第28話 心の奥
その日、港町クナートは抜けるような青空だった。早朝は冷えて霜が降りたが、日が高く登る頃には、この時期にしては珍しく気温が高かった。そんな中、ソフィアは大通りを生成りのワンピース姿で歩いていた――――ショールで頭から
道行く人々の内、何人かは怪しい格好をしているソフィアを訝しげにチラチラとすれ違いざまに見ていた気がするが、とにかくソフィアは隠れる事を優先したかった。
* * * * * * * * * * * * * * *
聖夜祭の翌日から、数日が経っている。
ふとした瞬間に、真っ直ぐこちらを見詰める緑碧玉の色の双眸がフラッシュバックする。彼の口が脳内再生で動く。君を守りたい、と。
だが、脳裏に浮かぶたびに、途中で強く顔を横に何度も振ってその記憶を振り払おうとした。彼の揺らがない、隠そうとしない強い想いの衝撃を、まだ受け止めきれていないのだ。
……――言ってしまえば、あの時ソフィアは逃げた。
『ばっかじゃないの! 言う相手間違ってる! 世の中には言って良い冗談と悪い冗談があるのよ! もういい! あたし帰る! ついて来ないで!!』
と一気に捨て台詞(?)をまくし立て、ビックリと目を丸くして固まるシンを置き去りにして、……灯台から遁走したのだ。
(だって……他に、どう言えば良かったっていうの)
ショールを顔の前で両手で握り締め、ソフィアは俯く。守らせて欲しい、とシンは言うが、ソフィアは自分を守って欲しいなどとは思っておらず、もっと言えば彼にそんな事を言って欲しくは無かった。
はみ出し者の自分に
結局、灯台でシンの前から逃げ出して以降、シンに会わないように、覚えたばかりの
そんな日々の繰り返しだ。
それでも、ソフィア自身、シンに会った時にどう反応したら良いか、まだ分からなかった。
(……それに)
ゆっくりと、ソフィアは俯いたまま歩くのを再開しながら思案した。
(こうして避けてても分かる。――あの人の周りには、いつもたくさんの人がいる)
はっきりと彼の口から聞いたわけではないが、ソフィアの境遇を察している様子からすると、彼もヴルズィアでは辛い目に遭っていたと思われた。それでも、今の彼には居場所があり、周囲に彼を大切に思う人々と、彼が大切に思う人々がいる。
そこまで考えて、脳裏に再び彼の顔が蘇る。
――――『これからは、どうか僕に君を守らせて欲しい』
「――っないから!」
思わず、小さく声に出してしまってから、ハッとして辺りを見回す。幸い、行き交う人々に声は届かなかったようで、皆一様に忙しなく行き来していた。まるでそこに、ソフィアなどいないかの様に。
何となく目で人々の流れを追ってから、小さく息を吐く。まるで誰にも自分が見えていない様な、そんな錯覚に陥り、むしろ安堵している自分に気付き、小さく顔を
(いつの間に、こんなに逃げる事に慣れてしまったのかしら……甘えだわ)
視線を彷徨わせてから、ぎゅ、と両目を強く閉じる。
(シンに会うのは……少し、間を空けたい。もう借りは返したし(途中で逃げだしたけど)、会う必要はあたしにはもう無いもの。それに、シンだって、少し頭を冷やした方が良いと思う)
そっと瞼を上げて、ソフィアは人の流れの向こう側、遠くを見詰める。
(あたしになんて、構わなくていい。――ちゃんと自分が幸せになる事を考えなさいよね)
そう思いながら胸が小さく軋んだが、気付かない振りをしてソフィアは歩調を早めた。
* * * * * * * * * * * * * * *
今日はアトリに年末の挨拶がてら、お礼の品を渡すべく、エルテナ神殿を訪れる予定だった。ベルトポーチには念入りに選んだ押し花がついた
身を隠しながら(?)町中を歩いて来た為に少し時間が掛かったが、ようやく神殿の石造りの門が見えた。周囲は人通りも少なかった為、ソフィアは頬っ被りしていたショールを外し、自身の肩に羽織った。門をくぐる前に念のため身だしなみ……といっても、手でスカートの皺を伸ばしたり、髪を撫で付けたりする程度だが――を整え、いざ、と足を踏み出した時、
