソフィアの隣に横たわった。そして天井に浮かぶ光の球を見上げながら小さな声で呟く。


「……生きててくれて、この世界に来てくれて、本当に良かったって思ってる」


 口に出したのは別の言葉だが、こちらも本心からのものだった。だが、ソフィアは僅かに小首を傾げた。


「……良かった……のかしら? ――よく分からない」

「危なくなったら、逃げて。……まず、身を守って。お願いだから」


 言葉の通り、反応に困った様子のソフィアに気付き、シンは弾かれたように彼女へ身体ごと向き直り、まるで懇願するように祈りを込めて言った。

 そのまま、思わず横たわるソフィアの身体に手を伸ばし、後ろから抱き締める。


「ひあぁあ?!」


 素っ頓狂な声と共に、びくぅ!! と大きくソフィアの身体がおののくが、お構い無しにぎゅうぎゅうと抱き締める腕に力を込める。狼狽した様にソフィアが裏返った声を上げる。


「や、やめなさいよ! シン! ねぇってば!!」

「いやだ。だって、なんだか……」


 抱き締める腕をそのままに、シンは彼女の首元に顔を埋めながら呻く様に小さな声で言った。その声は、まるで泣き出すのを我慢している子どもの様な、頼りなさが滲んでいた。


「ソフィアがいなくなりそうで、急に怖くなった」

「……え?」

「だってソフィア、自分がいなくなっても平気そうなんだもの」

「そうね」

「いやだ」


 ぐ、と力を更に込めながら、シンは顔をしかめた。


「ソフィアがいなくなるのは僕いやだ」

「あのね……人は誰しもみんな、必ずいなくなるわ」

「それでもいやだ」

「命ってそういうものよ」

「いやだ」

「シン」


 眉を下げ、ソフィアは困惑した声を上げる。彼がどうしてそんなに執拗にソフィアの“生”に拘るのかが、ソフィアには分からない。やはり同郷である事と、彼がソフィアの“保護者”になりたがっているのが本心からだからなのだろうか。抱き締める、というよりは“締め上げる”状態で息苦しさを感じつつも、ソフィアは何とか身をよじりながら「シン、聞いて」と口を開いた。


「あたし元々、もうそんなに長くないのよ」


 瞬間、シンが息を飲むのが分かった。


「アトリの知人の医者に言われたし、自分でも薄々分かってる」


 抵抗するのを諦め、抱き締められるがままでソフィアは他人事の様に説明した。


「だから、あなたはあんまりあたしにかまけちゃ駄目よ。あなたってお人よしだから、何とかしようと走り回ったり、妙な責任感みたいなものを持ったりするんだから、絶対」


 言いながら、ソフィア自身、そうよね、と己に言い聞かせる。


「でも、言っとくけど、もう長くないからと言って、自分をおろそかにはしないわよ? 何かあったらあなたやアトリは大騒ぎしそうだから。出来るだけ身体には気を配る……配ってるつもり。一応。……いえ、今後はもう少し、……気をつける、けど」

「…………」

「でも、この町に長居をするつもりも無いわ。資金を貯めたら、知り合いのいない別の町に行って、好きな事をして暮らすの。そうなったら、あなたもアトリもあたしの事は綺麗サッパリ忘れて……」

「僕も行く」

「冗談よして」


 苦虫を潰したような顔で拒否するが、シンは何度も首を横に振って拒絶する。柔らかく……思ったよりもコシのある焦げ茶色の髪が頬や首筋に当たってむず痒い。慌ててソフィアはパシパシと彼の腕を叩いた。


「シン!」

「いやだ!!」


 ソフィアの抗議の声は、怒鳴るような激しい声にかき消された。思わず反射的にビクリと身体を震わせたが、押さえ込むようにシンの腕に力がこもる。


「いやだ……絶対にいやだ! ソフィアは死なせない。絶対。だから、ソフィアの傍にいる事もやめない。離れない!!」


 激昂して吐き捨てるように言いながら、ぎりり、と小さな身体を抱き締める手に力を込める。普段とは異なるシンに対して、小さく震えているソフィアの柔らかな両肩に指が食い込むが、お構い無しに話しを続ける。


