第29話 発露

 ――――仄暗ほのぐらい闇の中、



 そこは右も左も、更に言えば上も下も、その広さも分からない。


 その中でソフィアは確かに意志を持って存在しているはずなのだが、その輪郭は本人ですら判別出来ないほど溶け込み一体感を持っていた。



 漫然と辺りを見回す。が、それは果たしてそれは実際行えたのか、それとも「つもり」だったのか。いやそれよりも、今ソフィア自身は立っているのか横たわっているのか。

 それすらも分からない。



(――――……)




 広がる薄暗い空間に溶け込んだように、その空間に張りつけられたように、指先1本動かす事ができない。だが、不思議と焦りや恐怖は生まれなかった。

 あるのは諦めと一種の安らぎ。このまま身を任せて身体を溶かして無くしてしまえたらどんなに楽だろうか、とさえ思える。


 瞼を開いているのか、閉じているのかすら分からない中、ソフィアはゆっくりと体の力を抜こうとする。肉体と精神の境目がぼやける様に感じたその時。



 ――――ソフィア



 焦げ茶色の人懐こい半妖精ハーフエルフの青年が、遠くで手を差し伸べて微笑んだ気がした。反射的に、ごめんなさい、と口に仕掛けた途端、心に小さな波紋が広がる。



 ――――ソフィア



 森の色を切り取ったかのような深い緑碧玉の色の瞳。いつも柔和な笑みを浮かべているが、時折寂しそうな、悲しそうな顔をする。“誰かを守りたい”という気持ちが人一倍強く、何度拒否しても変わらずに手を差し出して真っ直ぐにこちらを見詰めてくれる人。



 ああ、どうしよう



 薄暗い水底のおりの様な世界で、ソフィアは顔を強張らせる。



 どうしよう、


 もし


 知られてしまったら――――



* * * * * * * * * * * * * * *



「――――っ」



 息を詰まらせ、次いで酸素を求めて大きく息を吸おうとする。だが、それも上手く出来ずにソフィアは小さな呻き声を上げた。


「おや、目が覚めた様ですね」


 落ち着いた低い声が遠くで聞こえる。


「ルーフォス、サンディを呼んで来てくれる?」


 言いながら、木が軋む音がする。誰かが椅子から立ち上がったのだ。身体が動かせないまま、目線だけ懸命に声がする方を見ようと動かすと、美しい金の髪を持つ妖精エルフの男性が、片手に閉じた書物を持ってこちらへ近づいてくるのが見えた。いつか世話になった、クナートの南の森の中に住む学者肌の妖精エルフ――アレクの伴侶の、キャロルだ。

 慌てて身を起こそうとするが、全身に力が入らない。


「ああ、まだ無理をしない様に。身体もしばらく動かし難いはずですよ」


 長い睫毛を伏せて、キャロルは薄く微笑んだ。その表情は、どことなく苛立ち、または遣る瀬無さを感じさせるものだった。彼もこんな表情をするのか、と働かない頭でぼんやりと思っていると、部屋のドアを乱暴に開けて猛スピードでアレクが駆け込んできた。



「目ぇ覚ましたって!!?」



 怒気をはらんだその声に、思わずソフィアの身体が反射的にすくむ。だが、乱入してきた彼女はお構い無しに握り拳をぶるぶると震わせながら「ソ~~フィ~~~ア~~~~~」と地の底を這う様な声で名を呼び、続けてずかずかとソフィアの横たわるベッドのかたわらまでやって来ると、一度大きく息を吸い込んでから、一気にまくし立てた。


「こんのばっかもん!!! 山ぁなめてんじゃねぇぞ!! 病人じゃなきゃぶっとばすところだ!! ゲンコツいっこで我慢するけど、危機管理なってないのも大概にしろよ!?」


 そのまま、震わせていた拳をこつん、とソフィアの前頭部に落とす。言葉の割には痛みがなく、触れる程度の拳に、逆に困惑して彼女の瞳へ視線を動かすと、空色の瞳が不機嫌そうにつりあがっていた。


