第30話 願い

 ――――あたたかい。



 ふわふわとした綿雲の上にいるかの様な温かな感覚。


 このままどこかへ飛ばされてしまうのではないか、と脳裏を過ぎるも、何故か不安やおそれは微塵も無く、今まで感じた事の無いような感覚……――安らぎ、と呼ばれるものを、ソフィアは感じていた。



(大丈夫。……この中にいる限り、あたしは大丈夫……)



 包み込む様な温もりと安心感。体中の力が抜けていく。



 ――――そして。





 信じられないほどの深い眠りの淵から目覚めた時、ソフィアは声無き悲鳴を上げた。



「―――――――――――――!!!!?」


 窓から差し込む日の光と、小鳥のさえずりで、パニック中の彼女の頭の中で「今は早朝!!」と彼女自身が警鐘を鳴らし、悲鳴を何とか飲み込む。


 だが、青褪めて強張らせた顔で、恐る恐る“それ”を見た。



 目の前に、焦げ茶色の長い睫毛を閉じたまま、ぐっすりと眠る中性的な顔の男性……



 ――訂正。目の前に、ではなく、横たわるソフィアのすぐ隣に……



 ――――訂正。寄り添い、ソフィアを抱きかかえる様にして眠る、



 ――――――シンの寝顔。



「~~~~~~っ!!?」


 かっ、と耳まで朱に染め、ソフィアは彼の腕から逃れようと身を捩った。だが、眠っているはずの彼は腕をほどかないどころか、ますます抱く腕に力を込める。



(な、な、なに? なんでこうなってるの?! なんだっけ、なんだっけ……)


 青くなったり赤くなったりしながらも、ソフィアは状況を整理しようと努めた。



(……そうだ、あたし……春告鳥フォルタナの翼亭に戻って、それで……シンが、店員? みたいな格好で、それで、あたし……)


 身動みじろぎを止めて、そっと手を己の頬に伸ばす。



(そうだ、……あたし、)


 頬に触れて懸命に頭をひねっていると、頭上から「んんー」と寝惚けた声が上がった。慌てて顔を上げると、まだ少し眠そうなシンと目が合った。そのままふにゃりと笑うシンに対し、ソフィアは近過ぎる距離に思わずぎょっと身を竦ませて固まった。だが、気にとめた様子も無く、シンは優しく抱き締める腕に力を込めて彼女の銀の髪に頬を擦り寄せた。


「おはよ、ソフィア」


 思わず耳を疑うような、寝起きで舌足らずな、甘さの漂うシンの声。


「……お、はよ……って、いや違う! まず、手! 腕っ!! 離してっ!?」


 思わず挨拶を返しかけ、ハタとして慌てて抗議しながらジタバタともがいた。一応、早朝という時間帯を気にして、声を抑えながらだったが。



「えー……まだ眠い」


 暢気に寝惚けた声を上げながらぎゅう、と抱きつかれ、再び悲鳴を飲み込む。


「ッシン! ちょっ寝惚け……っはーなーしーなーさーいーっ」


 ぐいぐいと両手を精一杯突っ張ると、ようやくシンは彼女を抱いていた腕を至極残念そうにほどいた。


「あぁー、よく寝た……やっぱり人肌って安心するなぁ」


 ふふ、と笑いながらのんびりとした声を上げて伸びをするシンを見て、ソフィアは頬を引き攣らせて身を引いた。その様子に気付き、シンは小首を傾げた。


「ん? どうかした?」

「……いえ、別に」


 微妙な顔で引いているソフィアを見て、シンは不思議そうに首を捻っている。それを見て、ソフィアは小さく息をついた。彼の場合は何も考えずに添い寝をして、考えた事をそのまま口にしているのだろうが、成人した女性に対してする事ではない。――そう思っていないからしているのだろうが。これはもう一度釘を刺さねば、とシンを軽く睨む。


「……どうせ、孤児院の子どもと同じ扱いなんでしょうけど、あたしだって一応成人した女性レディなんだから。軽々しくこういう事をしないでくれない?」


 言いながら、ソフィアは顔を軽くしかめた。慌てた様にシンが言葉を挟む。


「僕、ソフィアの事はちゃんと1人の女の人として見てるよ?」

「じゃあ何でこんな……そ、……添い、寝してるのよ」


 責める様に言いながら睨むが、かんでいる上、耳まで真っ赤になっている為、全く迫力が無い。ああかわいいなぁ、と緩む頬を片手で覆い隠しながら、シンは説明した。


「それは……昨日ソフィア、僕の服を握ったまま眠っちゃったし、起こすの可哀想だったし、僕も年末年始で疲れてたから、ソフィアの寝顔見てたらなんか安心しちゃって……そのまま?」