「ほわぁああぁぁぁぁあぁーーーーー!!!」
奇妙な悲鳴――もとい、奇声が上がり、ソフィアは目を点にしたままその場で硬直した。
「だだだだ駄目です駄目です待って待ってストップですーーー!!!」
奇声の
「…………な、なに?」
呆然と、かろうじて一言問うと、「あっ」と彼女――アトリは慌てて居住まいを正した。
「驚かせてしまいましたよね、ごめんなさい……」
眉を下げながら詫びるアトリに、ソフィアは「別に驚いてない」と応えつつ、訝しげに見詰める。
「なんて格好してるのよ……掃除、って訳じゃ無さそうよね」
「あ、大掃除はもう終わってるのですが」
口元を覆っていた布を下げつつ、アトリはしばし言い澱む。だが、意を決して言葉を続けた。
「以前、南区で流行っていた病が、終息したかと思っていたら……今度は北区で大流行し始めまして。今、神殿の中は流行り病の患者さんでいっぱいなんです」
「え」
クナートの北区は戦士や騎士の宿舎、そして戦神ケルノスの神殿があったはずだ。
「……ケルノス神殿には行かないの?」
「
「? 何よ」
「神殿に所属する神官が神の奇跡を行使すると、――それ相応の寄付金を神殿に収めて頂く必要があるのですが、一般の方にはとても負担が大きいんです」
言いながら、アトリは顔を翳らせる。
「……それは、知ってるけど……」
「エルテナ神殿は、一般の方の負担が少ない薬草治療も行っていますし、あと、ケルノス神殿は町の防衛の拠点でもありますから……患者さんには、出来るだけエルテナ神殿に来て頂いているんです」
だが、アトリを含めたエルテナ神殿の神官たちを多少なりとも知っているソフィアは、何だか釈然としない。目の前にいるアトリは、大分疲労しているのか、いつもより笑顔に力が感じられない。それを見ていたら、理由は分からないが無性に腹立たしくなった。
だが、実際に町の安全を守るという点からすると、こうせざるを得ないという事も薄々分かった為、ソフィアは言葉を飲み込んだ。
その様子を黙って見ていたアトリは、嬉しそうに相好を崩した。
「大丈夫ですよ! わたしもセラに薬草の知識を教わってますし、神殿には薬師の方もたくさん来て下さってますから!」
どん、と自分の胸を握り拳で叩き、アトリは胸を張ってソフィアに微笑んだ。
「薬草の追加も、冒険者のお店に採取依頼上げていますし! エルテナ神殿の底力を発揮して、あっという間に……は無理でも、全力で治療しますから!」
薬草の治療は、一瞬で済む“神の奇跡”による治療と異なり、回復に非常に時間がかかる。その為、しばらくエルテナ神殿は流行り病の人々で埋め尽くされるのだろう。
落ち着いたら連絡する、と手を振るアトリに見送られ、ソフィアは栞を手渡すタイミングを逃したまま、すごすごと神殿を後にした。
(――? さっき、アトリ……冒険者の店に薬草採取の依頼を上げてる、って言ってなかった?)
ハッとして、
騒々しくならない様に、且つ店内に“彼”がいないか警戒しながら、努めてそっと扉を押し空ける。幸い、丁度食事時の時間とはズレていた為か、“彼”はおろか、店内に客は誰もいなかった。
「いらっしゃいませ、ソフィア様」
いつもの店員の挨拶に目礼で応えながら、早足で掲示板へ向かう。果たしてそこには――エルテナ神殿からの薬草採取の依頼の羊皮紙が、最前列に貼られていた。
(ほ……ほんとにあった)
目の当たりにすると改めて現実感が沸き、ソフィアはよく読もうと羊皮紙に顔を寄せる。
依頼事項:薬草採取
報酬 :銅貨5枚~銀貨3枚(1種1袋につき/種類によって報酬は異なる)
採取対象:カドロデア、エキナセア、タイム、エルダーフラワー、カモミール
報告先 :エルテナ神殿 侍祭
(全部山で見た事がある……多分)
羊皮紙の文字の上を指でなぞりながら確認する。――と、唐突にソフィアの背後に、効果音が「BAAAAAAN!」と入りそうな勢いでアフロの頭髪をした巨漢が現れた!