「ったく……言っとくけどなぁ、私が見つけるのもう数分遅かったらほんっと、どうにもならなかったんだからな?」


 膨れっ面をしてぶつくさ言うアレクの肩をそっと抱いて優しく撫でると、キャロルは「まぁまぁ」と彼女を宥める様に頭頂部にキスを落とした。

 それからソフィアに目を向け、微苦笑する。


「かなり危険な状態だったんですよ。生きているのが不思議なくらい。――――今の貴女は、生命の精霊に大きく負荷が掛かった為、体力が非常に消耗しているんです。もうしばらく経てば、楽になるはずですから、きちんと休んでください」


 言い終わると彼自身が己の言葉に何か違和感を持ち、僅かに柳眉りゅうびひそめた。だが、その事にソフィアもアレクも気付かなかった。

 アレクは小さく息を吐くと、「そうだな」と独り言の様にポツリと言い、横たわるソフィアの顔を覗き込む。


「ったく、無理すんなよな。――――ホラ、もう寝ろ。後でパン粥でも持って来てやるから」

「…………」

「ん?」


 ソフィアが何か口を動かした気がして、アレクは彼女の小さな唇に耳を寄せる。


「…………ル……」

「る?」

「……ショ……」

「!」


 彼女の言わんとする事に思い至り、アレクはぽん、と手を打った。


「ルーフォス! ルーフォス、アレどこだ! あのホラ……アレ!」


 弾かれた様に、隣の部屋のテーブルの上に羽を休めている梟の元へ駆け寄る。彼の足元に、丁寧に畳まれた薄茶ベージュ色のショールがあった。


「ソフィア! これか?!」


 言いながら、アレクはショールを広げてソフィアの目の前に見える様に広げる。その瞬間、ソフィアの脳裏に優しく微笑む彼の顔が見えた気がした。手を伸ばそうにも持ち上げる事すらままならない。察したのか、アレクがソフィアの華奢な手にショールをそっと乗せる。布地だけではない柔らかな温かさが手の平から伝わり、ソフィアはどっと全身の緊張が抜けた。


「これ、お前のいた場所のすぐ近くの木の枝に引っ掛かってたんだ。これが目印になったから、ソフィアをすぐに見つけられたんだよ」


 遠くでアレクの声が聞こえる。



 ――生きて欲しいんだ、ソフィアに



 普段の朗らかな声とは異なる、少し低い、優しいテノールが聞こえた気がした。



 そして、再びソフィアの意識は遠のいて行った。



* * * * * * * * * * * * * * *



 ――――5日後。


 アレクに森から町の入り口まで送ってもらい、少し覚束ない足取りながらもソフィアは帰ってきた。まだ早い時間帯だからか、大通りには人通りも少ない。



(アレクには面倒掛けちゃったわね。……キャロルさんにも)


 羽織ったショールを握り締めながら、ソフィアは俯きながらとぼとぼと歩いた。心なしか頬はこけ、肩も薄く、手足は棒の様に細くなっていた。アーレンビー家では大体ベッドに横になっていたが、食欲がわかず、なかなか食事が摂れなかったのだ。それでもアレクがアレコレと工夫をし、野菜のポタージュなどで栄養を摂り、何とか動けるところまで回復したのだった。

 町に戻る旨を伝えた際は、アレクとキャロルはもっと休んでいくように何度かソフィアを説得したが、依頼を請けたまま放置している事を説明し、安静にする事を約束して町まで戻る事を許してもらったのだ。



(依頼が終わったら、まず最初に手土産を持って改めてお詫びに行かなきゃ。……とはいえ、依頼……何とか身体動くようにはなったけど、まだ万全じゃない。この状況で続けたら、また誰かに迷惑を掛けてしまう……? 力不足なのは間違いないし、店長にお詫びして依頼を辞退する方が良いのかもしれないわ)


 小さく息を吐くと、空気が白く色づいて薄れて行った。



(とにかく……まず時間も経ってしまったし、春告鳥フォルタナの翼亭に行って店長に報告と、今後について確認しよう。迷惑でなければ続けて請けていたいけど、急いでいたら大変だし)


 依頼を請ける前に見た、エルテナ神殿の様子や、疲労したアトリの顔が浮かぶ。考え無しに薬草採りなら慣れている、と飛び出した自分が恥ずかしくてたまらず、ソフィアは更に俯いた。銀の髪が両脇からさらりと零れ、両肩に羽織っているショールに掛かる。無意識にソフィアはショールに手を伸ばした。