「え……まさか、ずっとああしてたの?!」

「ん? うん」


 さも当然といった態でシンが頷いた。思わずソフィアは言葉を失った。


「でも、途中まではちゃんと起きてたし、ソフィアが眠ったら出ようと思ったんだけど。……ソフィア、普段あんまり眠れてないでしょ」

「!」


 ぎくり、と顔が強張るが、慌てて誤魔化そうと顔を逸らす。だが恐らく誤魔化せてはいない。


「昨日はぐっすり眠ってたから――このまま起こしちゃったら勿体無いって思って」


 言いながら、シンは柔らかく微笑む。


 実際、昨夜はシンが少し身を離そうとすると、ソフィアは眠ったままながら柳眉を寄せ、小さな手を彷徨わせていた。その手を握り、そっと身体を抱き締めると、見る間に緊張が解け、眉間の皺も消え、健やかな寝息を立て始めたのだから、これで離れられる事など出来るはずがなかった。加えて、ソフィアの閉じた瞳からはしばらく涙が零れていた為、寝入るまでシンは手桶の水で濡らした布で彼女の目元を拭き取り、冷やすなど、甲斐甲斐しく世話を焼いていたのだ。そしてソフィアがぐっすりと寝入った後、帰るべきか迷ったシンだったが、彼女の温もりと甘やかな香りに誘われるがままについウトウトとし、その内本気で眠ってしまったのだった。


「僕もこんなに熟睡したの、すごく久しぶりなんだ。……最後に熟睡したのなんか、冒険者になる前じゃないかな」


 言いながら、シンは少し遠い目をした。何だか聞いてはいけない事を聞いてしまった気がして、ソフィアは視線を彷徨わせる。こういう時、気の利いた言葉は何一つ出てこない。


 ソフィアの様子を察してか、それとも偶然かはともかく、シンは朗らかな声で話題を変えた。


「そういえば、今日は何か用事ある? 仕事は昨日で終わったんだよね?」

「え? いえ……」

「あれ、まだ終わってないの?」

「……」

「……」

「……」

「……話しを聞かせてもらおうかな」


 何となく、シンの目が据わった気がして、ソフィアは引き攣った顔で目を逸らした。



* * * * * * * * * * * * * * *



 シンは外套を、ソフィアはショールを脱いだだけの普段着で眠っていた為、簡単な身支度を整えて再び2人は向かい合って座った。部屋はシンが昨日とった春告鳥フォルタナの翼亭の個室。以前ソフィアがとった部屋より広く、ベッドの他にテーブルと、セットの椅子が2つある。そちらの椅子に座り、水差しの水をグラスに入れてお互いの手元に置いてから、「さて」と、おもむろにシンが微笑を浮かべて話し始めた。


「話しを聞かせてもらえる? ソフィア」


 こういう時のシンの微笑みは、決してその表情通りのものではないと、ソフィアは既に知っていた。言うなれば、普段の微笑みは彼にとって仮面の様なもので、つまり、正に今、彼は本心から微笑んではいないのだ。

 しどろもどろとソフィアは答えた。


「別に……話し、ていうか……別に、シン、には……」

「関係あるから聞いてるの。何度も言うけど、僕はソフィアの保護者のつもりだし」

「認めた覚え無いんだけど」

「僕はそのつもりだから。で? 何があったの?」


 にっこり、とシンの笑みが深まる。思わずソフィアは身震いをした。正直に話さなくても、遅かれ早かれ確実にばれる……そんな予感がして、言いよどんでいた重い口を開く。


「や、薬草……」

「うん?」

「薬草採取の、依頼が……入ってて、酒場に」

「……」

「う、請けて……その、天気、良かったし。だから……」

「……まさか、5日前の……お昼近くから急に天候が崩れた日に、森に行った?」


 声に色があったら、確実に青褪めた声でシンはソフィアを問い質した。その迫力に押されるがままに躊躇がちにソフィアは小さく頷いた。

 息を飲む音が聞こえた気がした。ソフィアは小さく身を縮こまらせてきつく両目を閉じる。己の思い至らなさと学習能力の無さに、シンが怒りの声を上げるか、または呆れ果てた声を上げるか、どちらにせよ聞くのが怖い言葉を言われる気がしたからだ。