「よーぅソフィア! 依頼を請けるか?! イッツ★オーライ!!」
「きゃあ!?」
思わずソフィアは悲鳴を上げて飛び上がり、次いで顔を赤くして盛大に不機嫌そうな表情を浮かべた。だが彼はスルースキルを発動させて続けた。
「リアリー? じゃ、YOUに任せた!!」
「え」
今日のアフロ店長が身に付けている黒眼鏡は、今日は何故かレンズの部分が星型だ。いつもにも増してテンションが高い上、なにやら怪しい。おかしい。こんな店長だっただろうか。――思わず思い切り後ずさるが、気にも留めずに店長は軽やかに身を翻しながらエルテナ神殿の依頼の羊皮紙を掲示板から華麗に剥がすと、受付の書類を作成し始めた。
「ちょ……あのっ ね、ねぇ、あたし冒険者じゃないんだけど、そんな簡単に良いの?」
あまりの勢い(と怪しさ)に狼狽して声を掛けるが、彼はニカッと歯を見せて笑いながら「大丈夫だ!」と言いきった。
「俺の方で登録しておく!」
「へ……はぁ?!」
「任せろ!」
「ちょっ……」
「ここにサインだソフィア!」
「え、あ」
「よぅし、オーケィだ! グッジョブ!」
「…………」
という事で、
* * * * * * * * * * * * * * *
――――が。
「…………え」
薬草採取の為、クナートの南に位置する林に足を踏み入れたソフィアは、呆然と立ちすくんだ。
ハッキリ言って寒い。
ものすごく寒い。
先ほどまで晴れていた空は、急に日が翳り雲行きが怪しい。
(う、嘘……今日、あったかかったのに……っ)
木々の隙間を冷たい風が吹き荒れ、呻るような音が聞こえて、ソフィアは身を固くした。
身体全体に寒風を受け、生成りのワンピースとショールという軽装のソフィアはぶるぶると震えだす。ここに来る前までは晴天で気温も高かった為、今日はアレクから譲り受けた外套は身に付けていなかったのだ。己の
「……うぅ」
無意識に小さく声を上げる。これはいけない、帰らなくては、と頭の中で警鐘が鳴る。震える足を動かそうとしたその時、一段と強い風が吹きつけ、ソフィアの頭部の高い位置に2つに分けて結い上げられた銀の髪が、自身の顔の前に覆いかぶさる。
「あっ」
小さく声をあげ、慌てて両手で髪を押さえた時。
ふわり、とソフィアの肩にかけていたショールが、強風によって空高く舞い上がった。ソフィアの顔から血の気が一気に引いた。
「!!!」
反射的に手を伸ばすが、ショールはあっという間に木々の向こうへ運ばれて行く。
「待って……っ!!」
必死に声をあげ、無我夢中でソフィアは駆け出した。
* * * * * * * * * * * * * * *
一方その頃、南区にある孤児院では、年末恒例の大掃除が行われていた。とはいえ、子ども達は遊ぶ事に夢中になっており、実際に掃除をしているのはスタッフである大人たちだけなのだが。
ちらちらと雪が降り始め、大喜びで外で遊ぶ子ども達を、目を細めて窓越しに見守りながら、本棚の位置を調整していたシンに、柔らかな声が掛かった。
「シンさん」
振り返ると、栗色の髪の女性がはにかんで佇んでいた。
「お疲れ様です。お茶が入ったので一休みしませんか?」
「あ、うん。ありがとう、嬉しいな」
ぱ、と笑顔になり、シンは手を止め、彼女がお茶を用意したテーブルへ足を向けた。テーブル上にはティーカップと手作りのクッキーが乗った皿が並べてあり、シンが席に着くタイミングで温かな紅茶がカップに注がれた。
「毎年だけど、大掃除って大変だねぇ ミアちゃんもお疲れ様」
「ありがとうございます……でも、シンさんがいてくれるから、本当に助かります。私では本棚の整理は出来ても、調整や移動はどうしても難しくて……」
「あはは、僕のとりえは力仕事だからねぇ」
肩を竦めて笑いながら、シンはカップを手に取り紅茶の香りを楽しんだ。
「重いものは残しておいて大丈夫だから、ミアちゃんは細かい部分をお願い」
「はいっ シンさん、頼りにしてます!」
薄っすらと頬を赤らめて、彼女は嬉しそうに笑った。その姿を見て、チクリとシンの胸が痛む。この言葉を“彼女”から聞けたら、と考えかけて、慌てて思考を止める。
「あ、そういえば」
丁度タイミングよく、思い出したかのようにミアが表情を翳らせながら口を開く。
「以前南区で流行していた病ですが、今は北区で流行しているそうです」
「そっか……ここの孤児院からは遠いけど、それでも気をつけなくちゃね」
「はい……何だか怖いです」
「大丈夫だよ。ここの院長は引退はしたけど
「そうですね……それに、その……えっと、シンさんもいらっしゃいますし」
「うん、もちろん、僕も微力ながら手を尽くさせてもらうよ」
「微力なんて! ……すごく、心強いです」
じっとシンを見詰めるミアの黒い瞳に、シンは「ありがとう」とやんわりと微笑んで応えた。だが、心の中ではぼんやりと、美しい銀の髪の少女の事を考える。
――――ばっかじゃないの! 言う相手間違ってる!!