(…………これ……)


 柔らかな手触りと、日の光を受けて淡く優しい黄色に見える色彩。何より、手から伝わる温もり。


(なくさないで、よかった……)


 ぎゅう、と小さく握り締め、ソフィアは睫毛を伏せた。



 しばらく歩くと、春告鳥フォルタナの翼亭が見えてきた。



(ええと、まず依頼の進捗が遅れているお詫びと、今後の計画プランを立てるためにもう少し時間が欲しいってお願いをしてみて、それでどう返答するかによって……)


 一度躊躇い、頭の中を整理してからドアノブに手をかけた。カラン、と金属製の鐘の音が鳴る。



「あっ いらっしゃいませ~!」



 予想外の朗らかな柔らかい声が掛かった。聞き覚えのあるその声に、ソフィアは弾かれたように顔を上げる。



「ソフィア?」



 相手も呆然とこちらを見ている。普段着のシャツを腕まくりし、黒いエプロンをつけて佇む彼は、どう見ても酒場の店員の格好だ。――だが、彼は熟練ベテラン冒険者で智慧神ティラーダの神官戦士、そして孤児院の住み込みスタッフの、シェルナン・ヴォルフォード、その人である。


 まさか彼が春告鳥フォルタナの翼亭の酒場で店員の格好をしているとは予想外で、ソフィアは思考が停止し入り口でドアに手をかけたまま固まった。

 その様子を見て、彼はふわり、と相好を崩した。


「久しぶりだねぇ 最近会わなかったから、どうしてるか心配だったんだ」


 にこにこと変わらぬ笑顔と口調で言っているシンだが、内心では“今まで通り”にして、ソフィアに警戒を持たれない様に出来る限り意識をした。それから、困惑したままの彼女に、店長が急用で出かけなくてはならなくなり、ちょうど暇をしていた自分が店番を買って出た事、年明けだから店員も不在、酒場の客も殆ど来ないため、にわか店員でも問題無い事を説明した。だが、彼女は表情を強張らせたまま固まっている。距離にして4メートルほど。ドアの向こうからの日の光が入り、逆光になっているためソフィアの表情はよく見えない。だが、どことなく前より身体が細くなった気がする。


 努めて明るい声でシンは尋ねた。


「もしかして、仕事帰り?」

「……あ……え、……ええ……」

「そっか!」


 戸惑いを隠せない様子で小さく答える声に、シンは思わず弾んだ声を上げた。


「お疲れ様だったね、おかえりなさい!」


 言ってから、ふにゃりと笑みを深める。


「ふふ、店番してて良かったなぁ ソフィアに“おかえり”って言えるの、何だかすごく嬉しいや」

「…………」


 とつり、と胸が正面から、何か細い鋭いもので突かれた気がしてソフィアは息を飲んだ。そのままショールの上から胸元へ手をやる。



(……あれ? なんだろう……なんだか)


 咽喉がひりつき、息苦しくなる様な錯覚を覚えて動揺する。


 困惑したまま視線を彷徨わせると、シンが碧色の瞳をまん丸くしてこちらを見ている事に気付いた。



(――? どうしてシンは、あんな変な顔してるのかしら……?)


 文句を言ってやろうと口を開こうとするが、上手く行かずに唇が震えただけだった。


 いつの間にかシンが近付いてくる。だが、もう先ほどと異なり、彼の表情は眉が下がり、今にも泣き出しそうな微笑を浮かべている。



(何よ……何なの? どうして……)


 意味が分からず、ソフィアは文句を言おうと唇を開く。だが、口からは声にならない細い息が零れるだけで、困惑する。俯いてショールを握る手を緩め、咽喉へ向かって手を伸ばそうとした時、手に温かい雫がぽたぽたと落ちた。



「……?」



 もう片手もあげ、両手を俯いたまま目の前に持ってくると、ぽつぽつと水滴が落ちてくる。雨漏りにしては温度を持ったその雫を見て、ソフィアは吃驚した様にぽかんとした顔をした。その表情は、幼い子どもの様なあどけないものだった。


 訳が分からず茫然とソフィアが、答えを求めるようにシンを見遣った瞬間、彼は持っていたトレイを適当に投げ出し、ソフィアの元へと駆け寄った。その勢いのまま、強く両腕で抱き締める。