 だが、彼は感情を押し殺したかのような声で、静かに問うた。


「なぜ、そんな事を」


 なぜ、と言われても。――ソフィアはシンを見るのが怖くて視線を彷徨わせた。


「ソフィア」


 いつの間にか傍らまで歩み寄っていたシンが、そっとソフィアの両肩に手を置く。反射的にびくりと身を竦ませるが、シンはそのまま顔を寄せて囁くように言う。


「怒ってない。でも……僕を頼って欲しかった。行く前に、どうして一言声を掛けてくれなかったの」


 驚いて思わずシンを見ると、視線が交わった。彼はその言葉の通り、怒ってはいなかった。真っ直ぐにこちらを見詰める緑碧玉の色の瞳に射抜かれて、ソフィアは顔をゆがめた。


「頼って……って言われても、よく分からない。声を……って、だって、あなたはあなたの生活があるし、あたしはあなたに見返りを提示する事も出来ないもの」

「そんなものいらないよ」


 キッパリとシンが答える。それでもソフィアは小さく首を横に振り、話しを続けた。


「でも、あなたとあたしは他人だわ。それに、結局今まで世話ばかり掛けてるのに、この期に及んで頼みごとなんて、厚顔この上ないじゃない」

「僕がそれを望んでるんだから、気にする事ない」

「それはっ」


 今までに無い、感情の揺れが強く滲んだソフィアの声に、シンはハッとして彼女の顔を覗き込む。


「それ、は、違う。あなたが、あたしの為だから、であって……望んで、じゃない。あたしが、気にしない様に、で……」


 言葉を上手く組み合わせる事が出来ず、懸命に伝えたい言葉を並べるが、言い切ることが出来ない。ソフィア自身、腹の底から咽喉元まで込み上げる熱いものに混乱し、震える手で口を押さえる。


「あたしはただ、迷惑を、かけたくなかっ」


 た、と言い切る事が出来ず、口からは熱い空気の塊が出て行く。両目が熱を持ち、じんじんと痛む。咽喉がひりつき、息苦しく感じて咽喉元を両手で押さえた。

 だが、不意にその両手をシンが手で制した。驚いて顔を上げると、彼は片手でゆっくりとソフィアの両手を下に下ろし、もう片手の親指で彼女の目元をそっと拭った。

 そうされて、初めてソフィアは自分が泣いている事に気付いた。困った様なはにかんだ様な表情で、シンは彼女の髪を壊れ物に触れるようにそっと撫でた。


「迷惑なんて思ってないし、もっと甘えて欲しいって思ってるよ」

「そんなの、」

「そうしてもらった方が嬉しい」


 言いながら、シンはソフィアの前にひざまずいた。見上げるように下からソフィアの顔を覗き込み、じっと見詰めてポツリと呟いた。


「……困ったな」


 その声に、ハッと顔を強張らせ、必死で溢れてくる涙を止めようと両手で目をごしごしと擦った。それに気付いてシンが慌てた声を上げる。


「あ、こら、駄目だよ。擦ると目が痛くなる。――ちょっと待って」


 昨夜使った手桶に掛けてあった布を手早く濡らして絞ると、シンはソフィアの目元を布でそっとなぞった。


「……これは、あの……違う。勝手に出て来て……っ」

「――うん」

「ほんと、なんなの、あたし……なんでこんな」

「おかしくなんかないよ、全然」


 濡らした布を手にしたまま、笑みを消した真摯な眼差しでシンは断言した。その言葉に顔を顰めて目を逸らす。


「困ったって言ったじゃない」

「え? ああ、うん」

「そりゃ困るわよね。悪かったわよ。でもあたしも意味が分からないと言うか不可抗力というか」

「ああ、違う、違う」


 目を擦る手を止めず、懸命に言い訳を重ねるソフィアに、彼は遮る様に声を上げた。


「困るって言ったのは、僕が嬉しくて」

「……はい?」

「嬉しくて困っちゃうな、って」

「……」


 繰り返し言われても意味が分からず、疑問符を頭の上にいくつも浮かべながら、思わず身を引く。それを見てシンは苦笑しながら肩を竦めた。


「そこで引かないで欲しいな」

「だって、意味が分からない」

「そのまんまの意味だよ。……だって、今までソフィアが、ソフィア自身の感情を出してくれた事ってあんまり無かったから」

「?」

「泣き顔……でも、見れたのは嬉しい」


 眩しそうに目を細めて、シンはこちらが恥ずかしくなりそうな程嬉しそうに笑った。思わず反射的に「やっぱりあなたって女ったらしなの?」と毒づく。すると心外だといわんばかりに、シンは目を丸くした。