守りたい、と伝えたら、耳の先まで真っ赤になって噛み付くように抗議し、そのまま止める間もなくシンの前から走り去って行ったソフィア。あれからずっと彼女に会えていない。
今、どうしてるんだろう、と目を伏せる。どうしたら伝わるのだろう、どうしたら近づけるのだろう、どうしたら、どうしたら、どうしたら……――会えない間、ずっと心の中で自問しているが、答えはまだ見付からないままだった。
* * * * * * * * * * * * * * *
――――その頃のソフィアは、森の中の大きな木の
(いたたたた……っていうか、なんで雪?! さっきまで晴れてたのに、なんで急に?!)
木の
(っていうか、これってアレだわ……あの、アレ。よくある……)
寝 る な ! 寝 た ら 駄 目 だ ! !
(っていう、アレ!! 聞いた事ある!)
あわわわわ、と口を
(……――え、待って。何で寝たら駄目なの? 遭難してるのに危機感無い=駄目な人って事?)
ハッとして考え込……んでから、えっ、と顔を上げる。
(あれ? ちょっと待って。あたし遭難してるの? 町の近くの森で??)
いや、ないない、と首を横に振りながら、懸命に状況を整理する。
(ええと、急に風で飛ばされちゃったショールを追って森に入ったら見付からなくて探してたら戻り道が分からなくなってそしたら雪が降ってきて、問題ないかなって思ってたけど風が強くて顔とか足とか素肌が出てる部分が攻撃受けて地味に痛くて思わず目に付いた木の
びゅううぅぅ……と一際高い風の呻る音が響き、ソフィアの思考が一旦止まった。
(……し…………してる、のかしら……)
認めたくないが、状況としては限りなくそれに近い自覚はあった。力なくソフィアは膝の上に顔を埋めて、そっか、と呟いた。
断続的に風の音が響き渡る。木の
外の音は風の音だけで、生き物の気配は全くと言って感じられない。聖夜祭当日の神殿や、翌日の町に、あんなに大勢人がいたのに、その近くでこんなに静かな場所があるのか、と暢気にソフィアは感心した。
膝に頭を乗せたまま、ぼんやりと景色を眺める。この森は落葉樹が多いらしく、立ち並ぶ木々は枝を残すのみだった。薄っすらと雪化粧された地面には、枯れた草がところどころ揺れている。
(……――あ)
ゆるり、とソフィアのまぶたが下がる。
(ほんとにねむくなるんだ……)
それと同時に、身体も先ほどより温かくなった気がする。奇妙な感覚だが、それでも
(もしかして……このまま眠ると、――死ぬのかしら)
真っ暗な視界の中、ぼんやりと思う。
(そうか……ええと、何かあったかしら。持ち物は……背負い鞄1つ分だし、中身もそんなに……あと、宿の人にはちゃんと…………)
靄の掛かる思考の中で、淡々と確認する。しながら、「ああ、大丈夫だ」と妙に納得して安堵した。不安事項は何も無いはず。
(……あ、)
だが不意に、脳裏に鮮明に真っ直ぐこちらを見詰める緑碧玉の色の双眸が蘇る。
――――生きて欲しいんだ、ソフィアに
(――――!)
息を飲む。
――――“僕が”ソフィアに生きていて欲しいの
(そうだ、あの人が知ったら……)
――――これからは、どうか僕に君を守らせて欲しい
(“守れなかった”って、きっと自分を責めてしまう……)
震える睫毛を何とか上げて霞む目を彷徨わせ、不意にショールが無い事を改めて認識する。その途端、心が凍りついたような寒さを感じた。
(どう……し、よう……)
緩く思考が停止していく中、少し癖のある焦げ茶色の髪の
* * * * * * * * * * * * * * *
森の中、彼女は彼女の伴侶の使い魔である梟と共に、クナートから帰途についていた。
精霊使いである彼女の周りは、風の精霊の加護によりある程度緩やかな空気に包まれている。そのはずなのに、不意にひゅ、と短く風が耳元を横切り、彼女は長い睫毛を動かした。
「……なんだ? 精霊がいつもよりざわついてるな」
空色の瞳を
「ん?」
注視すると、応える様に
「ありがと、ルーフォス」
礼を言って受取ってから、アレクはその布を観察する。
「……町に行く時にここを通った時は、無かったはず」
整った柳眉を
「ルーフォス! 誰かいるかもしれない! 空から捜して!」
鋭い声で指示すると、梟は無音で空へ舞い上がり飛び去った。
「精霊たちも、お願い! 力を貸して!」
言いながら右手で緩やかに曲線を含んだ印を宙に描く。すると、彼女の周りの空気が一斉に動き出し、ふわりと広がっていく。それと同時に、アレクはショールを丁寧に畳むと、自身も
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