「――――――!?」


 ぶわ、とソフィアの澄んだ水色の瞳から透明な雫が一気に溢れ出し、ぽろぽろと頬を伝う。だがそれに気付かず、混乱したままソフィアは、抱き締めてくるシンの腕を引き剥がそうともがく。


「ソフィア」


 離してなるものか、と両腕に力を込め、シンはかすれた声で呟いた。


「……ソフィア、大丈夫だよ」


 何が、とは分からない。だが、何であっても守るという、確固たる意志がシンにはあった。一言一言、自身に刻み付けるように、噛み締めるように、祈るように、シンはソフィアの名を呼んで両腕に力を込める。油断したら込めすぎてしまいそうになる力を、なけなしの理性で必死に抑えつけながら、シンはソフィアの小さな身体を腕の中に閉じ込めた。


 震えながらシンを押し返そうともがいていたソフィアの両腕が、不意に力を失った。慌てて腕の力を弱め様子を伺うと、彼女は気を失うように眠っていた。そのままゆっくりと崩れ落ちそうになるソフィアを、床に片膝をついて受け止めると、そのまま横抱きにした。


 そっと彼女の顔を覗き込むと、やはり随分痩せていた。ほっそりとした頬に、まだ朝露の様な雫がいくつも零れている。そっと指で払いながら、シンは目を伏せた。


 先ほどは、まるで泣いたソフィアの方が、シンよりも驚いていた様だった。透き通った美しい湖の様な淡い水色の瞳が大きく見開かれ、己に起こっている事が理解出来ていない様子だった。

 何があったのか、と胸の奥が焦燥に駆られる。だが、逆に彼女の泣き顔を見たという、感動にも似た感情を覚えたのも間違いない。今まで見た事がない、彼女の感情の発露。目にした途端、手を伸ばしていた。己の行動を考える間もなく、計算する事もなく、ただ衝動のままに抱き締めた彼女の身体は、シンが思っていたよりもずっと華奢で、あのまま本気で力を入れたら骨を折ってしまうのではないかと怖くなるくらいだった。だが、その割には柔らかで、彼女からはかすかに花の様な甘いいい香りがして、両腕に彼女を閉じ込めていると眩暈めまいがするほどの幸福感に襲われた。

 その反対に、彼女を泣かせたものに対する怒りもふつふつと沸いてくる。そして、彼女を守りきれずに泣かせてしまった自分自身に対する怒りも。


 相反する感情が心の内で渦を巻き、シンは小さく息を吐き出した。その時。



「イェア!! 待たせたな今帰ったぜ!!」


 バーン!!! と唐突に空気をぶち壊す勢いで、春告鳥フォルタナの翼亭のドアが開け放たれる。カランカランカランカラン、と派手にドアベルが鳴る。

 反射的にソフィアを腕の中に隠す様に抱きかかえ、シンは何食わぬ微笑みを浮かべて振り返った。


「やあ、店長さん。おかえりなさい」

「おう! ご苦労さんだったな! ――ん? そいつは……ソフィアじゃないか。戻ったんだな! って、何で隠すんだ? シン」

「え? うーん……何となく?」

「なぬー?!」


 派手な柄物のシャツを着た店長は、不満そうに口を尖らせた。笑って返しながら、シンはもっともらしい理由を口にした。


「ちょっと疲れがたまっていたみたい。彼女の宿まで連れて行くより、今日はここに部屋を取って寝かせるよ」

「お、そうか? ――ん? ああ、いや。店番までやってもらったし、後は俺がやっとこうか」

「いや」


 店長が手を伸ばし、ソフィアの身体に触れようとした瞬間、鋭くシンが制止の声を上げた。


「僕が運ぶ。これでも神官の端くれだからね。ソフィアの様子も診るつもり。あ、お借りしてたエプロンは、洗って後で返すね」

「おー」


 しっかりとソフィアを抱えなおし、シンは立ち上がる。それから慣れた手付きで宿帳にサインすると、ソフィアを連れてそのまま階段を登って行った。黙って見送っていた店長は、ポツリと「神官だから……かねぇ」と呟いたが、客のいない店では誰にも聞かれる事も無く消えて行った。

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