「こんな事、ソフィアにしか言わないよ」

「女ったらしの人は、色んな人に“君だけだよ”って言うって聞いた事がある」

「……誰に聞かされたんだろう。……それはともかく、僕の場合は本当。あと、女ったらしじゃないから。――その辺は誤解がある様だから、追々説明させてもらうよ」


 ソフィアの澄んだ水色の瞳から涙が溢れるのが止まったのを確認してから、シンは濡れた布を手桶に戻した。



「それで……薬草採取の依頼を請けたんだね。そこで何があったの?」

「え、えーと……迷子?」

「……」

「になって、知り合いの家に保護してもらって」

「……以前言ってた、アレク?」

「ええ」


 以前、ソフィアはシンに彼女アレクから狩人レンジャーの基礎を教わった事を話した事がある。彼も覚えていた様で、安堵の息を吐きながらも話しの続きを待った。


「結局、数日……? そこでお世話になって。……何というか、自分の駄目さ加減というか、学習能力の無さというか、」

「“学習能力”?」

「え?」

「……以前にもあったの?」


 う、と言葉に詰まる。こういう時、シンは妙に鋭い。これ以上詳しく話すのは良くない予感がし、ソフィアはそれには答えずに一気にまくし立てた。


「とにかく! 依頼も請けたは良いけど身の丈にあってなかったし、調子に乗って迷惑をたくさんかけてしまって、自己嫌悪というか、それで、頭が、ぐちゃぐちゃになって」


 膝の上に乗せていた両手に力を込めて握り締める。


「……そっか」


 納得したのかしていないのか、表情からは推し量れない様子で、シンは口元に手を当てて思案顔になる。こうしているときちんと年相応(?)の大人に見える。

 ソフィアも視線を彷徨わせて思案した。シンからは「頼って欲しい」と言ってもらえている。依頼は請けてから大分経っている。シンの言葉に甘えて、同行をお願いするのが一番良いのは目に見えて分かっている。それでも、自分の、ある意味失態を糊塗ことするために、彼を手を借りてしまっていいのだろうか、と自問する。本来なら、自身が何とか知恵や力を振り絞って対応し、どうしても駄目だったのなら己の力不足である事を隠さず説明し、誠心誠意謝罪すべきなのではないか……


「まぁた難しい事考えてるんでしょ」


 柔らかいテノールが優しく包み込む。ハッとして顔を上げると、シンが微苦笑して顔を覗き込んでいた。


「あのね、僕達は冒険者なんだから、パーティを組んでなくてもお互い力を合わせるのは普通の事なんだよ。特に、僕はソフィアには問答無用で協力するって言ってるんだから。何なら、智慧神ティラーダに誓いを立てても良いくらい」

「や、やめてやめて!! 冗談でもそんな大仰な言い方しないで!」

「え、本心からなんだけど」

「ばっかじゃないの!」

「あはは」


 からからと嬉しそうにシンは笑いながら、そのままソフィアの手を取った。そういえば、先ほどからずっとひざまずいている。気付いて椅子に座るように言おうと口を開こうとするより早く、シンは握った手に力を込めた。


「難しく考えなくて良いよ。僕には」


 緑碧玉の色の双眸がソフィアを見据える。


「どうして欲しい?」


 分かっているクセに、ソフィアの口から言わせようとしているのは間違いなかった。聞きたい、言って欲しい、と緑碧玉の色の双眸から強い意志を感じる。だが、そんな“我侭わがまま”を口にするなど、自分に許されているのか未だに心に根強い不安があり、それがソフィアをひるませる。それを分かっているのか、シンは握っていた手に、もう片手も添えて、安心させるように両手で包み込んだ。



「……依頼、に……一緒に、ついて……来て、欲しい」


 搾り出すように、ソフィアが口に出せたのは、大分経ってからだった。


 だがこれは、ソフィアが生まれて初めて“自分の意思で”誰かに協力を求めた初めての言葉で、吐き出す事にはとても勇気と労力(主に精神的な)が必要だった。

 言い終えてから、言った言葉を自身で反芻し、後悔と不安の色が彼女の目に滲む。そのまますぐに自己嫌悪に陥り掛けるが、素早くシンが満面の笑顔で遮った。


「うん! 喜んで!」

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