「責任感じゃない……君は知らないかもしれないけど、僕はそんなに良い人じゃない。偽善者だし、利己的だし、短絡的だし、自分勝手だし、乱暴だし、酷薄だよ。“いい人に見える”のは単に取り繕うのが上手くなっただけ。――そして、今日まで自分でも知らなかったけど……独占欲がものすごく強いみたい」


 言いながら、シンは少しだけ腕を緩めて、ソフィアの身体を自分の方へ向けた。お互い横になっている為、普段と異なりシンが屈まなくても目を合わせる事が出来る。

 ソフィアの淡い水色の瞳は雪解けが終わる瞬間の様に儚く揺れており、対照的にシンの碧色の瞳は真夏の炎天下に生い茂る森の木々の様に力強く熱が篭もっていた。だが、途方にくれたソフィアの様子に、シンは大きく息を吸い込み、ゆるゆると息を吐き出した。それから、


「……僕のこと、怖い?」


 弱く低く、様子を伺うように発せられたシンの声に、ソフィアは困惑の色を浮かべるが、「怖くはないけど」と答えた。


「……つまり、あたしは遅かったって事かしら」

「うん。もう遅いよ。僕、ソフィアを手放す気はないからね」

「……手放す気は……って言われても、――じゃあ、ある日突然、あたしが“恋人を紹介したい!”って男の人を連れて来て、その人が“おとうさん初めまして!”って言ったら、あなたは“許さんぞ! 俺を倒してからにしろ!”って言うの?」

「…………それ、何の情報だろう?」

「世の一般的な父親は、そんなものだって聞いた事がある」

「残念。僕の回答は“却下”一択」

「え」

「それより」


 シンは改まったように顔を上げて小首を傾げた。


「たまにソフィア、“聞いた事がある”って言うけど……“誰”に?」

「え?」


 驚いたように小さく声を上げて、ソフィアは自分の口元を片手の指先で触れた。


「あと、ヴルズィアもテイルラットも、識字率はそんなに高くないんだよ。でもソフィアは共通語はきちんと読み書きが出来るし、前に“書物で読んだ事がある”とも言ってたよね。それって、何らかの方法で書物を読めていたり、文字を勉強できてたりしたんじゃないの?」

「え、……いえ、でも……」


 戸惑いを隠せない様子でソフィアは視線を彷徨わせる。隠して嘘をついている様子は微塵も無く、本当に分からないようだ。その事に気付いて、シンはすぐに彼女の頭の下に片腕を回し、安心させるように両腕で優しく包み込むと「無理して思い出さなくていいよ」と付け加えた。


「……分からない」


 柳眉を寄せてポツリとこぼすソフィアに、「そっか」と短く返すと、シンは抱いている彼女の髪に頬を寄せて天井に光る球体に目をやった。


光の精霊ウィル・オー・ウィスプ、おやすみ」


 シンの言葉に、球体は光を弱めて応えた。それが精霊だった事に思わず驚いてソフィアもシンの目線を追おうとするが、その両瞼に大きな暖かい手が被せられて視界が遮られた。


「ソフィアも。……少し時間が掛かってしまったから、今日はもう休もう? 明日はアレクのいる森に行くんだよね」

「別に、大人だから夜更かしくらい平気なんだけど」

「そう? 僕は何だか眠くなっちゃった。あったかいし……ソフィアの匂いって、何だか安心するんだよね」

「に、におい?!」

「あ、臭いとかじゃないからね? むしろ良い匂いがするー……なんだろ。甘いお花みたいなお菓子みたいな匂い」

「や、やめてよ! 嗅がないでよ!! し、失礼よ! そ、そう、そういう」

「僕、この匂い好きだ……」


 目隠しされている為見えないが、ものすごく近い位置から、ものすごく……むず痒くなる様な優しい声がした為、ソフィアは激しく動揺した。あたふたとしていると、不意に目隠しが外れた。

 慌ててシンの手を持ち上げみると、彼はソフィアを腕枕したまま、ぐっすりと眠りについていた。思わず目が点になり、次いで脱力して大きな息を吐き出した。


 そして、呆然と呟いた。



「な……なんて自由なの……この人」



 ――とはいえ、その日もシンと、そして何だかんだ言っていたソフィアも、ぐっすりと朝まで熟睡したのだった。

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